第13回 『神々の正体(その1)』


さて、奇跡を起こして、口に愛だ平和だ慈悲だと唱えれば理念の眠った惑星人を騙して心酔させる事など邪神には赤子の手を捻るより容易であると過去の記事に残した通りである。

邪神である宗教の神々、地球の神々は、その老練さを以って、霊界上層の善霊たちの説く真理の言葉の破片を盗み、人間の我欲を煽る美辞麗句を散りばめて、真理の言葉を巧妙に捻じ曲げ、すり替え、神の啓示と言っては霊能者や宗教教祖やカリスマ的存在を通じて世に広めて、世の混乱、攪乱を謀(はか)ってきたのである。


この邪神の傀儡となった宗教教祖や霊能者に吸い寄せられた信者の中には、当然ながら真に神を求め、道を求め、惑星地球の平和を願い、隣人を愛そうと努力するなど殊勝な者も散見されるのではあるが、如何せん、我欲強く、地球に降ろされた優良惑星不適格者であるがため、我欲は未だその両の手に確りと握り締めたままである。

この我欲に巧みに付け入るのが、母星の時代から数十万年に渡って、不良惑星人から不良惑星人の肉体に憑依して渡り歩き老獪さを身に付けた狡猾な邪神である。

この老獪さと狡猾さにより練られた姦計の前には、善男善女も我欲ある限り一溜まりもない。

まずは悪想念を制御して、我欲を打ち捨てることこそが一大天譴を目前にした地球惑星人に課せられた人生の意義の中心中の中心である。

この想念波動とその作用を覆い隠して愛、平和、正義、真、善、美を如何に美しく飾り立てて説こうとも、その背後はおぞましい邪神・邪霊の世界がぽっかりと口を開いて善男善女を追い落とすべく巧みに罠を張っているのである。

こうして愛、平和、正義、真、善、美を口にすることで、またそれらしき活動をすることで、信者と役員など取り巻きに祭り上げられる教祖はもとより、嘗ては純粋であった信者の心にもいつしか選民思想が忍び込み、自と他を分け隔てる観念が知らず知らずに育っていくのである。

己の属する宗教、宗派、主義、信条に合致しない他者の考えを聞き、行いを見るにつけ「フン、○○の神様の世界もわからないくせに、知らないくせに、お前たちときたら・・・。」と。


自他分離は、自他一体感と利他に生きる優良惑星人には皆無の想念波動である。宗教の神々、地球の神々、即ち邪神・邪霊が衆人を導こうとするその目的は、選民思想を植え付け自他分離を謀(はか)り、想念波動の作用を隠蔽して、欲を巧みに煽る美辞麗句で衆人の理念を眠らせ、悪想念を発するよう仕向けることである。想念波動とその作用を隠蔽したまま、衆人を導く宗教も主義も道徳もいかなる信条も、優良惑星人の自他一体、利他愛とその表出である奉仕とは、「似て、全く非なるもの」であることを知らねばならない。


地球惑星人は宗教の背後も知らず、教団に入信して信者となったり、そうでなくとも、社殿、仏閣、聖堂に参拝しては、その我欲の心で願掛けをする。

勿論その中には物見遊山で、自ら信じてもいない神仏の前で賽銭を放り投げる者も多いが、これらの者とて商売繁盛、家内安全、安産、合格祈願などの札を買い求める際には、内心半信半疑ながら些かでも御利益を求める気持ちを働かせている。

これらの者は、その社殿に何が祀られていようとも、その意義など何ら意に介することもない。

しかし、寺社の中には封建制や武家政治の時代に、弱者を巻き込み踏みにじり、武力によって天下を取った我欲の権化である武将の霊魂を祀っているものなどがある。

神としてその社殿に今日まで祀られているのが、我欲の権化であることに何の疑問も抱かず、「歴史上の有名人」程度の思いで、物見遊山の衆人は年中行事的慣習として参拝しているのである。

地球惑星人は、唯物主義者ですら大方においてこの様な意識である。

しかし、武力と政治の力で、実権を掌握し、身分制度を造り同朋を上中下と分離して、弱者から搾取し他を脅かし、他を蔑んで、思い上がった権力者は宇宙則に反するが故に地獄とでも呼ぶべき次元に転落することは自明の理である。

これを神として祀るように唆(そそのか)したのは何者であるか言うまでもなかろう。唆される三次元の肉体人間である愚か者共も、地獄行きの武将を神として祭り上げ、時の権力者に媚び諂う低劣極まりない者共である。

時代が下り、この穢れた社殿に参拝し、況(ま)してこの地獄に落ちた愚昧の魂に願掛けをするなど愚の骨頂である。

考えもなく理念も眠らせた善男善女老若男女が後を絶たぬが故に一大天譴を小難に変え得る事も困難なのである。

人類は転生を繰り返し、数多の人生を体験することで、宇宙則に適った部分は調和の結果をもたらすが、経験不十分で未学習の部分はしばしば宇宙則に適わぬ故に不調和であり、誤った思考、行動となって表現してしまい、その当然の結果として苦痛体験を自らに反映して、自己反省の材料としているのである。


幸も不幸も宇宙則を踏まえて映し出される自らの心の鏡なのである。これを弁(わきま)えず、汚濁の社殿に願掛けをして、我れ善しの幸福や御利益を求めても、自ら地獄へ落ちたその社殿・仏閣の「神」には何ら幸福をもたらす力などある筈もないのである。

そんな事なら、例えば机の上に鉛筆を三本立てて、携帯電話の着信音を鳴らして拝んでも同じ事である。そこには何の意義も加護もなかろう。惑星人は寺社・仏閣・聖堂の「形」、すなわち虚仮威し(こけおどし)に惑わされてはならない。

現存文明圏に住む人類は、「たかが神社・仏閣への形ばかりの参詣に、何を大袈裟な・・。」と思うであろうが、実際に参詣する者の心中は、例えそれが物見遊山の参詣にしろ、ここぞとばかりに地位、名誉、金銭を求めて願掛けしたり、我欲を放擲する努力もせずして病気や障り事から逃れて、ただただ幸福を手に入れたいなどの、宇宙則を無視した利己的願望に支配されているのである。有り得ない事だが、百万が一にも、ひとり一人のこの我がまま勝手、自己中心の願いを「いずこかの神」が叶えたとすれば衆人は忽(たちまち)「神とは人の願いを叶えるために存在するもの」と定義するであろう。

現実はそのように救い様も無いほど勘違いした意識の極めて低い者達の数は思いのほか多いのである。こうして欲深い善男善女が発する自己中心、我善し、身勝手な願掛けの想念波動に嬉々として「糧」を得て、人から人へ'感染'する邪霊が初詣などの寺社にウヨウヨと屯っている。その様は将に身の毛も弥立つ様相である。

宇宙の神々は一なる創造神を「信仰しろ」とは決して言わない。

人類に対し、ただ
「その我欲を打ち捨てよ」
と諌め、守護進化を司るのみである。我欲を放擲する時、'超'能力はひとり一人に開き、この地上に桃源郷が展開するのである。

邪神の齎(もたら)した宗教に縋(すが)り、神社・仏閣・聖堂に参詣して祈りを捧げても、その参詣者の我欲による想念波動が汚濁したままで、どうして桃源郷が現れるというのか。

優良惑星に社殿・仏閣・聖堂は存在しないのである。

敢えて存在するという言うなら、優良惑星人ひとり一人が正神の宿る社殿なのである。

地球惑星の唯物科学の発達に伴って、昨今の僧侶も尼僧も司祭も司教も自らも信じてもいない神仏をその信徒・信者に説法して、神仏をダシにして生活の手段とし、ともすれば低俗な風潮に迎合して、真理をいいように改竄して伝える「体(てい)たらく」である。

その悟りもない僧侶・尼僧・司祭の読み上げる経文のどこに価値があるというのか。

「先ず波動有き」
である。

もしここに我欲を打ち捨て去り、正しい悟りに到達した僧侶・尼僧・司祭が一斉に経文を唱えれば、その正しい想念波動が忽ち天地万物の波動に鳴り響いて三次元地上も四次元霊界も共に浄化されるのである。

しかし、上述のような悟りのない僧侶らが何千万人集まったところで、我欲を確りと抱いていれば、その想念波動でどんなに高尚な経文を唱えても、万物の波動に共鳴して瞬く間に汚濁は放散されるのである。

極端な喩え話だが、我欲がなく放散する想念波動が充分に清まった高次のものならば、その経文を「ハラホレヒレハ、ヘベレケレ、ンナワケネーダロ、ヘッポコキターッ」と、机の上に鉛筆を三本立てて携帯電話の着信音を流しながら唱えても桃源郷を実現為し得るのである。

創造神と繋がる高い想念波動を有すれば、やる事為す事全てが理に適うのである。

高みに上るほど形式や儀式は必要なく、何事も真の自由の中に執り行われるのである。

次元が上がるほど制約が外れて自由度が上がって行く道理である。

次元が上がるほど調和が進むため、高い調和を以って存在する世界に制約や規制は不要なのである。


繰り返す。

地球惑星人にとっては夢のような桃源郷である優良惑星には、神社も仏閣も聖堂も宗教もいかなる経文も存在はしないということを知らねばならない。

一なる創造主であらせられる絶対神を抽象的多神教的神々の中に埋没させ、その御存在を覆い隠した上に、想念波動とその作用をも隠蔽させた邪神の齎した宗教も宗教が言う「神」も欺瞞以外の何ものでもないのである。

既成大宗教も新興宗教と呼ばれる教団も、我と欲の放擲、想念波動の是正、優良惑星群入りの重要性を隠蔽し、美辞麗句で耳障りのよい真理めいた言葉を並べ立て、信仰する者たちにも気付かれぬように欲を静かに煽り、酔わす、酔わす、酔わす。

酔わせて選民思想を植え付ける。邪神・邪霊は宗教内部を分裂させ、多くの宗派・分派に分離させることで、入信者の'窓口'を増やす。各種用意された(ように見える)多くの'窓口'から善男善女は'ご入信'してくるのである。

互いに自己主張して分裂した宗教・宗派同士が相克し合うように仕向けて悪想念を益々放散させる。


信者は信者で、平和、愛、正義、神を口にしながら、現実は心を正すことを棚上げし、一心熱心に経文を唱え、家事もそぞろに教団に通って奉仕三昧し、生活のためと言っては競争、闘争、排他的想念を撒き散らし、我善しの心と縋る想いで熱心に信仰する。

我欲の放擲を置き去りにしている限り、神を信仰するからといってそれで魂が高邁(こうまい)であるとは言えないのである。何をするにつけ最後は人類に悪想念を撒き散らさせることが宗教背後邪神の目的である。

何度も言うが、根源神である絶対神に繋ぐ宇宙の神々は人間に対して、信仰せよとは言わない。

我欲を打ち捨てよというのである。

不良惑星人という進化段階にある場合、その人生の目的は我欲の放擲にある。

そのための転生経験である。

時を変え、人を変え、立場を変えて学ぶために転生するのである。

人類が為すべき事は集約すれば我欲の放擲、この一点に尽きるのである。

そこに信仰は必要ない。

そこに宗教は必要ない。

そこに経文は必要ない。

そこに社殿は必要ない。

そこに教祖は必要ない。

そこに幹部は必要ない。


我欲の放擲は日々の体験を通じて、己の心の動きをよく観察し、我欲、エゴに気付いて、これをえぐり出して学ぶ「個々人ひとり一人の」反省と悟りの行だからである。

他人が代わって学ぶことはできない

極めて個別的学習課題なのである。



さて、こうして地球惑星人の我欲に付け入り、最早、収集がつかないまでに世の攪乱を謀って来た宗教ではあるが、歴史を有する宗教もその初発はいずれも純真なものであった。

ゴータマもムハンマドもイエズスも更に遡ってモイゼもその教説を施したのは街路や野原や住居が集合する中の広場であった。

彼等の教説が何万巻もの経典に膨れ上がり、大伽藍や大聖堂や大社殿や大仏閣を建立し、多くの宗派・宗門に分派して、互いに排斥し合い、憎みあい、殺し合いの歴史を通じて、最後は営利団体と成り果てて尚、我欲の放擲を説かず、真の神を岩戸の中に閉じ込めて、信者共々驕傲慢心の姿に成り果てても、その己の姿に気付かず、そうとは知らずに天に唾して歩くとは、釈迦もマホメットもイエスもモーセのうち誰も夢想だに思わなかったであろう。


その時代の人類意識の総体の程度に合わせて、宇宙の神々や優良惑星人の精神感応による啓示や示唆が下ったことは事実である。

また、初発は彼等の誰一人大きく誤った教えを説くことはなかったのである。

しかし、後々の学問僧達や神学者達が、威厳を付けるため厳しい戒律を設け、人気商売の如く教勢を張るため、衆生の欲心を煽って、願望充足を説き加え、更に信者・宗徒以外をも広く威服するため大伽藍・大聖堂・大仏閣・大社殿の建立へと暴走していったのである。

貨幣経済の悪弊と相まって、教勢の増強とともに金銭の獲得も暴走を始める。

こうして政治と結びつき、政教共に癒着して互いに捻じ曲げあいながら現在に至ったのである。

この背後には常に邪神の姦計、画策が張り巡らされたことは言うまでもない。

宗教が真に正神と繋ぐものであるならば、人類を真に正しき方向へ導く素地を有しているならば、地球惑星には疾(と)うの昔に地上天国が展開していてもおかしくはない。

その地上天国が一体この地球惑星のどこにあるというのか。


この様子を'発展'と捉えることがあるなら斯(か)くも愚かな事はない。

例えば、日本国民に馴染みある仏教を取り上げれば、釈迦が生前に野原で説いて残した講和を聞いた多くの弟子達は、その聴聞した内容を釈迦の死後、更にその弟子達に語り継ぎ、言い伝えて、年月と共に講和が説話に変化し、やがて語部(かたりべ)達に言い継がれて、語部を家業とする者達が代々子孫や弟子に語り継いで言い継いで数百年が経過した。

この段階で既に大昔の物語と化した釈迦の説話を、更に数百十年かかって文字に表わしたのである。


そんな一書一書が手書きされた「釈迦物語」が数百巻も各地に現れた。


その釈迦物語は更に更に何度も書き換え、書き加え、書き直されて、約千年かかって現在のインドである当時の天竺から支那(中国)大陸へ移動していった。


この原型を殆ど留めない物語と化した釈迦伝説は当時儒教に不満をもつ衆生の間で盛んに読まれるようになった。

この梵語(古代インド語)の釈迦伝説物語を漢文に翻訳することを生活手段にする仏教学問僧が各地で、生活のため翻訳業に従事するようになった。

後から後から持ち込まれる梵語の釈迦物語を次々に尾鰭を付けて数千巻の経典を作り上げてしまったのである。

これを集大成した首謀者は未だに地獄の次元でもがき苦しむ天台である。


梵語から漢文へと組織的に翻訳されたこの一大作業の中、翻訳者の技量と知識とによって同じ原書を訳してもその結果に差が出ることは避けられず、完全を期すことなど辞書が世界的に発達した現代にあっても不可能である。

原意を保って翻訳することはただでさえ難しいのに、定まった国語もない二千年以前の大昔において、口伝され、謬伝(びゅうでん:誤って伝わる)され、膨れ上がって、翻訳され、尾鰭背鰭がついた釈迦伝説謬伝物語になど、一体どれだけの信用があるであろうか。

古代インド語である梵語に豊かな表現は出来ず、限られた原義をラクダの背に括り付けて、インドから遥々中国まで一書、一書、また一書と数百巻の釈迦物語が二千年もかかって移動したのである。

その数百巻の釈迦物語が中国大陸で数千巻に膨れ上がったのである。

紙一枚に書かれた文書を紙十枚にするのにどれだけの捏造、作話が必要であろうか。

九枚分はそこらの町のどこぞの学問僧の'作品'なのである。

そのうえ自らの作品が原書と懸け離れれば離れるほどに学問僧は生活の手段を失うまいと、原書を焼き捨てる念の入り様であった。


宗派・宗門を問わず、今日現存の仏典は、往時の学問僧の「生活の手段の足跡」であると定義しても過言ではない。
最早、完全なフィクションである。


この編纂の由来は仏教も基督教も、回教も似たり寄ったりである。

故に今日の仏教も回教も基督教もゴータマ、ムハンマド、イエズスの真に説いた内容は殆ど消滅して、後の世の学問僧や神学者らによる捏造、作話、創作、小説と成り果てたフィクションである。


肝腎な想念波動とその作用を隠蔽したまま、愚にもつかぬ美辞麗句で膨れあがった謬伝物語を信仰しては高い霊界に往くことがない訳である。

またこれを指導した者が、多くの衆生を迷わせた大罪を償うため地獄の次元で猛省を強いられるのも天則の定めるところである。


因みに、釈迦は折角、因果応報を説き、八正道を説いておきながら、生老病死を四苦として逃れようとしたことが、釈迦の最大の誤りであった。生老病死の意義を悟れなかったのが釈迦の落とし穴だったのである。


生老病死は魂の進化のためのものであり、このシリーズで述べてきた「悪」である。

悪ならぬ
「悪」である。

「悪憎むが悪ぢゃ」の悪は不正のみを意味するのではなく、身から出た錆とでもいう転生世代間を股にかけた不幸現象も含む。

この生老病死を滅ぼそうとするのは、必要な体験から逃避しようとする思想である。

大愛は、その者が己の力で必ず立ち上がり乗り越えられるだけの試練を課している。簡単すぎる課題も難しすぎる課題もなく、一切の偶然なく絶妙に仕組まれた魂の学習環境、魂の学習教材である。この必要な体験を通じで進化せずに、観念や知識だけで何がどう進化するというのか。

結局、仏教は地球的視野には立っていたものの、宇宙的視野には立てず、次元上昇を目前にした地球惑星の転換期の中にある今日、最早過去の遺物に過ぎない。基督教も回教も然りである。



イエスは別格であった。イエスは釈迦やモハメットのように不良惑星人として身を起こした者ではないからである。イエスは五次元霊界から転生した魂である。

戒律による宗教ではなく、神の愛を説いた高級霊人であった。シリーズ第9回の記事中、便宜的に分類した魂の進化段階において、「人類の導きのため三次元に転生することもある高級霊人」であった。愛を説いたのはイエスが初めてであった訳である。イエスに内在した魂は将に天国から地獄へ降りて愛を説いたのであった。

(その肉体的特長は、実際は白人ではなく寧ろアジア人に近い小柄で少し猫背の男性だった。古代のユダヤ人の先祖は浅黒い皮膚をしたアジア人に似た種族だったのである。)

しかし、後の神学者や為政者により、基督教として'再利用'され、捏造、作話の小説作品化は母マリアの処女懐妊に始まり、果ては当時の教会権力維持のため輪廻転生の否定を会議で人間が決めるなどという愚行(西暦553年にコンスタンチノープルで開催された宗教会議で、それまであった輪廻転生の記述の削除が正式認定され、以後基督教では輪廻転生の概念は異端であるとされた。)等々に至るまで地に落ちた経緯は他宗教と大同小異である。

(処女懐妊などとこれほど肉体人間を神聖化し、神を冒涜することはない。やる事をやらずして、イエスは試験管で作られたとでも言うのか。)現在、基督教の多くの分派では輪廻転生はないことに'決めて'いる。

一大天譴とアセンションの迫った今日、宗教的信仰とその'後遺症'である勧善懲悪の短絡思考は既に過去の遺物である。善悪を超越しなければいつまでも宗教的善悪論の呪縛から解き放たれることなく、「悪」をみて咎め、責め、滅しようと悪想念を放散する愚を続けることになる。

邪神は地球人の我欲に付け入って、精神世界に対する惑星人の認識を混乱、攪乱させ、混沌なるものにしてしまったが、彼等の功績が一つだけあるとすれば、唯物科学と唯物思想の蔓延(はびこ)る世の一方で、人間には正邪の判断はつかぬものの、神と呼ばれる偉大なる「何か」の存在に思いを馳せ、唯物思想に抗して神の存在を意識に留めさせた事と言えるであろう。神の社の唯一の存在意義である。

しかし、地球の次元上昇を目前に控えた今となっては、優良惑星社会の如く、社殿も仏閣も聖堂ももはや不必要である。

地球人が超能力と呼ぶ、生命進化上賦与される順当な能力、エゴを放擲して初めて自ずと開く次なる能力の獲得をエゴ放擲のバロメータとすべし。この能力の獲得を目的としてはならない。飽く迄、己のエゴ・我欲を打ち捨てるバロメータである。この能力が開顕する暁には、日本神道の天照大神も、仏教の阿弥陀如来も、回教のアッラーの神も、イエスの言う天なる父も、その正体、位置が白日の下に晒され、全てが明かされるであろう。

宇宙一切偶然はない。善きにつけ悪しきにつけ感謝すべし。全てが己の学習である。不良惑星人の場合、殆どが己の業の償還と心底巣食ったエゴを掘り出すための教材である。辛い作業なるも、明るい気持ちで自己反省と体験を繰り返して向上するより他はない。残された時間は少ないが、短い期間なら尚のこと頑張れもするであろう。前へ、前へ・・・。

≪悪を殺すと云う教や、やり方ではならんぞ。悪を抱き参らせて下されよ。≫

本日これまで。


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