第10回
正神に奇跡無し


前回(第9回)では、「邪神ですら真理を説くのである。九割は正神の言葉を盗んで真理を説き、残り一割で見事に騙す」と邪神の老獪さを以て人を知らず知らずのうちに獣へと導く事を警告した。

そして、それは肉体人間が「知」で判断するからであり、「知」は重要だが、それだけでは何とも進まなくなる旨も併記した。


が、これは読者諸兄のように理知的かつ論理的に物事を思考する能力を有することを前提とした話であり、世間は広く、正邪の批判眼を持たぬ感覚至上で、「いい大人」であるにもかかわらず、およそ頭脳の知的活動から懸け離れた人々が悲しいことだが非常に多いのが現状のようである。


よって「知」で判断する以前に、「感覚」に血迷うことを先に憂慮し、警告せねばならないようである。


この「感覚至上主義」ともいえる傾向は平和呆けした日本国において特に激しいことは誠に悲しいことである。

商行為においても売らんが為に制作される宣伝は、近年より一層コンピュータグラフィックを駆使して映像に趣向を凝らして、あたかも魅力的商品であるかのような過剰演出は目に余る。

中身は全く同じ商品でありながら、パッケージを変えることで売り上げを伸ばそうと姑息な手段を採る販売方法も今では常識のようである。

テレビショッピングの煽りにあっては不快感さえ覚えるのである。

企業間の競争は熾烈を極め、現金をいかに自社に多く集めるかに全ての力が注がれる。

貨幣経済を社会システムの根幹とする地球惑星では金に縛られている以上、今のところは致し方の無いことではあるが、
企業は魅惑的画像を伴う宣伝、もしくは恐怖感を煽る宣伝などによって新たな需要を作り出して行き、消費者は商品個々の批評をすれども意識の根底で操られるトレンドに抗しきれず、いつしか企業の売上増加計画に乗せられていく。


乗せられて踊るから、企業もまたより一層手の込んだやり方で激しく「笛を吹く」。


マネーの流れを止めれば窒息する地球惑星企業が売り上げを獲得し続けるには、大衆を「洗脳」し続けることが第一に必要だからである。


「感覚に弄ばれず、まず知を働かせよ。そして理念を発動せよ。」である。


しかし、現実は作り上げられたブームに乗って(いや乗せられて)、「他人(ヒト)が行くから我も行く、他人がやるから我もやる、他人が買うから我も買う」といった自己確立のない薄っぺらな消費者がよくもまあここまで増えたものだと驚愕する。
それだけ感覚に踊り踊らされる「いい大人」が多いと言うことであろう。


・・・『ソレって、本当に必要なモノですか?


徹夜して列を為して並ぶ必要があるのですか?


そんなに話のネタが必要ですか?


他に高尚なネタはないのですか?


そんなことをするために生まれてきたのですか?


ソレが出来たら最も大事なことを置き去りにして死んでもいいのですか?


明日あなたに命はありますか?


他の人ではない「あなたが」ソレをすることにどんな意味がありますか?


誰のためにやっているのですか?


「我れ善し」ですか?


八割の他人がやると自分もやらないと不安ですか?


その八割が天に唾(つば)して、滅びの方角へ歩いていく人達であってもですか?』・・・



ここに地球人の間で揶揄(やゆ)されている日本人の話がある。


・・・・

タイタニック号が沈みつつあるとき、女性を先にボートにのせるように船長はまず、
イギリス人にこう言った。

『あなたたちはジェントルマンです』


次にアメリカ人に言った
『ヒーローになれます』


それからドイツ人に言った
『それがルールです』



最後に日本人に言った

『みんなそうしていますから』


・・・・・。




さて、こうした傾向は宗教始め、近年のスピリチュアリズムをも激しく侵蝕してきている。


このシリーズでは、波動が全てであり想念波動が人類の未来を決する故に、想念の在り方が全てであると再三再四に渡って書き連ねてきた。

極端な例では、たとえ邪教に入信してその誤った教説を聞こうとも、その信者の理念が確かなら正神につながり、正神の御箴言を百万遍唱えても、その理念が我欲で曇り眠っていれば、紙に書いた知識でしかなく、その者の行く末は暗黒の境涯へと落ちていくとまで書いた。


今の地球惑星人に必要なのは、我と欲によって踏み外した迷妄文明からの脱却なのである。

不徳と迷妄の原因である我欲を捨て、
心を正すこと、

即ち悪想念の制御こそが第一義である。


これを覆い隠して愛を百万回叫んでも、今まで通り地球は何も変わらないばかりか時が迫って来ているのだから、むしろ事態は悪化していくのである。


『冷水に身を置きて温かきを乞い願うが如し』とはこのことである。

「冷水に身を置きて」即ち悪想念まみれの業想念層にどっぷり包まれながら、「温かきを乞い願う」即ち愛と平和を願い祈っても地球は灰になる他はないのである。


残念ながら地球は愛の心に生きる惑星人は甚だ少ない。
よって宗教に限らず、一般に愛を教え説こうとすることは道理のように見えるが、愛のみを前面に打ち出して、想念作用とその影響力を説かない者達の背後に邪神・邪霊が暗躍することを知らなければならない。

優良惑星人はその暮らしが惑星を越えた同胞への奉仕であり、その暮らしが峻厳にして深い愛の実現であり、日々が学びであるから愛一辺倒の話を聞いても、曲解も誤解もなく己のものとして正神につながるが、地球人のような不良惑星人が、自らの想念浄化・想念制御を棚上げにして、愛一辺倒の話を聞いても不確かな感覚に酔いしれるだけなのである。


そうでないというなら、一例として動物と人との愛を描いた物語に感動した直後に動物を屠殺した死肉に舌鼓を打って貪るなどどうして出来ると言うのか。

どうしてそこに愛があるというのか。

愛と履き違えた「我れ善し」(われよし)の自己の愛、差別の愛、独占の愛、執着の愛、嫉妬の愛、果ては色欲の愛、所有欲の愛へと際限なく獣化して行く。

愛と付記されているだけで、すべて愛の皮を被った我欲ではないか。


このような多くの地球人に只今すぐに愛の実行を求めても無理というものである。

そして現実的には困難な愛の言葉のみを飾り立てて説く者達の背後には邪神・邪霊が暗躍していると言うのである。


一大天譴とアセンションを前にして、最後の仕上げとばかりに総力を上げてより巧妙に勢いを増してきているのである。

心ある者はこれらに酔いしれてはならない。

愛念を発する事の出来ない者、
愛の行動を立ち上がって起こす事を知らない者に、
愛をどんなに耳障り良く、
聞こえ良くして美辞麗句で飾っても効果はない。


寧ろ、耳障りよく飾れば飾る程、感覚に酔いしれ、
解ったような気になるだけなのである。

今日の出版物、
電波放送、
インターネット上で溢れかえる如く、
愛・愛・愛・愛と無闇(むやみ)に愛のみを説くのは地球人には不可能に近い愛を説いて上辺を飾り、想念作用を隠蔽する意図のある邪(よこしま)な贋物(にせもの)と知らなければならない。


愛を表現するなといっているのではないし、愛の言葉や愛念を軽んじてよいと言っているのでもない。

愛を説く前に、心を正す想念制御とその浄化が第一義であると言っているのである。

これを説かずして愛のみを説く者達の背後は全て邪神・邪霊であると言って断じて過言ではない。



地球上で言われるような愛は、遙かなる昔日からその時代を反映しながら愛・愛・愛・愛と反吐(へど)が出るほど語られてきたではないか。


その結果どうなったか。


地球人類は今まさにその文明の終焉を迎えようとしているではないか。


自ら営々とそして累々と蓄積した業想念の自己崩壊が具現化する天災地変の「ガス抜き」によってである。


ガス抜きだけで終わればよいが、第五惑星(実は第十二惑星も)のように核炸裂から全球破壊、そして小惑星化にまでなだれ込めばこれに勝る惑星人の大罪はない。


人類のみならず、同朋の動物、奉仕の植物、ありとあらゆる生きとし生ける同朋の進化の道程を歩むための足場を未来永劫奪い去る天上天下の大罪である。


負のエネルギーで膨満した業想念は、愛のみを説き想念作用とその影響を隠蔽してきた者達によって「大事に育てられて」きたのである。その正体こそがシリーズ第9回で言及した地球の流星化・小惑星化を目論む邪神・邪霊なのである。


地球惑星人の唯物主義者に抗して、別の地球惑星人のスピリチュアリズムに共鳴するその気概は神の誉むるところではあるが、邪神・邪霊はここでも罠を仕掛けて、進化・向上を自ら目指す意志ある見上げた魂を食い物にして獣化への誘惑をささやき続けるのである。


「そうは言っても地球人はそこまで愛なき惑星人でもあるまいに」と思うなら、地球人類の大多数の者達の心の動きを観察してみようではないか。


地球惑星人の間でよく見かける光景に、同朋が己の非を指摘したような場合、大方の地球人は先ず立腹する。

感謝の心でこれを受ける者は少なく、その指摘が的を得ている程に、その腹立ちは激しく、同朋を憎んだり恨んだりする。



≪悪の気断ちて下されよ≫


・・己の心中に悪想念あればこそ、その同朋の口を借りて「悪」となって己自身に忠告しているのである。


その同朋がもし悪意をもって発言したならば、これはその同朋の≪悪の気≫悪想念ログに新たなカルマを積み上げたことになり、誠に「気の毒な恩人」なのである。新たなメグリ(カルマ、業)を積んでまで、友のメグリを取り除いたその同朋は「気の毒な恩人」である。まして、悪意なく吾が友を思えばこそ厳しく手痛い忠告をしているのならその恩人を恨む、憎むなどもっての外である。


また、会社組織などにおいて、同僚、同朋が(現世的ではあるが)出世し、順風満帆なその姿を見て妬み嫉み羨んで、程度が激しい場合はその出世を妨害したり、泥を塗って卑しめたりするのである。

更には己の不徳を知らしめる為に自ら招いたその身の不遇に対し、不平不満の心を爆発させる。

また、己の無知故の迷妄にもかかわらず心配し、善悪を超越して正しく生きる努力もせずして己のみが正しいと勘違い甚だしく、他を責め、咎め、攻撃する心を起こす。

また物事に執着し、互譲の精神を置き去りにして、他を押しのけて我先にと利権に群がろうと焦燥心を起こす。

いずれも悪想念甚だしい波動である。

こうして日常茶飯事に悪想念を出し放題に出すことを放置し、改善させようとはせずに、口に慈悲だの愛だの真理だのと説いて、言葉の遊びに終始し、それによって魅惑、陶酔させる者達の背後は邪神・邪霊である。


日々の暮らしの中で腹の立つ自分をよく観察し、その腹立ちの原因は己の心のどんな欠陥からもたらされているのか明らかにしていかねばならない。


それが「気付き」である。



気付きは己で掴み取るものである。他人に言われてこうすればいいああすればいいとうマニュアルなどないし、あったとしてもそれを読んで自らによる気付きがなければ、単なる知識でしかないのである。


想念制御の妙は己で掴み取らねばならないのである。


そのために文字情報や先達の言に知識を求めるのは一向に構わない。

そこで知って解ったような気になるのがいけないのである。

解った気になり、天狗になって慢心を起こし、益々他人の忠告に腹を立てるようになる。

気分だけはすっかり聖者であるが、その実はどんどんと愚か者へと成り下がっていく危険を常に孕んでいることを忘れてはならない。


本当の気付きを自ら得て成長する程、人は謙虚になっていく。

日本国では宝暦の世に生まれ(安永、寛政、文化を生きて)天保に散った二百年前の我欲なくして大悟に至った人「良寛和尚」はこの手本である。

仏を説いて地獄に落ちなかったばかりか大悟に至ったのは親鸞上人と良寛和尚ぐらいのものである。

更に言えば、忠告する相手に対して腹を立てると相手も次第に忠告さえしなくなる。

会社組織(特に中小零細)などにおいて、ワンマン社長さんは最終人事権を持っているため、器の小さい社長さんの場合、取り巻きは「報復人事」を恐れて何も言わなくなる。

互いに「我れ善し」が集まった組織の典型であろう。


耳に痛い忠告は聞きたくない社長始め重役さんと、忠告して報復されるなら黙っておく部課長さんや社員さん・・こうなると社長・重役は裸の王様である。

だれも忠告してくれないためいつまでも己の非に気付かずまたその欠けた所に関しては成長できず素っ裸でご満悦なのである。

『会社はその社長の器以上に大きくならない(規模だけの話でなく)』といわれるのはこのためである。

忠告が耳に入らない社長さんは快適であろうが、霊的に見ればもう終わった人である。お気の毒としか言い様がない。

ここで忠告された側が

「全くそのとおりだね。忠告有難う。」

感謝で返した時、今度は忠告した側の程度が試されるのである。

「忠告有難う。」
の素直な言霊に対し、最も多い反応は、少し恐縮し、時には照れながら
「解ってくれればいいんだ。」とする普通の人の反応。

次に多いのが
「どうだ俺の言うとおりだろう。参ったか。」と言わんばかりの得意げな顔に満足の文字を躍らせる愚かな小物の反応。

そして滅多にお目にかかれないのが「いやいや言い過ぎました。申し訳ありません。」と頭を下げる大物の謙虚な反応。


これらは年齢の上下組み合わせに関係無しである。

気付きとは相手の程度をも一瞬にして見抜くことにもなるのである。


そうした己に内在する悪想念の元に気付いていく度に、
「自分とはこんなにも汚く穢れた、幼い、薄い、浅い存在であったか」と衝撃を受けるはずである。

気付きとは自己嫌悪に陥る実に辛い作業なのである。


この気付きの切っ掛けの最たるものである他人からの忠告に、怒りと恨みで返す心のどこに愛念発動の能力があるといえるか。


「自分発見の旅に出ます。」
(by'イケてる俺')

・・・片腹痛いとはこのことである。

自分発見とは現実からの逃避ではない。

それがどれほど辛く厳しい事であるか。

己の不甲斐なさにどれほど愕然とし、涙する事であるか。

自分発見は旅行気分の旅先にはない。日常生活の泥の中に埋まっているのである。


また、真の自分発見という辛い作業を続けることがどれほど脆(もろ)いものか。

感覚と知識のみの陶酔世界へ引き返す道は正道の横にいつでも並行して走っているのである。


≪道踏み外すでないぞ。≫




感覚に血迷う者達を騙すのは簡単至極である。

超常現象、奇跡、不可思議現象を起こして、口に愛だ慈悲だと唱えれば、「これこそ神の奇跡です。素晴らしいですね。ああ、何という幸せでしょうか。」とコロリ、コロリと心酔、陶酔していく。
感覚的に魅力を与えるものは知的であるとはいえない。


肝腎なのは奇跡を起こすことではなく、その教義や訴えるところに「想念作用、特に悪想念の制御」があるかどうかである。

心を正すことを説かず、飾った言葉と奇跡現象で外観を繕う魅力的、感覚的な似非ものに惑わされてはならない。



≪霊媒通じてこの世に呼びかける霊の九分九分九厘は邪霊であるぞ、はげしくなるぞ≫


≪祈り祈り結構と申して、邪の祈りは邪の道におちるぞ。

色々のお告げ出ると申してあろうが。

今その通りぢゃ。

お告げに迷うぞ。審神して聞けと申してあろう。≫

≪奇跡では改心出来んのであるぞ≫

≪正神に奇跡はない、奇跡無いことが大きな奇跡であるぞ≫

≪人民というものは、奇跡見ても、病気になっても、中々改心出来んものぢゃ。

死後の生活がハッキリ判っても、未だ改心出来んのぢゃ。

それは外からのものであるからぢゃ。

マコトの改心は、中の中のゝのキ頂いて、ホッコンの改心出来ねばならん。≫

≪ 死後の生活知らすことはよいなれど、それのみによって改心せよと迫るのは悪のやり方。

奇跡を見せ、病気を直してやるのもよいのぢゃが、それのみによって改心を迫ってはならん。

それのみで道を説いてはならんぞ。

そんなことくらいでマコトのホッコン改心が出来るならば、人間は遠の昔に改心して御座るぞ。

今までの宗教は滅びると申してあろうが。≫

≪自分よくしてくれと申しているが、これは神を小遣いに思うているのぞ。

おおきくなれよ。≫

(神は人の小間使い、御用聞きではない。
人間の欲なる願いなど叶えない)


≪お蔭は、すぐにはないものと思え。
すぐのお蔭は下級霊。眉にツバせよ、考えよ。≫


≪まかせ切らねばマコトの安心立命ないぞ。

まかせ切るには、まかせ切って安心出来る神をつかまねばならん。

お蔭信心や病気直しの神ではまかせ切れまいがな。早う合点結構ぞ。≫

≪霊眼で見たり霊耳で聞いたりすることは間違い多いぞ。
心せよ。≫

≪ ウヨウヨしている霊がかりにまだ、だまされて御座る人民おおいのう。

何と申したらわかるのであるか、奇跡を求めたり、我れ善しのお蔭を求めたり、下級な動物のイレモノとなっているから、囚われているから、だまされるのぢゃ。

霊媒の行いをよく見ればすぐ判るでないか。

早う目覚めよ。

因縁と申しながら、可哀想なから、くどう申して聞かせているのであるぞ、マコトの道にかえれよ≫


≪悪神憑かりたなれば、自分ではえらい神様がうつりていると信じ込むものぞ。

可哀想なれど、それも己の天狗からぞ。

取り違いからぞ。霊媒の行いよく見ればすぐ判るでないか。

早う改心せよ。

霊のオモチャになっている者多い世の中、大将が誰だか判らんことになるぞ。先生と申してやれば皆先生になって御座る。

困ったものぞ。≫


≪心して、怪しいと思うことは、たとへ神の言葉と申しても一応は考えよ。

神の言葉でも裏表の見境無く唯に信じてはならん。
サニワせよ。≫

≪神憑かりよくないぞ。
やめて下されよ。

迷う臣民出来るぞ。

ほどほどにせよと申してあろうが。

皆々心の掃除すれば、それぞれに神かかるのぢゃ。≫

(まさに優良惑星人)


≪ その時、その人間のキに相応した神より拝めん(その人間の想念に応じた神しか拝めない)。

悪いキで拝めば、どんな立派な神前でも悪神が感応するのぢゃ。

悪神拝んでも正しき愛と喜びあれば、善き念が通ずるならば、悪神引っ込んで、それぞれの善き神現れるのぢゃ。この道理よく心得よ。≫



≪高い心境に入ったら、神を拝む形式はなくともよいぞ。

為すこと、心に浮かぶこと、それ自体が礼拝となるからぞ。≫

(宗教がなく、神社・仏閣・聖堂など勿論ない優良惑星人の生活そのもの)


≪都会へ都会へと、人間の作った火に集まる蛾のような心では、今度の御用出来はせんぞ。

上っ面飾りてマコトのない教えのところへは、人は集まれるなれど、マコトの道伝えるところへは、臣民なかなか集まらんぞ。

見て御座れよ、いくら人少なくても見事なことして御目にかけるぞ≫

(八割二割・魅力や感覚に迷うなかれ。)

優良惑星人はその一人一人が一なる創造主、
≪元の元の元の神≫
に心の波長を合致させることにのみ注力するのでり、いかなる他力に頼ることもない。

波長がピタリと合致している限り、他力に頼らずともあらゆるものが他力となって己を支え返すのである。

「自力」による「他力」である。

即ち「悪想念の制御」による「進化向上の順当なサイクル」である。

この悪想念の制御がままならぬとき人はその身を大地に打ち付けるのである。その痛みに気付いて心を正していくべし。

正神に波長を合わせ、想念制御を全うする時、自ら求めずとも幸いを湯水の如く与えられるのである。

深く厳しい自己の想念制御を為し得た者だけが手に入れる揺るぎない幸いである。

邪神・邪霊が最も嫌う心。それは「感謝の念」「和する心」である。
「悪」を嫌ってはならない。「悪」を責めてはならないとするのも「悪」を憎んで悪想念を盛んに発することこそが悪であり、その悪想念が邪神・邪霊を大喜びさせ、力を与えることになるからである。。

「悪」は悪でない。

「悪」に見えるその背景事情をよく知性と理念の心眼をもって観察せねばならない。

理由あっての「悪」である。『善悪を超越して正しく生きよ。』


善きにつけ悪しきにつけ、進化・向上のため自ら選び、また与えられた課題である。『感謝の生活を為せ』


≪苦労、苦労と申しても、悪い苦労気の毒ざぞ。

善き苦労花咲くぞ。

花咲いて実結ぶのざぞ。

人民苦しみさえすればよいように早合点しているなれど、それは大間違いざぞ。

神の道無理ないと、くどうもうしてあろうがな。≫


≪何事が起こってきても、そなたはまず喜べよ。

それが苦しいことでも、悲しいことでも、喜んで迎えよ。

喜ぶ心は喜び生むぞ。

人民喜べば、神喜ぶと申してあろが。

天地晴れるぞ、輝くぞ。≫


≪褌(ふんどし)確りと締めてかかりてくだされよ。≫



本日これまで。


以下は「心の道場」様のサイトです。このブログのシルバーバーチャンの偉そうで、キツイ文書なんかより深い深い愛が伝わってきますよ。今回の記事に直結する内容です。

■シルバーバーチに見る"真実の愛"
愛を安売りする風潮の中で、本物の愛を求めて と題したニューズレターです。

一部、超古代文明や異星人に関して否定的な箇所がありますが、純粋にスピリチュアリズムを求める立場がそうすることもあるし、シルバーバーチャンの記事(第9回)「地球惑星人の来歴」で既述したように、地球人類の置かれた立場を理解することが大事であり、どこに古代文明があったかなどは問題ではありません。このサイトの「どうでもいいことにこだわってはいけません」は、本質さえ掴めたなら「どうでもいいこと」で、その通りです。

地球人に必要なのは悪想念の制御と正しき愛の学習ですから。

優良惑星人の存在は、その後であたなの目で確かめてください。心の道場さんも、その時「ヒョェー!!」と思う・・・かも?


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