第14回 『神々の正体(その2)』

ここは標高5,000メートルの人跡未踏の深山。この深山にも太陽光線は燦々と降り注ぐ。そこに遥か太古の昔からこの一帯に咲いている美しい花がある。しかも人類史上まだ誰の目にもとまったことのない花である。
この花は何のために咲いているのか。人に見せるために咲いているのか。栽培されて値段を付けられ売りさばかれるために咲いているのか。何かしらのイベントの演出に利用されるために咲いているのか。生態を学術調査され、所属を分類され、定義され、学者に全て解ったような顔をされ、あれこれ解説されるために咲いているのか。何かしら縁起を担がされるような形態をしているため人民にもてはやされるために咲いているのか。
ここは標高5,000メートル。人跡未踏の深山である。

その花は人が発見しようがしまいが、人に学名を付けてもらおうがもらうまいが、その意味もその働きもあって、そこに黙って咲いている。人に見せるために咲いているのではない。

人の人生もまた然りである。他人に見せるためにある人生ではないはずである。虚栄や体裁を繕うために生まれてきたわけではなかろう。
何度も何度も死んで生まれてきた訳は、正しき愛を体得するためである。「悪」も「欲」も「不幸」も「苦労」もこのためにある。悠久の転生の中で、未学習の部分で人は欲をかき、悪を働き、愛を裏切り、衝突し、天則に反したその想念は不幸となって反映し、反映した苦痛体験を通し、苦労を経験して目を覚ます。このように『大愛』は、その魂の未学習部分、その魂の弱点の強化を促してくる。愛に反した想念波動の具現化により、わが身を大地に打ち付けて痛い思いをして正しき愛を学ぶのである。結局、人は正しい愛を学ぶために転生を繰り返すのである。愛の顔をして心に巣食う執着や我執や我れ善しの欲や思い上がった正義や差別や無関心を引き剥がして真の愛に到達するため、生まれ、病み、老い、死ぬ必要があるのである。

さて、先回は地球の神々、宗教の神々と宇宙の神々と仮に名づけて『神々の正体(その1)』を展開したが、今回は、地球の神々の特徴を巷によくある宗教の神々を引合いに出して述べることとする。

まず、深山の花のように、宇宙の神々に名前はない。第9回で便宜上分類した聖霊、高級霊、高級霊人も、肉体を持った優良惑星人にも名前はない。その必要がないためである。
不良惑星人の場合のように相互不信を基底にした登録、登記のための'識別記号'として名前を必要としてはいないのである。相互不信のない世界に基本的に名前は必要ないことは(何でも名前を付けないと気がすまず、名前を付けると何だか全て解った様な気になる地球惑星人にも)容易に想像がつくであろう。
宇宙一切、本来名前などなくとも運行され行くのである。必要なのは名前ではなく愛である。そこに愛があるかどうかである。
不良惑星人ですら、例えば己の子の名前が変わったら愛することを止めるということはないではないか。どんな名前であれ、わが子を愛する心は不動であろう。また、人と人も名前がなければ愛し合えないということはなかろう。

これとは対照的に地球の神々は「我こそは何々の大神である」とか「何々の大天子である」とか「何々の大菩薩なり」などと自ら名乗り尊大ぶって'お出まし'になるのである。名前を付けて何でも分類・分離・分割することが大好きな不良惑星人の意識に取り入るために尊大な名を名乗り、その名を以って威圧するのである。尊大な名を自ら名乗るは邪神・邪霊の虚仮威し道具の一つである。

過去の記事で既に述べたように、邪神が邪神の顔をして現れるはずもなく、霊界上層の善霊の説く真理を盗んで、そこに人間の我欲を煽惑する奇麗事を挿画し、神の啓示と偽り、宗教教祖や霊能者らを通じて世の攪乱と精神世界の混乱を意図して来た。
しかし、不良惑星人が正しき愛を学ぶために先ず為すべき事は我欲の放擲である。この事を確りとハラに落として、理念と批判眼で以ってこの種の神の啓示と称するものの教義を心眼で読むと、如何に高尚な真理を説くかの如く繕っても、そこに論理性を欠くところがあり、その信じるに足らない綻(ほころ)びを「信ずるべし」「素直になれ」などの言葉で強く言い伏せるところがあるものである。

これに対し、信じろと言われた信者は、その「神」の説く教義に多少の矛盾を感じながらも、信じないことは神に対する不敬にあたり、神を畏れぬ罰当たりな事として、良心の呵責の前に自己弁解して己に言い聞かせ、宗教幹部や紹介者に「信仰が足りないからそんな罰当たりな邪念が生まれるのです。一心熱心に信仰しなさい。このままだととんでもないことになりますよ。」などと言いくるめられて遂に信を置くようになるのである。こうなるともう後は都合の悪いことは目を瞑る「クセ」がつき、盲信へと突き進んで行く。一丁上がりである。

先回の内容と重複するが、地球の神々は物事の理非を解明せずに、一心熱心に信仰し、祈れば御利益を授けると「約束」する。『地球惑星人の来歴』で既述の如く、優良惑星不適格者として降ろされた地球惑星人の本分は我欲の放擲である。これを完全に失念し、神仏は人間に御利益を授けるものであると観念付けられた欲深な者達が意外に多く、特に生活に窮した不遇にあるわけでもないのに、神を小間使いにして飽くなき僥倖(ぎょうこう:思いもかけない「幸せ」)を獲得しようと神を求める姿には呆れ果てる。この賎しい欲心を満たす可能性を大いに秘めたかのように見せ掛け、その欲深き心を殊更に煽ろうと暗躍するのが地球の神々、即ち邪神・邪霊である。

御利益、御利益とあからさまに喧伝する団体は随分と減ったが、御利益信仰、お蔭信仰を前面に出さずとも、やはりどこかに表現を換えて御利益という餌をまくのである。
邪神はその教団の盲信者を使って、その盲信者の知人に「この神様を信心すると斯く斯く然々(かくかくしかじか)な幸せが訪れます。この霊験あらたかな神様は・・」と告げさせる。邪神は邪霊をその知人の家に入らせて、災難を齎(もたら)し、知人が困憊(こんぱい)する頃合を見計らって盲信者を再び送り、「ほら御覧なさい。あれだけ言ったのにあなたには信仰心が足りないからですよ。私には見えていましたが、その時はあなたを試す意味もあって、こうなることを言わなかったのですよ。でも、大丈夫です。この神様に対する信仰がある限り、不幸はあなたにこれ以上寄ってくることはありませんからね。多くの方々が救われているのですよ。これはあなたのように不幸にあった人ならきっと解ると思います。」などと言わせて、その教団に取り合えずでも入信させるのである。
入信した以上は信じないとどんな神様だかよくわからないが、不敬に当たってはいけないと思い、また災難から立ち直りたい一心で信仰を始めると、邪神は送り込んだ邪霊を取り除く。邪霊が取り除かれたその家からは災難が去るのは当然である。そうとは知らないその知人は「これぞ○□×の大神様の御力ぞ!」と揺るぎない信念に到達する。そして益々欲心を露わにして一心熱心に祈り、正神との波動を断った亢進した想念を四方八方に放散すると同時に、教団幹部に勧められ、大金を奉納して神の変わらぬ御加護を金銭で'予約'するのである。教団の集金システムによりかき集められた金で、教団は盛況を極めるのである。
砂糖にたかる蟻の如く、現世的に勢いのあるところには欲深な人々が集まるものである。こうして益々教団は教勢を拡大して行くのである。
しかし、その知人は実は特に利益を得たわけではなく、邪神・邪霊の「自作自演劇」にまんまと騙されただけである。

仮に、邪神の画策で財を成すことがあったとしても、その魂の進化向上のため必要である度合いを超えた財が逆に災いして不幸を呼び込み、一家の破滅に繋がるような事例は珍しくないのである。

「無限供給」などと称して人民の欲心や想念をもてあそぶ者共が在るが、この教えで実際に財物や幸福を無限に供給された者など存在しないのである。神は既に全ての人間に与え尽くしているのに、無限供給とは、分をわきまえない強欲で世界の他所、他者から奪ってまでして、己の所にもっと、もっとと抱え込もうとする醜きエゴをすり替えた翻訳表現である。
分を超えた所有や確保は世界のどこかに資源・経済等環境インバランスを生じさせ、人々の心にはアンバランスを生じさせる原因となるのである。また、分を超えた所有や確保を願うその想いが世界のインバランス、アンバランスに対し、目を伏せて見ぬふりをして、勝者の理論を正当化する傾向をいつまでも堅持せしめるのである。
勝者の理論とは本シリーズ第12回で既述の如く、我善しの理論であり、エゴの権化であり、地球を今日の混迷に陥れた愛の正反対に位置する理論である。無限供給を望む想いは世界のどこかに貧困を生み、環境を破壊しているにもかかわらず、己や己の家族のみの目先の利益や自己保身の前には、世界の同胞が飢えと寒さと放浪の中で迎える絶望も死もどこ吹く風である。
もしその者が無限供給とやらで他者の幸せを願うなら、先ず己が他者に無限に供給して見せよ。我善しの利己心で己の所へ抱え込みたい'欲深さん'には無理な相談であろう。
邪神は、欲深き善男善女の欲心を火に油を注ぐかの如く煽って、真理とは「己が想念どおりに神から好みの物を供給されるものである」と錯覚させ、不良惑星人の本分、即ち我欲の放擲を覆い隠して、願望満つる日を夢見させ、我善しの悪想念を喜んで放散させ、'大破局への充電'を確実なものとして行くのである。

不良惑星においてすら、我欲を放擲したなら、欲心なきがゆえにその身に相応しい財を得て、我がないため世人に用いられ、他と和す故に信望高まり、悪想念なく不幸・病気を避けて通るのである。

ここで「我欲を捨てれば幸福になれる」と聞いて、我善しの幸福を得るために我欲を捨てようとしても、我善しはそもそも利己、エゴであるが故に、欲を捨てる修行を欲の心でするのだから、正神の波動を断った我善し殿に幸福など訪れるはずもない。「我欲を捨てれば幸福になれるのかぁ、じゃあ、我欲を捨てよう」は反対に言えば「我欲を捨てても幸福にはなれないなら、我欲を捨てるなんて辛いことはやめよう。」であり、神を相手に損得勘定をする'取引'である。
超能力の開顕も悟りも永遠の至福も我欲放擲の結果生じる副産物のようなものである。これらを求めて我欲を捨てるのではない。求めずして得るのが本物である。何のために我欲を捨てようとしているのか。利他のためであろう。即ち愛のためであろう。ここを踏み外すと魔道に落ちるのである。
自己完成を目指してはならない。歴史上でもどれだけ多くの学問僧や修行僧や求道者らがこれを履き違えて自己完成を目指し、魔道に落ちて行ったか、その数は計り知れない。自己完成と自己確立は全く以って別なるものである。(これに関してはいずれ詳述する。)

我欲の制御と悪想念の滅却によって初めて齎される「つつがない暮らし」こそ奇跡である。当たり前の日常と言うが、これこそが奇跡である。一なる大愛の波動が具現化し、物質化し、そこにそうして存在すること自体奇跡であろう。物質に適用される法則も、精神に適用される法則も既に現われ、宇宙間の塵一つ、原子の振る舞い一つに至るまで粛々と微塵の狂いなく運行されている。これでもまだ足りぬか。
全て波動の具現化である。これ自体が既に奇跡的なことなのである。朝起きたら腕が溶けてなくなっていたなどということはなかろう。この奇跡的な事象が絶えることなく起こり続ける中で、我欲を捨てて優良惑星に帰還せよと言っているのである。
世に言う「奇跡現象」を起こす者の背後は、この真の奇跡世界の順当な運行を捻じ曲げて表現する邪神・邪霊の操作によるものである。虚仮威しに引っかかってはならない。「正神に奇跡なし」で記したように≪奇跡ないことが奇跡ぢゃ≫。
奇抜な奇跡やビックリ現象のない峻厳なる大宇宙の運行そのものが既に奇跡なのである。その奇跡を感受できぬ不良惑星人は'刺激'を求め、非日常的キセキを求めるのである。

優良惑星に在った遠い遠い昔には、一粒の砂に大宇宙を観る事が日常の中に出来た、あの互いに利他愛に満ち、全ての生命のために生きることが出来た暮らしを思い起こすべし。たった一粒の砂も大宇宙運行と同じ法則でもって、そこに砂として存在できるのである。汝、一粒の砂に何を想はむ。

さて、地球惑星人の常人は一日の疲れを回復する手段として睡眠に大いに頼っている。このことは優良惑星人も方法は違っても、基本的に変わりはない。この回復力は単なる肉体内の化学反応によって齎(もたら)されるものではない。
この化学反応はいかにして齎されるかである。ホログラフィックなこの現象界の全ては波動の具現化である。生命波動の具現化によって現象界に化学反応として現れるのである。
また、睡眠とは単なる休息ではない。単なる休息なら眠らずとも、椅子なり床の中なりでじっとしていればよいはずであるが、それでは疲労も回復しないし、頭もスッキリしないのである。単なる休息ではなく、眠ってしまうことで脳の一部の活動を極めて低下させることに意味があるのである。この脳の一部が機能を極めて低下させた状態では、外界を認識する表面意識は殆ど動かない状態にある。表面意識が殆ど動かない状態では感情という作用も殆ど動かない。
地球惑星人は「人間は感情の動物なり」などと言って憚(はばか)らないが、成る程、大方の地球惑星人は感情的で、理性的な者は確かに少ない。地球惑星人も「感激」と表現するように、怒りや憎しみなどの激昂はもとより、激しすぎる喜びや楽しい興奮など一見ポジティヴではあるが、それらの感情が激情である限り、一なる創造主の生命波動を受け入れる状態ではなくなるのである。過ぎたるは尚及ばざるが如しである。丁度、不正な電波や怪電波が飛び交う受信状態が悪い'ノイズ'の多い空間で正規の周波数を探し出すのが難しいようなものである。

睡眠中は外界を認識する表面意識が殆ど働かない状態であり、この感情というノイズも殆ど動かないため、大愛の生命波動を受け入れる状態となり、肉体的には化学反応が始まって回復に向かい、精神的には日常の生活のために傷ついた心を癒していくのである。
日中、この表面意識の感情が激し過ぎ、継続する程深いものであると、この生命波動に感情の乱れ、ノイズが干渉し、以って回復のための体内化学反応に支障を来たして自動修復の範疇を超え、結果的に容易には回復しない病変へと進んでいくこととなるのである。
また、激しすぎる心配や恐怖や怒り、憎悪、猜疑心、焦燥感などは睡眠中でも表面意識を動作させる、いわゆる眠りが浅い状態であるため、生命波動を受け入れきれず、現象界での肉体が回復へ向かう化学反応も減弱し、疲労を持ち越すのである。

睡眠中にもかかわらず、表面意識が作動する不安定な精神環境下であるため、起床時にもその表面意識で夢の内容を思い出すことが出来るのである。尚、睡眠中周期的かつ順当に訪れるレム睡眠においては、表面意識の一部が賦活させられているが、この恐怖や心配や怒りなど激しい感情亢進による表面意識の作動とは別の機能(全身の回復というより脳そのものの回復機能)であり、この回復機能が作動した表面意識の賦活により見る夢を起床して尚記憶している事には何ら異常はない。

宇宙は大愛の律動である。律動とは大雑把に言えばリズムである。地球惑星人もこの律動を「1/fの揺らぎ」と呼んで、宇宙の律動を垣間見ている。癒しを与える波の音や小川のせせらぎにも、人体のDNA長鎖にも、堅い岩盤であっても、脳波(の中のα波)にもこの1/fの揺らぎが見つかっている。大河の水量が長期的にはこの律動を持っているように、島宇宙・銀河全体もこの律動で「揺らいで」おり、この律動は、即ち『大愛』の波動である。
レム睡眠とノンレム睡眠が交互に現れるリズムはα波に見られる揺らぎの他、様々な律動が複合して構成される大きな揺らぎが表出したものである。

感情を株価の如く乱高下させて表面意識的に暮らし、悪想念波動の多い不良惑星人は、神の波動と相容れない瞬間が一日のうちに連続して非常に多く消耗しやすい。この'ノイズ'の多い不良惑星人でも、睡眠中はその表面意識を眠らせているので、感情の乱高下も沈静化して回復のための波動を感受しやすくなるのである。しかし、起きている間に発したノイズが格段に大きい不良惑星人は、疲弊した脳やその他の身体組織の回復により多くの時間を要するのは自明の理である。よって優良惑星人に比して、太陽系近隣の不良惑星では、常人の睡眠時間が8時間前後と非常に長いものとなるのである。
地球惑星人の場合、地球時間にして一日の実に3分の1を回復に要するのである。生涯の3分の1の年数を寝て暮らすのが地球惑星人である。惑星人の中にも短い睡眠時間で耐えうる者が散見されるが、多くはまとまった睡眠をとっていないだけで、一日のうちに短い睡眠を頻繁に繰り返して疲労回復する方法を取っているのである。

(これに似た現象に瞑想がある。瞑想も熟達してくると「無の心」と称する表面意識の一部を極めて低下させた鎮静した精神状態となる。この瞑想という、言わば感情の沈静化技術により各種の効果の他、睡眠時と同じ脳と全身の回復効果も得られるのである。大愛の波動に通じるためである。ただし、瞑想は完全なる睡眠状態とは異なり、表面意識の別の部分は覚醒しているため、全き生命波動を受け入れて護られる睡眠時とは異なり、我欲を内包した不良惑星人の場合 'ノイズ'が絡む可能性があり、'低次元の存在'の介入など危険を伴うのである。下手な瞑想でオカシクなったりするはこのためである。しかし、大方の惑星人はこうなる前に眠りに落ちてしまうので心配する必要も殆どない。)

さて、祈りという精神作用はある願望に対するその充足を願う精神集中の緊張状態の持続である。人間が精神を集中し、その緊張状態を持続するのは、感情という想念波動の持続的亢進である。この感情という精神作用の亢進は一なる大愛の生命波動を遮断することは前述のとおりである。時に激しい祈り、祈祷や興奮で失神するのはこのためである。

世には「祈って平和になる」とする宗教の背後邪神もある。
一心熱心に祈る波動は精神の亢進であり、この亢進により一なる創造主の波動を遮断させるのが邪神の狙いである。また、たとえ平和の祈りや神に祈るのであっても、正義の心から起こるその動機は認めるが、先回『神々の正体(その1)』で既述の如く、祈る者の精神波動自体が清まり足らねば汚濁を放散し、却って世を混乱へと突き落としていくのである。これが邪神の隠された狙いとシナリオである。

(動機さえ正しければ何をしても言いというわけではない。原子力発電による核の波動は地球惑星人が三次元科学で考えるほど容易に制御できるものではなく、非常に危険なものであるが、この原子力発電とても、これを推進しようとする立場にある者も人類のために推進しようと開発してきたものである。しかし、核の利用は地球人には禁忌技術である。
動物実験も医薬の発展で人類に貢献するためという動機であるが、他の肉体生命に苦痛を与え、その魂の進化を脅かす実験は如何なる理由を以ってしても正当化されることはないのである。
また、愛に反した如何なる実験からも理論からも、宇宙則において真に人類の発展に貢献する技術は生まれ得ないのである。愛に反して生まれ得た技術は、必ず自らを痛めつけて気づかせるのが天則である。愛に反する度が過ぎた場合、文明のリセットは止むを得ないこととなる。)

我欲を打ち捨てた者達が一斉にその清まりきった正しき想念波動で祈るなら、忽(たちま)ち地上も霊界も浄化され、地上天国が展開するが、未だその兆しすら地上には現れていない。祈る者が我欲を内包したまま祈るから、地上天国の兆候どころか、想念次元に汚濁が放散して刻々と大難へと繋がり行くのである。

祈りたいと思うほど地球は汚濁されているから、その正義感から祈ろうとするのであろうが、今日の地球の汚濁と惨状はそもそもどこから齎されたのか、その原点に立ち返らねばならない。
その原点は優良惑星で周囲を困惑させ、どうにもならない不適格者として降ろされるほど我欲を抱えた現存地球惑星人のその心である。その我欲にて業想念の汚濁を累積し続けた結果が一大天譴を目前とした今日なのである。
この業想念の汚濁とその具現化である現状を祈りで解決しようとすればする程、我欲を抱えたままのその祈りでは汚濁の放散は更に加速し、大難を更なる大難へと導いてしまうのである。

「平和のための祈りなら直接己の利を欲するものではなく、人類全体のためのもので、社会正義上正しいことだ。」と思わせた邪神の手管は中々手の込んだものであった。この善男善女の正義の心を逆手にとった邪神による「平和の祈り大作戦」にまんまと騙されたのである。

幾ら平和の祈りを捧げても現実的恒久平和は地上には展開しないばかりか、想念世界は汚濁を続けるのである。祈って平和が訪れるとは、「心正さずとも拝めば神はご利益を与えてくれる」という幼稚で欲深い発想と同じである。
一見すると高尚な世界平和の祈りの他に、どう見ても我欲充足を願う我善しの願望達成の祈りもある。しかし、この我欲を内包する者の我善しの願望達成方法も実現しないのである。
願望達成法の書籍に掲載されるなどして、世に流れる成功報告は商業ベースのもので、大いに脚色されてることを知らねばならない。
(一心熱心に祈る感情亢進に邪霊が這いって、現世的利益を齎すことがあるのは事実である。が、その身に付かざる財を得た我善しの者は早晩却って奈落を見るのである。)

また、願望達成方法で悩んでいた人間関係が改善したという事例もある。これは願望を描く前に、己の至らなさをよく反省し得心して、己自身が変わったことに、願った者自身が気付いていないのである。
相手は己の想念状態の映し鏡なのである。祈ったり願ったりして人間関係が改善したのではなく、己自身が変わったからこそ改善へとつながったのである。
己は我を張ったまま、欲深なまま反省もせず、変わることをせずに、相手が己に都合よく変わることを願うのは、祈って平和が来ぬか、拝んで御利益は与えられぬかと願うのと同じである。
これを「冷水に身を置きて温かきを乞い願うが如し」というのである。

喫煙者が、「ある日目が覚めたらタバコをやめていますように」とどんなに願っても実現しない。タバコをやめるには吸わないことしか方法はないのである。
(更に言えば、吸いたいという欲求を滅するしか方法はないのである。更に発展して、何故吸いたいという欲求が起こるかを研究し、己の心を観察するところから始めねばならないのである。これは正に我欲放擲のプロセスである。)

真に温かきを願うなら、まずは冷水に身を置くことをやめよ。即ち我欲の放擲である。己が自ら変わることである。祈っても拝んでも泣いても叫んでも惑星人ひとり一人が実質的に変わらねば恒久平和はない。

「願って御利益、祈って平和」なら、この世はどこも地上天国のはずである。飢餓もなく、戦争もなく、人種差別もなく、本当に福祉を必要とする者に福祉は行き届き、犯罪もなく、あらゆる不正もなく、競争、闘争、戦争もない、嘘も欺瞞もない地上天国が展開しているはずである。
しかし、現実は日々世界のどこかで必ず闘争と戦争、飢餓、搾取、差別等々に人類は苦しみ、平和の欠片(かけら)すら見えはしない。

「それは祈る人の数がまだ少ないから」というのは誤りである。祈る者の数が少ないからではなく、我欲を打ち捨てる者の数が少ないからである。我欲を放擲する者、もしくは我欲を放擲しようと努力する者が増え、その者の中に祈らずには居られない人々が祈るならまだしも、我欲を放擲せずしてただ祈りさえすれば平和が来ると思うのは誤りである。

一部の者達が祈って平和が他動的に訪れるはずもない。もしそうなら、宇宙間の優良惑星社会は一部の者が祈って平和を実現し、大部分の者が我欲の権化のまま成立したとでもいうのか。優良惑星社会は万民が我欲を放擲した社会である。我欲を放擲した社会は恒久平和を実現しているため、平和の祈りは不要である。祈らずとも平和だからである。万民に我欲無きが故である。

地球惑星人の一部の者達が、自ら心を正さぬ者たちの為に祈って、百万歩譲って仮に平和が訪れたとしよう。すると「心正さずとも祈れば平和が来る」と、祈る者自らも錯覚し、また、その心を正さぬ我欲の「我善し」達にも大いに錯覚させてしまうではないか。罪作りな事である。

ショウウィンドウの前で座り込み、泣き叫べば親が何でも与えてくれると錯覚する哀れな子に育ててはならない。
「食べる魚を与えるよりも、魚を捕るための釣り竿を与えよ。」と地球惑星の各国でよく言われているではないか。子らが自立できるようにするのが親の務めではないか。
「祈れば平和が与えられるという錯覚を与えるよりも、我欲放擲の理や物の理非を説いて与えよ。」それが愛ある者の務めではないか。

とはいうものの、神は、その祈る個人の祈らずにはいられない正義の心は認めるであろう。我欲を放擲するのだと一度決心したら、天から岩が落ちてきても揺るがない信念のもと、祈らずには居られないなら祈ればよろし。但し、それでは平和は決して訪れぬことも肝に命ずべし。

また、邪神に正義の心を利用され、誑(たぶら)かされて、決して正しいとは言えないものの、こうした祈りに凝った者達の正義の心から齎される祈る行為を嘲笑し、神や想念波動を否定する唯物主義者等は大いなる涜神行為の愚か者である。言葉もない。

これら涜神行為の愚か者はさて置き、平和はその惑星に住する惑星人の我欲の制御とそれによる想念波動の清まりにある。これを隠蔽した平和の祈りという邪神の煙に巻かれて、酔い痺(しび)れる間にも刻々と地球の危機は切迫しつつある事を知らねばならない。目前である。

さて、次に「題目を唱えて所願成就する。」と謳う邪神も在る。
ある経文を繰り返し繰り返し何百万回も唱えれば病気が治り、人脈に恵まれ、金運は巡り来るなどあらゆる運勢が開けると説く類の宗教背後霊である。

信者は朝に夕に一心熱心にその経文を誦すが、果たして病気も治らず病院に入り、一向に運勢も開かない。これを幹部に訴えると「この霊験あらたかなこの経典にそんなことがある筈は無いから、誦げ方が足りないのです。何百万回も誦げなければ、あなたの脳内に変化は起こらないのです。脳はこの有り難いお経の起こす振動を拾って、その時あなたの頭にある願いを実現するのですからね。」と幹部は信者を叱責して激励するのである。

既述のとおり、「お題目」を読経する一心熱心は、やがてその感情が亢進して大愛の波動を遮断し、その間隙を縫うように低次元の存在と共鳴して危険である。

今は昔の物語に、大僧正や大師が読経の功徳で「所願達成せり」とあるのは、この失神寸前にも匹敵する感情の亢進状態に即物的な低次元の古い動物霊や邪霊が感応し、この力で現世利益的所願を成就したのである。
これを耳にした現代の宗教的性格を有する欲深な者達は、この邪なる力のことは眼中に無く、ただただ我善しの所願成就に目が眩み、所願成就した者の行く末も知らずに、「ああ、有り難い。それ!読経だ。」と「お題目」を誦すのに余念が無い。

先回、仏教の由来で述べたように、何ら信を置けない何百万巻にも膨れ上がった経典から抜書きした「お題目」と称する文字列を繰り返し唱えても、何の効果もないばかりか、感情の亢進に乗った汚濁を放散する愚行を積み重ねることになるのである。

「お題目」を誦して所願成就するという大僧正や会長は、この文字列を繰り返し唱えれば、如何なる原理によって如何なる功徳を生ける者及び死せる者に齎すのか、その理を普遍的論理で説いてみられよ。

シリーズの先回に既述の如く、既に古典となった信の置けぬ仏典を未だに固守し、己らの生活の手段として仏飯を食らっている限り、仏教大改革が敢行されることは無い。

但し、仏教には「衆生仏を億念せば、仏また衆生を億念す」とある。この仏教的真理は正しいものである。
静かに座して、瞑目して心を沈静化し、一なる『大愛』を億念(絶えず想うこと、共に在ること)すれば、その口に「南無有難也」と言おうが何と言おうが、また何も唱えずとも、その沈静化した深海の如き静穏の内に、感謝の念に充たされて『大愛』の生命波動を感受し、これが現象界で具現化すれば、即ち治病となるのである。意識の統御により、表面意識から生じる感情というノイズを制御して、生命波動を感受すると先に述べた通りである。
瞑想という座法は仏教の真髄である。『大愛』と波長を合わす座法である。この感謝と愛念に充たされた精神状態で先祖を億念すれば、即ち霊界の浄化をも齎すのである。これも仏教の真髄である。即ち供養の原点である。読経は所願成就の手段ではない。読経は不要である。必要なのは愛念である。読経で先祖霊が救われることは極めてまれである。読経自体には何の功徳もないが、これを誦する子孫の愛念を先祖霊が感受すれば、その愛念によって救われる事はある。読経だから救われたのではなく、読経でも救われたのである。その読経に子孫の愛念を観じて、これをうまく感受できたためである。

(なんでもかんでも先祖供養の不足に転嫁して、戒名を施して、一心に読経して供養するのは原始宗教と同等であり、知性が欠如していると言わざるを得ない。我欲が強く迷妄する先祖霊は戒名や読経で救われるのではない。子孫を通して放射される愛念によってのみ、先祖「自らが」気付いて救われるのである。先祖と子孫は転生の世代間を越えて波長同調性により、同じ家族内で生まれ変わり死に変わりしていることが大変多い。ある時代では姉弟であったり、別の時代には親子であったり、また別の時代には異なる家族に生まれて嫁いで、結局因縁の家族として寄り添い合ったりしながら、善きにつけ悪しきにつけ、その業(カルマ、メグリ)は糾(あざな)える縄の如く互いに交叉する。そして、そのグループでの課題を学び終えたとき、古くなった学習環境であるその家系や血縁を離れて、他の家系や血縁に新たに転生して行くことが多い。魂によっては、抱えた課題をこなす為には地球惑星上では合致する転生環境がなく、遠く離れた惑星間転生をする場合もある。いずれにせよ、先祖の問題は己の問題なのである。)

因みに、優良惑星の不適格者として肉体を持って始めて降ろされた往時の惑星人は早期の帰還を望み、盛んに瞑想をして心の調整を図ったものであった。

シリーズ第9回で「邪神ですら真理を説く」と述べたように、善男善女を巧妙に騙すためには九割方真理を示す必要があるのである。邪神はその狡猾な姦計でもって、残りの一割に全力を傾注し、我欲強き善男善女を騙して奈落へ導いて行くのである。その九割の中には嘗て正神から神託・啓示として下った真理や優良惑星人からの諌めの言葉を含む箇所や、(地球で発生し、厳密には正しくなく真理とは呼べないものの、現在の地球惑星人のレベルに合わせた実行可能な範囲としては善しとすべき)信条も散見されることは論を待たない。従って、宗教の説く処の全てが宜しくないというわけではない。善いものは善いとして否定はせぬのが是々非々というものである。

以上、御利益(お蔭)信仰、祈り、題目について述べてきたが、宗教の大小を問わず、大方はこれらの特徴に属し大同小異である。いずれも想念作用を覆い隠す点において、邪神の姦計は共通している。この他にもう一つ「病気治し」を標榜するものがあるが、「病気治し」は宗教教団である場合から心霊手術や宗教とは言えぬものまで裾野が広く、紙面と時間の都合で今回は見送り、機を改めて記述する予定である。

≪この方のもとへ来て悪くなったと言う人民、遠慮いらん帰りてくれよ。そんな軽い信心は信心ではないぞ。
結構な苦しみが判らん臣民一人も要らんのぞ。しっかり褌締めてついて御座れよ。
この方悪神とも見えると申してあろうがな。
この道に入ると損をしたり、病気になったり、怪我をすることがよくあるなれど、それは大難を小難にし、またメグリが一時に来てその借金済ましをさせられているのぢゃ。借りた物は返さねばならん道理ぢゃ。
長い目で見て良くしょうとするのが神の心ぞ。目の前のおかげではなく永遠の立場から良くなるおかげがマコトのおかげ。≫


本日これまで。


▼次へ

TOPへ戻る