シリーズ第15回 『神々の正体(その3)』
先回の最後に「病気治し」を標榜するものには宗教教団である場合から心霊手術や宗教とは言えぬものまで裾野が広いと記したが、単に裾野が広いだけでなく、その内容に関して言えば、「病気治し」を標榜するものの背後の'神々'は真偽、正邪、高低、正否が入り乱れて、その正体を見破るのは容易ではない。
「病気治し」に関しては、高邁な真理を解くことはない(できない)低い次元の存在が背後に在っても、そこに正義感や愛念が見られる場合もあり、反対に高邁で普遍的真理を説く高級霊が背後に在って援護する場合でも、対象となる肉体人間の進化のため敢えて病気を治さないこともあるため、病気が治る治らないという視点だけで判断しがちな肉体人間からしてみれば理不尽に感じることもある。ケロリと治っても、実は邪神が邪霊を取り除いて欺いている場合もある。
この事を踏まえて、今回(第15回)では、「病気治し」の背後の真偽判別の原則を記して大方の参考に供する事ができればと思う次第である。

宇宙間の不良惑星はいずれの惑星においても、病が多種多様に発生し、惑星人の病苦が絶えることなく、それを治療しようとする医療機関が存在するものである。地球惑星も例外ではなく、その治病方法には大別して、所謂近代西洋医学に基づく現代医学的方法論により「病変した患部」を切る、焼く、貼り付ける、縫い合わせるなどして除去してしまう発想及び薬理作用のある物質を服用する、貼付や塗布して経皮吸収する、吸引する、血管に注入するなど医薬の化学反応で目先の症状を一旦沈静化させ、その間にうまくすれば自然治癒力が何とか治すだろうとする方法など、根本原因に手を加えることなく'外力'で攻撃的に治そう(または治ったようにしよう)とする流れと代表的には人体の骨格的歪(ひず)みの調整により神経圧迫を取り除き主に自律神経の調整を図ったり、または針等により電気的歪(ひず)みを調整して自律神経の調整を図ったり、その他いずれも外科的手術や薬理作用によらず、自律神経調整を主にして自然治癒力を引き出し、'現象界の範囲内での根本的'な方法によって元から治そうとする流れがある。鍼灸、整体、カイロプラクティック、ホメオパシー、オステオパシーから足ツボ、気功、波動共鳴まで攻撃的近代西洋医学以外にも代替療法と呼ばれる実に様々な手法が地球惑星には存在する。これらの真偽と効果は別稿に譲るとして、これら言わば'現実的'方法による治療の他に、ここで述べるのは心霊や神の名のもとに治療する所謂霊能者、祈祷師、拝み屋等の特殊能力者や宗教教団等によるものの背後についてである。

さて、先回(第14回『神々の正体(その2)』)において、題目、御利益、平和の祈りに共通する邪神邪霊の画策は、想念波動とその作用を隠蔽して、さも善を勧めるかの如く、九割は正しき神々、善霊の説く真理を盗略して説いて、残り一割で肉体人間の我欲に付け込み欲を煽り、また善男善女の正義の心を逆手にとって咎め、憎悪、怒り、攻撃、非難、誹謗などの悪想念を放散させることが狙いであると既述した。この狙いは邪神・邪霊が背後で暗躍する場合、「病気治し」を標榜する団体や個人の背後にも共通して見て取れる。
ただし、冒頭に述べたように、我と自己欲の縮小、放擲を説かずに病気治しを掲揚して信者を集める地球の神々等の邪なものや低いけれども善なるものなど様々にあって識別を要するのである。

邪な者には「この宗教、この教え、この神に縋(すが)れば病気は治る」と言う教団、霊能者、祈祷師など巷には様々在るが、この「縋れば治る」というのは「信じろ」「素直になれ」といって題目や祈りで信者の我善しの利己心を煽るものと同義である。我欲の放擲を説かずして、縋れば治るとは先の「冷水に身を置きて温かきを乞い願うが如し」である。
肉体人間として存命中に誤った想念波動を慢性的、継続的に起こし、その想念波動との共鳴により自ら呼び寄せた邪霊や暗黒の境涯にある霊魂が肉体人間の波動に干渉して生命波動を攪乱し、やがて物質である肉体にもその波動の汚濁が具現化して細胞レベルで変容を起こした状態を病変、病気と呼んでいるのである。真の根本治療とはこの汚濁の想念波動の浄化であり、また浄化のためにはこの'根っこ'である我と欲の制御即ち利己心の制御が必要であり、病気はそのために必要な切っ掛けであるにもかかわらず、我欲の放擲を説かずして力尽くで邪霊を追い払い、治ったように化粧させるのは邪神の手管(てくだ)である。

≪マコトの信仰を得て霊的に病気を治すのは、一瞬には治らんぞ。奇跡的に治ると見るのは間違い、迷信ぞ。時間も要り、手数も要る。物も金も要る。大き努力要るのであるぞ。取り違い多いのう。≫

下手をすれば落命にもつながる病を治そうと必死になる心情は当然であるが、その根本原因がどこにあるのかを現象界を超えて思慮せねばならないのである。
その病者が誤った観念を堅持したり誤った想念波動を永年にわたり発した結果、邪霊や肉体人間に縋って助けを求める霊魂と同調して、一なる大愛から享ける全き生命波動を攪乱し、反応が鈍重に仕組まれていて変化に時間を要する三次元物質(肉体)に、やがて病変となって顕われるのである。
病は、優良惑星へ帰還する切符である利己心の制御・克服を一念発起させ、反省を促すための起爆剤なのである。そういう意味では邪霊は、その者が優良惑星に帰還する手伝いを図らずもしていることになる。
ただし、己の観念や想念波動の使用方法のどこにどう誤りがあるのか反省して目覚め、己のエゴを打ち捨てる進化をする建設的方向にある時、結果的に'手伝い'になるのであり、「冷水に身を置きて温かきを乞い願う」時は、結果的に邪霊は災いの触媒となって更に不幸を呼び込むのである。善きにつけ悪しきにつけ感謝すべしというのはここにも当て嵌まるのである。

≪早う気付いた人民から救いの船を出してくだされよ。損もよいぞ。病気もよいぞ。怪我もよいぞ。それによってメグリ取って頂くのぞ。メグリなくなれば日本晴れぞ。今がその借銭済ましぞ。世界のメグリおおきいぞ。≫


≪現在の環境を甘受せよと申してあるが、甘受だけでは足らん。それに感謝せよ。積極的に感謝し、天地の恩に報じねばならん。≫

根元の誤った観念や想念波動を正さず、邪神の力で邪霊や縋り憑くいわゆる未成仏霊を引き離しても、別の邪霊や未成仏霊を引き寄せ、一旦治まった病も再発、または病勢が増悪して執拗に何度も現れるのである。
汚物にたかる蝿をいくら追い払っても、汚物を除去しない限り、次から次へと種類の異なる蝿が寄ってたかってくるのである。この汚物の除去を説かず、蝿を追い払う愚昧に陥らせ、神仏の名を騙り尤もらしく繕って、悩める病者、患者を掻き集める宗教教団の背後は邪神である。利己心は棚上げしたまま、とにかく治して欲しい一心の病者、患者、信者は納める金子(きんす)に比例して治癒の霊験もあらたかに違いないと幹部に言われるまま大金を奉納するのである。こうして教団はまたも全国からせしめた大金で大本山や伽藍を建立して教勢を世間に誇示するのである。この大本山や大伽藍という虚仮威(こけおど)しに目暗ましにあった欲深で哀れな病者が次から次へと食い物にされていくのである。邪神の力で邪霊等を追い払い一時的にも治まるなら(最終的には悲惨な結果となっても)まだしも、全く'霊験'とやらが現れず改善の兆しもない場合が殆どである。それでも一度心に植え付けられた誤った観念は洗脳の如く病者を教団に縋りつかせ続けるのである。唯物主義者を含めて周囲の善意の者が諌めても、幹部のセリフや強弁を復唱するかのように'教理'を吐いて頑として受け入れないのである。この頑迷固陋も邪神に付け入られたためであるが、そもそもはその者の我と欲の強さが原因である。また我と欲の強さで誤った想念を起こしたことにより病気をその身に具現化したのである。

症状の軽い病気から重篤な疾患まで日常茶飯事に発生し、病院、薬局が犇(ひし)めく不良惑星では病気に罹患する事は当たり前で、不良惑星人の一生のうちに病を経験しない者はいないといっても過言ではない。宇宙間の優良惑星には病は発生せず、病が発生しないため病院もない。我欲なきが故に想念波動に誤りなく、想念波動に誤りなきが故に環境は良く保たれ、当該惑星に生きとし生けるもの全てが共生かつ共栄し、食も正しく同朋である動物を「食べ物」と捉えていないため、彼等を殺害してその肉片や臓物を食すことは決してなく、邪なる四次元の低き存在の干渉なく、すべてが歓喜の内に弥栄するのである。この優良惑星人の視点から地球惑星人始め不良惑星人の社会を見るとき、我欲を欲しいままにして病、不幸を自ら呼び込み、その苦痛に顔をゆがめて、不平と恨みと嘆きに打ち伏して、唯物的病院や背後は邪神とも知らず唯心的宗教に助けを求め、病院も教団も益々栄える構図は大変不思議なものに映るのである。不良惑星人も、自ら首を絞めて「苦しいぞ、馬鹿野郎!」と叫んでいる狂人の様子を見たなら首をかしげるではないか。優良惑星人の目には、不良惑星人の病む様子が、この自ら首を絞めてのた打ち回る姿として映ると共に、そこに深い哀しみを覚えるのである。

更に巧妙な邪神の手管は、この書物を読めば病気が治ると広言し、その書物に「病は心の影です。」「病気を心に描くと病気になるのです。」「常に思うことが成就するのですから、病気を恐れる心が病気にするのです。」などと著わすものである。
半ばもっともらしく聞こえるが、幾ら不良惑星人であっても、故意にそして常に病気を心に描いていることはないし、実際に病気を心に描いて自ら望んだ病気になることは極めて少ない。寧ろその逆で、常に病気を心に描かず、常に病気に対して恐怖しないにもかかわらず、病気になる者の方が圧倒的に多いのが現実である。
このようなケースに対してこの'教理'は「常に思い描かず、常に思わなくても病気を恐れる心があれば常に病気を心に描いたのと同様の作用があって、心に描く、または恐怖した通りの病気が現れるのです。」と主張する。しかし、不良惑星人の全てが病気を恐れてはいないし、寧ろ病気になって初めて事の重大さに恐れ慄(おのの)くわけであるから順番が逆である。また、常に病気を恐れて暮らす惑星人の方が圧倒的に少なく、常に病気を恐れて暮らすのは既に症状やその兆候が現れた者であろう。

すると'教理'は「表面意識で描き恐怖しなくても、潜在意識が描き、恐怖しているのです。例えば病気を恐れさせるようなチラシ、宣伝、解説書、注意書のような印刷物や放送番組などを視聴することは日常的に起こりますよね。この時潜在意識には恐怖の思いが暗示されて、視聴した事さえ忘れた頃に暗示が効力を発して、恐怖したとおりに病気が発生するのですよ。」という。こうした理屈を全て否定するつもりはない。極々僅かながらこのような患者は存在するのである。しかし、不良惑星の特に文明圏に住む者達は常に病気に対して恐怖する念を抱かせる情報に晒されており、文明人はこれらの情報によって常に疾患症状を呈していなければならないことになる。医師、看護士、治療家にあっては患者という正に生きた病気の実例に日々接しているのだから、彼等は軒並み病に倒れていかねばならないことになるではないか。このように暗示によって病気になると主張するなら、文字や言葉を理解しないばかりか、病気になる前には決して病気を意識さえしない動物達は如何にして罹患するというのか。

こうした教団の信者も事実上多くの病に罹患して、実際には信者の大方が医薬、医術の世話になるという事実と「病気は心の作用」「病気は心の影」という'教理'との板ばさみになって困惑して迷うのである。
この'教理'は暗示による心の作用を前面に押し出して、想念波動の共鳴を覆い隠しているのである。
想念波動を隠蔽すれば、その根源である我欲放擲の重要性、必要性も自ずと隠蔽できるためである。想念は言葉を介さずして共鳴、作用する波動であり、言葉による暗示とは全く異なるのである。
また、地球の優良惑星への次元上昇の必要条件である我欲の放擲を説かず、我欲を根にして発せられる想念波動の制御を、心の作用という暗示レベルの話に摩り替えたその背後が何者か推して知るべしである。「想念波動も精神の問題、暗示も精神の問題。」と広義では一見同じカテゴリーに属する類似性を利用して、我欲の放擲と想念波動の制御の必要性、重要性の前面に「心の作用」「暗示」というブロックを立てて、我欲の放擲に衆人の思いが及ばぬように謀ったのである。

ただし、この「病気本来なし」というその意味が真理を捉えての事なら何ら反論はない。即ち、病気は絶対的悪ならぬ「悪」、≪御用の悪≫であり、特に進化の次なるステージを優良惑星とする不良惑星人最大の課題である我と利己欲を打ち捨てる必要性を気付かせる試金石である。病気も根源的神すなわち大愛の働きの現われの一つであり、「悪」即ち≪御用の悪≫なのであり、我欲を打ち捨て去る時、決して顕われることのない悪なのである。

現象界は相対的に仕組まれた次元である。善のみでは何も進展せず無と同じこととなり、悪のみでもまた無と同様なのである。故に、創造の大愛は悪を取り除こうとはせ給わず、悪を悪として正しく生かし給うのである。善を創り力を生み出すところに悪の存在意義がある。過去の記事で度々言及してきたように勧善懲悪は物質的及び平面科学的に生きる傾向が強い不良惑星人の陥る誤謬の想念である。悪あればこそ弥栄するのである。
病気は現象としては確実に存在するが、飽くまで現われであり、絶対としては、即ち本質的には存在しない御用の悪なのである。しかし、相対世界である三次元地上においては病気は現象として確実に存在するのである。我欲の惑星人の棲息する各不良惑星には現象として顕われなければならないものなのである。我欲の放擲を促す反省の対象物としてその存在意義を有するのである。
よって病気も不幸も心の作用により齎される一面もあるが、これを金科玉条の如く前面に掲げて、その後ろにある真実、即ち我欲放擲の重要性を包み隠したところがこの邪神の狡猾な手管であった。

この教団が説く「病気本来なし」の意味するところは、真理である悪の存在意義を踏まえた「病気本来なし」ではなく、「無いと思えば無い」と病気は暗示で全て治るかの如く信者を倒錯させる、余りにも唯心に偏った盲目的教えである。病気は絶対悪として実在しないが相対即ち≪御用の悪≫としては存在しなければならないものである。≪御用の悪≫は善をつくり生み出すためのもの、即ち我と利己欲を打ち捨て、我欲に覆われて埋もれた利他愛を再び己の中に見出すための悪である。無いといくら思えども、その者に我欲ある限り、そのエゴを諌めるために病気は「顕われて在る」のである。この手の教団の教説のような「病気は無いと想えば病気は治る」や「この本を読めば病気は治る」では、暗示で治る範囲の病気以外は決して治ることはない。

暗示で治る範囲の病気に関して言及すると、地球には士気を鼓舞するという言葉があるように、気持ちが萎えたり怖気づいたりして身体が動かない時でも士気を高揚してやると、その気持ちに反応して動かなかった身体が動くことがある。戦時中に、弾丸が腹をかすめた程度の負傷でも異常な精神状態の中、「撃たれた!」と思うや否やへなへなと地面に座り込んでしまった歩兵に、衛生兵が「瞬く間に止血して傷を治す妙薬」と偽って歯磨き粉を塗り込むと忽ち立ち上がるのもそうである。身体のどこかを何かにぶつけて痛がる小さな子供に母親が「痛いの痛いの飛んでけー」というと泣き止むのもそうである。端的に言えば、病気は無いと思えば無い、治る」は「痛いの痛いの飛んでけー」と何ら変わりはない。

悪の存在意義を腹に落とした上で、「病は本来ない」のであるが、我欲、エゴに気付きを与えるために「悪」として現われる神の働きとして、病気は「きちんと働いて」いるのである。真の根本治療は我欲の放擲であることは繰り返し述べてきたが、これを何度転生しても尚クリアできなかった難題としている不良惑星人は、その心に惰性、慣性があり「余程大きな衝撃」が加わらない限り方向転換、即ち改心することは中々に難しいのが現実である。「余程大きな衝撃」の一つが落命の危険を孕(はら)んだ重篤な病なのであるが、大方はこれでも尚も改心できず肉体を失うのである。

≪人民というものは、奇跡見ても、病気になっても、中々改心出来んものぢゃ。死後の生活がハッキリ判っても、未だ改心出来んのぢゃ。それは外からのものであるからぢゃ。マコトの改心は、中の中のゝのキ頂いて、ホッコンの改心出来ねばならん。≫(ホッコン=根本)


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