第9回
邪神・邪霊

夜明け前、いよいよ激しく巧妙に


現存地球人類の歴史以前には既に4つの時期に4つの大文明が存在していた事を第8回で扱ったが、この数千万年の時期を少しずつでも霊位・霊性が進化・向上しているならば仮令(たとえ)その歩みが遅くとも良しとせねばならない。広大無辺な宇宙間の全ての存在は一なる創造主、叡智者の大愛へと向かって進化するように仕組まれており、この進化の流れに乗ってさえいれば、その歩みが速ければ良いというものでもなく、遅くともそこには必ずそれなりの意義があることである。

同一の魂が、ある転生の舞台では大変な学びをして大幅に進み、ある転生の舞台では平坦で平凡な人生を送るなどして他生との比較においては大した学びのないこともある。(とは言っても、それはそれで他の転生のためにもそれなりの意義があり、'無駄な転生''無駄な人生'など無いのである。)


肉体人間としては何事もなく平々凡々と暮らせれば、思い煩うこともなく、比較的楽な人生を送れることは間違いない。
が、そこには大した学びはない。しかし、その魂はその前の世で息をもつかせぬ激動の人生を歩んで大変な目に遭い、そこから大悟して多くを学んだかもしれないのである。

そして今回の転生には「骨休め」的な意味もあって、穏やかな一生なのかも知れないし、穏やかな人生という体験も必要なのである。

一魂の一人生の中でさえ、緩と急があるではないか。

どうであれ、魂の転生とそのシナリオは人智では計り知れない深遠な計画であり、与えられた事には順境であれ逆境であれ、それなりにその魂がこなすべき「課題」があり、そこには必ず意義があり、感謝せねばならないのである。

それが中々出来ないからこそ不良惑星人として何千万年も転生を続けてきたのである。

さて、生命・魂は生物として肉体を持ち物質界に生き、死して霊界入りして物質界での己の想念ログを振り返り、そこに不備があれば反省し、その不備を次の世の課題として勇んでこの世に出てくる。

今度こそ「クリアできなかった課題をこなすんだ」と。楽に越えられる課題など進化には繋がらないことは自明の理である。

そのために様々な障害に遭遇する。

転生先の様々な時代を背景にして、人とぶつかり、金に苦しみ、健康を損ない、息の詰まるような人生の閉塞感に苛まれたりと、それはそれはありとあらゆる負の出来事を何百回、何千回の転生の中で体験してくる。

しかしその負の出来事は「己の鏡」であって、根本的に負ではない。

己に不備あれば、何らかの形でその心に欠けたところがある為、課題として具現化するのである。

物質界で体験する本質的には悪でない「悪」も本質的には不幸でない「不幸」も、心の欠陥に気付くために必要なものなのである。

欠陥なくばその悪も必要ないといえる。

悪に見える「悪」はどこまでもいつまでも存在するが、無効か有効かという問題である。悪の種があっても水をやらねば悪の芽は出ないといえばよいか。この水とは即ち惑星人の悪想念のことである。

日月神示ではこれを

悪は悪にのみ働きかけ得るのであるぞ。

善に向かって働いても、善はビクともせんのぢゃ。

ビクつくのは、悪に引き込まれるのは、己に悪あるからぞ。

合わせ鏡と申してあろうが。

悪の気断ちて下されと申しておろう。

心の鏡の凹凸なくなれば、悪うつらないのざ。

悪はなきものぞ。

無きとは力無きことぞ。

悪あればこそ向上するのであるぞ。

悔い改めて弥栄するのであるぞ。


と表わしている。


悪に見える「悪」とは 何も犯罪ばかりではない。

不幸も悪とするなら、先天的に肉体に不具合があったりするのも悪に見える「悪」である。

それが過去世に仕出かした何らかのカルマ(業)の償還として反省し、進化・向上するため、苦痛体験を積む場合もあるし、カルマ(業)ではないが敢えて五体に不具のある肉体を選んで転生し、社会的弱者の心情を推し量れる愛の度量を備えようと修行に出てくる場合もある。

実に勇ましい魂である。
敢えて不具の身体を纏って転生したような場合は、不良惑星人としては最終段階の高い位置にいる可能性は大である。これをどうして「悪」と呼ぶ必要があろうか。

だからといって「悪」と和合せよというのではない。

己の心の中の悪想念こそが悪である故に、その≪悪の気断ちて下され≫ということである。

即ち悪想念の制御である。現象として起こる「悪」は悪ではない。
容赦すべし。

悪を見て義憤(正義の怒り)を我慢することではない。
容赦すべし。

我慢は、表面上取り繕って平静を装えば赦しと見えるが、内心に怒りとなって渦巻けば、その我慢はもう悪であると言っているのだ。
容赦すべし。

各国の映画に見るように、特に日本は勧善懲悪(善を勧めて悪を懲らしめる)という単純・短絡正義を美徳としてきた精神文化がある。

「悪は徹底的にやっつけ」て
「めでたしめでたし」
という傾向が大変強い。

その中で
悪を抱き参らせ
悪憎まず、(己の)悪の気断ちて行くのだから大変な修行である。

しかし我慢ではない、容赦すべし。

例えば、殺人事件が起こった場合、地球社会では単に殺害された被害者を不憫(ふびん)と思い、加害者を八つ裂きにしても赦すまじとするが、

その加害者は激怒の波動に同調してその加害者に入り込んだ負のエネルギー、即ち、地球人のいう恨みの念を持った背後の地獄霊や邪霊により、前後の見境を失って殺人という暴挙に出ることが多い。

また、その被害者は嘗(かつ)て前の世、前々の世で加害者であった場合も非常に多いのである。

そしてこの加害者は次の世で殺人事件の被害者となることも十二分にあるのだから、加害者も被害者も
(己に内在する)悪の気を解消できずに、カルマを背負い、巡り巡る因果の中で負のスパイラルダウンに落ちていくのである。

生まれ変わって死に変わり、殺して殺されて
≪悪の気≫を断ち切れぬまま苦しい転生を繰り返しているのである。

即ち悪想念の極みをカルマとして抱きつづけていく誠に哀れな魂である。

この業がなければ殺人事件に巻き込まれることもない。

即ち≪悪は悪にのみ働きかけ得るのであるぞ。
善に向かって働いても、善はビクともせんのぢゃ。
ビクつくのは、悪に引き込まれるのは、己に悪あるからぞ。
合わせ鏡と申してあろうが。
悪の気断ちて下されと申しておろう。
心の鏡の凹凸なくなれば、悪うつらないのざ。
悪はなきものぞ。
無きとは力無きことぞ。≫
である。

タネのないところにいくら水を撒いても芽は出ないのである。

殺人に限らず、日々の暮らしの中に起こる事象は、善きにつけ悪しきにつけ、「タネ」があり、何かをきっかけ(水)にして現象化するのである。よって、原因は己にある故に、順境にも逆境にも感謝が必要であると言っているのである。

さて、こうした進化のサイクルに乗りながら様々な動物としての生物の肉体を経験して、遂に自我意識の発達を得て、未開人類となり、不良惑星人類とその霊界人、優良惑星人類とその上級霊界人、上級人霊となり、更に更に大愛を学び、遂には肉体を必要とせず、次元を上げながら、時には人類の導きのため三次元に転生する高級霊人となり、更に高級霊(ここまで来るともう「個性」も欠片(かけら)程しか残っていない。

個性を最大限発揮するのは不良惑星人の時代である。)更に聖霊、更に更に神々となり、一なる創造主へと近づいていくのである。

勿論この根源の神、創造神を凌駕することは決して出来ない。

創った存在を造られた存在が越えることは出来ないからである。

また、こうした分類は三次元人類のための便宜であり、厳密なものではないし、言葉に捕らわれてはならない。

優良惑星人は当然の概念と事実として、これらの尊体の御存在と御働きを、その精神感応力を以ってよく得心し感謝の念と共にあるが、特に不良惑星人の段階では、自らを「万物の霊長」と称して、その思い上がりも甚(はなは)だしい。

「万物の霊長」などと思い上がっているからこそ、命の同朋である動物らを屠殺して食料とすることが、常識として罷(まか)り通る社会を形成し、業想念に屠殺された動物等の憤怒(ふんぬ)、悲哀、怨恨等悪想念を蓄積しておきながら、顔色一つ変えずにいるのである。

さて、不良惑星人の爛熟と崩壊の悠久の歴史を、共にして来た別の者がある。
宇宙間には進化のサイクルに逆行する存在がいるのである。
超マクロ的な意味では、この逆行する者たちも存在を赦される以上、必要な存在なのではあるが、存在を赦されることを良いことに、実によろしくない働きをする。
太古の4つの文明においても現代文明においても、その背後で暗躍し、地球人類の理念を眠らせようと肉体人間を操って画策し、唯物思想を蔓延させる一方、その対極である宗教も作り出し、この宗教を利用して世の中を毒すなど、財界、政界、宗教界の隅々までその負の影響力凄まじき存在である。

地上では邪神・邪霊と呼ばれる存在である。以下はこれら邪神・邪霊の発生についてである。

彼ら邪神・邪霊といえども、気の遠くなるような太古においては元々人間であり、三次元にまだ転生できている頃は不良惑星人として宇宙間の不良惑星に存命していた。

ただし、地球上では既に4つの時期に4つの大文明が各地に勃興しては滅亡してきたが、これらの迷妄文明に生きた不良惑星人、即ち現存地球人類へと転生してきている魂が邪神・邪霊になったわけではない。

第8回の記事の通り、地球は誕生して若い星であるため、未だ邪神・邪霊が発生したことはないのである。

そして来るべき業想念の自己崩壊による一大天譴とアセンションにより今後邪神・邪霊が地球上で発生することも最早ない。

しかし、一大天譴と同時に核大戦を引き起こし、全球核炸裂により、アセンション後の地球の足場となる三次元地球惑星を小惑星化しようと目論んでいるのである。

この動きさえなければ一大天譴は回避不能として大量淘汰が実行されても、アセンションは予定通り実行されるのである。

しかし、仮令邪神・邪霊と呼ばれる者達が存在しようとも、
≪悪の気断ちて下されと申しておろう。心の鏡の凹凸なくなれば、悪うつらないのざ。悪はなきものぞ。無きとは力無きことぞ。≫であるように、これも地球惑星人さえ悪想念を発しなければ、そして動物達の屠殺や生体実験により業想念に負のエネルギーを蓄積しなければ、邪神・邪霊も何の影響力もないことを断言しておく。地球惑星の命運は地球惑星人の想念とその想念に裏打ちされた行動次第なのである。


では、如何にして邪神・邪霊が発生したかの経緯は、太古に遡って次のとおりである。

現在の地球惑星に跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)する邪神・邪霊らは太古の昔、不良惑星人として棲息していたが、魂の進化・向上の道を逆行し、地球人のいう無間地獄という次元に墜ちてしまった者達が起源である。生きている人間でさえ自分が人として向上する喜びを味わう時、その心に訪れる幸福感に歓喜するものである。しかし、反対に何年も何年も同じ事の繰り返しで、目から鱗の落ちるような学びなどない時、心は沈み鈍感となり、目先の悦楽を見つけでもすればまっしぐらに沈溺(たんでき)していくものであろう。目先の悦楽や気晴らしのある肉体人間は、魂の進化・向上なく虚無に暮らしても、心的苦痛は少ないが、精神が剥(む)き出し状態であるような霊体では進化・向上こそがその喜びと活力であるため、緩慢な無聊(ぶりょう:何も無く退屈なこと)と虚無は想像を絶する苦痛なのである。この地獄に落ちた者達を地獄霊と呼ぶなら、この地獄霊達は何百年間も何千年間も間断ない苦痛にあっても反省もなく、生命進化のサイクルに乗ることも無く、益々苦痛は累積して呪い怨む念を盛んに起こすようになる。そして肉体をもって暮らしていた地上生活を思い起こして、地獄の次元から脱出しようともがき苦しむようになる。
地上では相変わらず悪想念を欲しいままに発しつづけ、特に呪い怨む念を発する不良惑星人に、波長同調性の法則により(ラジオの周波数を合わせると特定のその周波数を持った電波を受信するように)、その地獄霊は地上の不良惑星人に憑依する機会を得るのである。ここが後に邪神・邪霊へと成長していく出発点である。

一たび地上の肉体人間に憑依した地獄霊は、地獄次元の苦痛に比べれば、この憑依は快適この上ないため、簡単なことではその呪い怨むことが性根になってしまっている肉体人間から離れることがない。その人間が死んでは次の人間に、またその人間が生きているうちでも時に他の肉体を渡り歩いて何万年何十万年の憑依経験を積んで、どんどんと老獪(ろうかい:歳を取り世俗の経験を積んで狡猾なこと、ずるがしこいこと)になって、遂には不良惑星人を支配する能力も身に付けていく。支配するとは単なる憑依ではなく、本当に操るほどの能力である。現地球惑星各国家の政治指導者の殆どにこうした邪神が這って支配しているのである。邪霊は、肉体人間に憑依して渡り歩く期間が数百年から数千年と浅い邪神予備軍である。

現今の邪神・邪霊は、このシリーズ第1回の最後に『更に地球はオリオン星人の影響も多分に受けることになった。オリオンは琴座、ベガ星人、シリウスの子孫であり、いずれ述べることになるが地球と良し悪しは別として密接な関連がある。ここではオリオンは激しい「戦場」であったとだけ言っておく。』と述したように「戦場」であったオリオン星座の不良惑星から来たものが多い。『オリオン星人の影響も多分に受けることとなった。』としたが、厳密にはオリオン星座の各不良惑星で発生した邪神・邪霊というのが正しい。また、太陽系では冥王星から、土星外星からも大挙して地球に押し寄せてきている。その他は他の不良惑星からの邪神・邪霊である。
これらの邪神・邪霊も太古のオリオンなどでは肉体をもって棲息し、死して地獄霊となっていた者が、先の経緯を経て邪神・邪霊になったのであり、地球霊界の地獄霊が最早邪神に成長する時間はないため、同じ憑依でも地球惑星人に地球霊界の地獄霊がとり憑くこととは同じではない。
地獄霊は、地上生活時の己の心の誤りによって、地球霊界の地獄界という次元に墜ちて間もない者、何百年と地獄にて暮らす反省の遅れた者達である。また邪神・邪霊は再び霊界に戻ろうとは決してせず、肉体人間を渡り歩いて暮らすのに対し、地獄霊は肉体人間から肉体人間を渡り歩くために憑依すること自体を目的とする者は少なく、肉体人間に救いを求めるために憑依する者が多い。または、既述のように、地上生活中の怨念を晴らすために憑依するものも多い。いずれにせよ、その目的を果たせば肉体人間から離れていく霊体である。特に波長同調性により先祖子孫はその家系の業を巡って数世代間同じ家系内で転生して、同じ霊性を有するものが家族、先祖子孫として集うことがよくある。この波長の同調性により暗黒の境涯に落ちた先祖が子孫に救いを求めて災いすることもある。苦しめるための憑依ではなく救いを求める典型である。地球惑星人は我が子孫に頼って災いをもたらす醜態を晒(さら)すことのないよう醒悟していかねばならない。

この記事から離れる読者が現れる始めるのもこの頃であることをシルバーバーチャンは知っている。邪神・邪霊と聞いて拒否したり、否定の心、疑念の心を惹起するのは、内に邪霊を既に抱えんでいるか、それらと同体となりつつある証左である。
シルバーバーチャンは、この地球惑星人の越えねばならない大峠の前に、耳障りのいい愛の言葉を説くことはない。真理の言葉を盗略して、美辞麗句で飾り、人心を知らず知らずに曇らすことなど邪神には朝飯前のことである。
邪神ですら真理を説くのである。九割(90%)は正神の言葉を盗んで真理を説き、安心させ、残り一割(10%)で見事に騙す。邪神ほどの老獪な存在であるが故に出来ることである。平等を説き、平和を語り、人心を美辞麗句に酔わせ、「いざ、いざ行かむ」と神の顔をして、人を獣へと導くのである。それは肉体人間が「知」で判断するからである。「知」は重要ではあるが、知のみにては何とも進まなくなる時が来る。ここに必要なのが曇りなき理念である。理念で判断すれば、理屈や理論や知識は二の次三の次となるのである。しかし、精神感応力を持たない不良惑星人には簡単なことではない。だからそこ言葉を尽くさざるを得ないのである。しかし、言葉には限界がある。日月神示でいう『神一厘の秘策』は一割(10%)で人を欺く邪神を、更にその一厘(1%)で欺き返す『元の元の元の神』の秘策なのである。邪神ほど老獪な存在に見破られぬ秘策は、進化のサイクルに乗った神々といえども、その中には秘策が何なのか確りとは判らぬ御尊体もあられるということである。ましてや、1秒先も判らぬそこいらの不良惑星人に見通せるものではない。

日月神示の助けを借りれば≪まことの善は悪に似ているぞ、まことの悪は善に似ているぞ。よく見分けなならんぞ。悪の大将は光り輝いているのざぞ、神の印つけた悪くるぞ。悪の顔した神あるぞ。≫
「知」のみにてはどうにもならない世に既に突入しているのである。

そして、現今の日本で、世界各地で不良良惑星人の中には霊波に感応しやすい霊感の強い者もあり、宇宙の御尊体と邪神・邪霊の区別もつかず、邪神・邪霊の傀儡(操り人形)となって、正神の真理を大方において語り、その中に「ひょいひょい」と落とし穴を作って霊感の無い者の背後まで邪霊を「感染」させているのである。彼等にも霊能力があることは確かだが、優良惑星人の有する正神と繋ぐ超能力ではなく、邪霊と繋がるその心に≪悪の気≫あれば、いかにして人を導くか。どこへ導くというのか。地獄へであるか。世に奇跡や不思議現象を起こして、世人の瞠目を集める花々しいレイノウシャには関わらぬが賢明である。
≪夜明け前(シルバーバーチャン注:一大天譴とアセンション)になると霊がかり(シルバーバーチャン注:霊能者)がうようよ、勝手放題まぜくり返すなれど、それもしばらくの狂言≫
≪ウヨウヨしている霊がかりにまだ、だまされて御座る人民おおいのう、なんと申したらわかるのであるか≫
≪早う目覚めよ、因縁と申しながら、かわいそうなからくどう申して聞かせているのであるぞ、マコトの道にかえれよ≫

シルバーバーチャル星の他、優良惑星人の棲息する社会には、地球のような神社・仏閣・聖堂等凡そ宗教的施設は存在しない。教義を持ち、教祖を崇め、偶像を崇拝し、徒党を組んだ挙句にいつしか選民思想に染まり、各宗教宗派で対立し、救われたいの欲心で一心熱心に献金し、散財し、教団は「営利団体」と成り果てて教勢を競い合う必要など微塵もないためである。地球人の信者らが、清貧を旨として暮らすことは一概に悪いこととは言わないが、その動機が間違っていることが多い。現世での欲を抑えて堪(こら)えて、自己犠牲の上に教団に尽くし上げ、その教義を世間に広く浸透すべく、日夜活動する姿は一見結構なことのようだが、その心根は「現世での栄耀栄華は諦(あきら)めて、あの世で救われたい。あの世で極楽に行きたい。」との欲心開花のステージを「この世からあの世にすりかえただけ」の事が多いのである。欲を捨てなさいとする教えを「あの世で報われるから」という欲で実行している矛盾である。現世利益を謳(うた)う教団・信者にあっては論外であり言葉もない。
勿論、中には誠に殊勝な信者もおり、正神に繋がる者も極々々々稀に存在する。こういう信者は何もその宗教に入信したから正しい道を歩んでいるというわけではない。進化・向上の正しい道、即ち生命進化のサイクルに乗り、静意(しずこころ)にて内省し、日々の事象を己の心の写し鏡として、己の心に欠けたところを正し行き、多くを学んで理念を磨き上げた者は、たとえ邪教に入信すれども正神の波長に同調する道理である。反対に仮令、正神の御言葉に触れようとも、その心に≪悪の気≫を抱え、即ち悪想念を欲しいままに日々を放縦に過ごせば、正神のその御言葉は単なる知識であり、その行く末は暗黒の境涯となるのも道理である。

少し長くなるが日月神示でも同じ下りがあるので、以下にその一部を謹んで引用させていただく。

≪真の信仰に入ると宗教に囚われなくなるぞ。

真の信仰に入らねば、真の善も真の信も真の悪も真の偽りも判らんのぢゃ。

今に岩戸開いてあきらかになったら宗教いらんぞ、政治いらんぞ。

高い心境へ入ったら神を拝む形式はなくともよいぞ。為すこと、心に浮かぶこと、それ自体が礼拝となるからぞ。

右の頬を打たれたら左の頬を出せよ。

それが無抵抗で平和の元ぢゃと申しているが、その心根をよく洗って見つめよ。


それは無抵抗ではないぞ、打たれるようなものを心の中に持っているから打たれるのぞ。


マコトに居れば相手が手を振り上げて打つことは出来ん。よく聞き分けて下されよ。

笑って来る赤子の無邪気は打たれんであろうが。

これが無抵抗ぞ、世界一家天下泰平ぢゃ。


左の頬を出すおろかさをやめて下されよ。


まことの善は悪に似ているぞ、まことの悪は善に似ているぞ。


よく見分けなならんぞ。


悪の大将は光り輝いているのざぞ、神の印つけた悪くるぞ。


悪の顔した神あるぞ。


信仰を得て霊的に病気を治すのは一瞬には治らんぞ。


奇跡的に治るとみるのは間違い迷信ぞ。


時間もいり手数もかかる。


物も金もいる。


大き努力いるのであるぞ。
取り違い多いのう。


この神のもとへ来て信心さえしていたら善いことある様に思うているが、大間違いぞ。


この方のもとに参りて先ず借金取りに借金払いして下されよ。


苦しいこと出来てくるのが御神得ぞ。

この方のもとへ来て悪くなったと言う人民遠慮いらん帰りてくれよ。

そんな軽い信心は信心ではないぞ。


結構な苦しみが判らん臣民一人も要らんのぞしっかり褌締めてついて御座れよ。


この方悪神とも見えると申してあろうがな。


この道に入ると損をしたり、病気になったり、怪我をすることがよくあれなれど、それは大難を小難にし、またメグリ(シルバーバーチャン注:カルマ、業)が一時に来てその借金済まし(注:業の償還、消滅)をさせられているのぢゃ。


借りた物は返さねばならん道理ぢゃ。


長い目で見て良くしょうとするのが神の心ぞ。


目の前のおかげではなく永遠の立場から良くなるおかげがマコトのおかげ。


天国を動かす力は地獄であり、光明を動かす力は暗黒である。


地獄は天国あるが故であり、暗は光明あるが故である。


因が果にうつり、呼が吸となりゆく道理に於いて歓喜は更に歓喜を生ず。


その一方が反抗すれはするだけ他方が活動し。また強力に制しようとする。


この道は因縁なくては判らん難しい道であれど、この道貫かねば世界は一平にならんのぢゃ。


縁ある人は勇んで行けるのぢゃ。


一日一握りの米に泣く時あるぞ、着る物も泣くことあるぞ。


元の神代に返すというのはたとえでないぞ。


穴の中に住まなならんことも出来るぞ、生の物食うて暮らさなならんし臣民取り違いばかりしているぞ。


何もかも一旦は天地へお引き上げぞ、われの欲ばかり言っていると大変が出来るぞ。


官は潰され御分皆、火にかけられ灰となる。


この世の終わり近づきぬ。


さあ今の内に神得積んでおかんと八分通りは獣の臣民となるのざから、二股膏薬ではキリキリ舞いするぞ。


キリキリ二股多いぞ、獣となれば同胞食うことあるぞ、気付けておくぞ。


牛の食べ物食べると牛のようになるぞ、猿は猿、虎は虎となるのざぞ。


臣民の食べ物は定まっているのざぞ。
四つ足は食ってはならん、共食いとなるぞ。


草木から動物生まれると申してあろう。

臣民の食べ物は五
穀野菜の類いであるぞ。


獣の食い物食う時には、一度神に献げてからにせよ。


神から頂けよ、そうすれば神の食べ物となって何食べても大丈夫になるのぞ。


神に献げきらぬと獣になるぞ。


日本のてんし様が世界まるめて治めす世と致して天地神々様にお目にかけるぞ。


てんし様の光が世界の隅々まで行き渡る仕組みが三四五の仕組みぞ岩戸開きぞ何もかも神に捧げよと申してあろうがな、それが神国の民の心得ぞ、否でも応でもそうなって来るのざぞ。


物、自分のものと思うは天の賊ぞ、皆てんし様のものざと申してあるのにまだ判らんか。


神にとけ入れよ、てんし様にとけ入れよ立て直しと申すのは世の元の大神様の御心のままにすることぞ。


御光りの世にすることぞ。てんし様の御稜威輝く御代とすることぞ。


三四五とはてんし様の稜威出づことぞ。神が世界の王になる。


てんし様が神と判らん臣民ばかり。


富士は晴れたり日本晴れ、てんし様が富士から世界中にみいづされる時近づいたぞ。≫


本日これまで。


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