第13回 『神々の正体(その1)』
先回(第12回)では冒頭に
『地球惑星人の神に対する認識は混沌としている』
として少しだけ今回の主題に言及した。
また、
『根源的な神、一なる創造主はその現れ方こそ違え、どこにでも現れている。
神は愛そのものであり、愛は神そのものである。
また、一見して悪なる「悪」も一見して不幸なる「不幸」も
神の愛の働きの一部なのである。』
として後に
『神々の正体』
と題して詳述するとも記した。
神、神々といえば地球惑星人の場合、直ちに宗教と関連付けるのが常套である。
地球惑星人は宗教と言うフィルターを通してしか神を見ていない場合が殆どである。
世間一般で神の名を口にすれば
「何かの宗教ですか?」
と聞かれるではないか。
少し考えれば解ることだが、宇宙に話を広げるまでもなく、地球惑星一つとっても、その運行やそこに棲息する生物・生命の進化の促進やその下地となるあらゆる諸法則は人類が宗教を作り出す遥か以前から厳として存在していたのであり、大小新旧各宗教が誕生し、各宗教の神などを定義して、大伽藍や大聖堂など建立せずとも、諸法則に従いながら、惑星は運行され、そこに棲息する生物・生命も進化を続けてきたのである。
宗教と神は本来全く無関係であり、宗教は所詮不良惑星人の作ったモノに過ぎない。
神は人間の作り上げた宗教ごときに規定されるような矮小な存在ではない。
故に宇宙の諸法則に合致して生きる優良惑星人の住む各惑星・遊星には宗教は不要につき存在しない訳である。
宗教などなくても、神は全宇宙に偏在し、三次元の物理法則も、四次元が関わる精神の法則も、いかなる次元をも貫く波動の諸法則も経綸下に治める根源的存在なのである。
地球人が漠然とでも想起する人の形をしたような存在であったり、どこかある一点にぼんやりとまたはベールのように存在しているようなことは有り得ないのは言うまでもないが、精神体のように次元を限定して在るような存在でもない。
神はいかなる次元においても「現れ」や「働き」としてしか見えないのであり、三次元の存在には精々感じることしか出来ない存在である。
また、その「現れ」は神の働きであり神そのものではない。
卑近な例で敢えて喩えれば、鳥が空を飛ぶその力が神の「働き」である。
石が水中に沈む重力が神の「働き」である。
石が石であること自体も神の「働き」である。
水が水素と酸素で水たることも神の「働き」であり、
雨として降るのも神の「働き」である。
が、これらは神の
「働き」であり、
神そのものではない。
神とは叡智そのものであり、
愛そのものである。
叡智と愛は神そのものである。
神の「働き」を通じで神を見出ださねばならない。
例えとして雨を挙げれば、雨として植物はじめ大地の諸々のものを育む性質が雨、水に備わっていることが叡智であり愛なのであり、
「現れ」としての雨そのものやその「働き」自体は神ではない。
三次元の物理現象としての雨はあくまで現象であり、神の働きとしての現れであるが、(物質世界から見れば)雨には叡智と愛が属性として備わっているように見え、(本来的実相は)叡智と愛に水という属性が備わっているのである。
雨水のみならず、全て、全てにおいて、叡智と愛はいかなる形にもなって現れるのである。
全ては愛と叡智から発せられた波動が具現化して、それぞれの次元にてそれぞれの実質となって現れる。
その現れ方を規定するのが各次元を構成する様式である各次元の諸法則である。
三次元の現象界になら(物理法則が様式の一つとして有り)物質として、四次元の霊界なら霊質として、愛と叡智を内包したまま(まず波動の形を取り)その次元、世界として具現化しているのである。
愛と叡智が様々に変化して万物として現れ、万物はその根源を愛と叡智として同じくするが故に「全てはひとつながり」と表現されるのである。
このような意味においては、岩は雲であり、雲は土であり、土は列車であり、列車は硫酸であり、硫酸はヒマワリである。
愛と叡智が諸法則を通して、岩にも水にも雲にも金属にも化学物質にも細胞にもなって現れているのである。
愛と叡智が波動として、次元を問わず宇宙間に充満し、各次元の諸法則を通じて、三次元なら時間と空間という現われの中に物質も現れる。物質のひとつである「生物」に乗った愛と叡智の分け御魂である「生命」は「生物」という生存体験と幾多の転生経験を通じ、根源的愛と叡智へ近づく進化を繰り返すのである。
このシリーズの過去の記事(第3回『想念作用(その2)』)で、
実在とは愛と叡智である根源神の御存在とその分け御霊である生命(生物ではない)のみであり、如何なる次元も世界もホログラフィックな現象界(現われ)であると既に記したとおりである。愛と叡智はいかようにも変化(へぐ)るのである。
また、人類の無知蒙昧とその暴挙で、生命と愛に反する間違った行為をすれば、例えば雨は時に酸性雨として、集中豪雨として、洪水として「悪」の働きをも演ずる。が、先回(シリーズ第12回)の主題とした『悪あればこそ弥栄える』
に既述した通り、「悪」として現れることも出来る愛であり叡智なのである。
不良惑星人は神を「悟る」ことは至難の業であるため、
「悟」ではなく、「知」を以って地球惑星人に噛み砕いて喩えて、ある惑星人が夢を見ているとする。
その夢の中の要素は波動であれ、法則であれ、物質であれ、霊質であれ、全てその惑星人の想念が夢という形で作り出した世界であるとする。
夢の主が想念して生み出した世界の中に存在する住人が、その世界の中に夢の主の姿をどんなに求めて探そうとも、その姿は決して見つけることは出来ない道理である。
夢の主の姿は見えねど、その想念するところを「現れ」を通じて感じ取った住人は、そこに夢の主の想念の「働き」を知り、その「働き」の意義を見出し、かつ体得した時、夢の主の大いなる愛念を悟り行く事ができるのであり、これが正道である。
その悟り行く過程で我と欲という己の心に内包する悪の気を克服して行くのである。
その克服の過程に「悪」となって具現化し、その者が我と欲を堅持している愚かさを知らしめるのである。
この悪の気を断つ道程である自分発見は、心をえぐる衝撃的で実に辛い作業である。
己のエゴを目の当たりにし、己の心の汚濁の程度に愕然として初めて謙虚さを学ぶのである。
高まるほどに「我こそは」という思いは最早、鳴りをひそめ、そうして謙虚さを学んだ者は自ずと他を許す寛容の心が拡大して行く。
許しは愛の表出の一表現であり、神の大愛へと近づく進化である。
≪悪は悪ならず。
悪憎むが悪ぢゃ≫
しかし、その夢の中で、
「物知り顔をした物知らず」の「我こそは」が宗教などという欺瞞のシステムで「夢の主」を我田引水なる教義の枠にはめ込み規定して神と呼び、この「神」を利用して己の自己保身と我欲の充足を計るその姿を見るにつけ、またその行く末を思うと哀れである。
また、理念発動させ得ずして、これを鵜呑みにし、欲心を満足させ得る時のみ有難がって御利益を求める衆人の姿も哀れで、時に滑稽ですらある。
以上は相当に乱暴な例えではあるが、神とは優良惑星人は勿論、相当に進化した高次元神霊ですら、計り知れない全宇宙を経綸する根源的存在なのである。
また、いかなる高次元の御神霊といえども、全てはこの根源神の経綸下に存在するのであり、根源神を越えることはできないのは言うまでもない。先の「夢の主」の例で言えば、いかなる高次の存在も夢の主の「想念のスープ」の中の存在なのである。
この根源的な神を絶対神、創造主、創造神、宇宙創造神と、その御働きを冠して称慕申し上げているのである。
日月神示では
≪元の元の元の神≫
と表現することもある。
この根源的神の大想念世界の中の存在として、各次元に、また複数次元を超越して様々な進化段階にある
「宇宙の神々」
と仮に呼び申し上げる御神霊が在らせられるのである。
以下三次元宇宙空間に住する優良惑星人まで下ってくるのである。
この様子はシリーズ第9回に
「さて、こうした生命進化の・・・」で始まる第4段落目に示したとおりである。
が、こうした分類は地球惑星人の理解のための便宜上の区分であることを念を押しておく次第である。
このシリーズの第1回記事から神として表現してきた存在は、この根源的神であり、時に高次元の御神霊のことをいう。
では、地球惑星人が神、神々として、宗教というフィルターを通して見ているものは一体何なのか。
これを仮に
「宗教の神々」とか
「地球の神々」と呼び、宇宙一切の根源神であらせられる創造神へと繋がる高次元の神々を
「宇宙の神々」と仮に呼ぶことにして先に進むこととする。
本シリーズ第1回から一貫して、
「宇宙一切創造主の律動であり、
想念波動とその作用に対する理解と惑星人ひとり一人の悪想念波動の制御が地球惑星の命運を決め、
一大天譴は必要あって避けて通ることはできないが、地球惑星の優良惑星群参入までの道のりを大難とするか小難とするか、
はたまた負の勢力に弄ばれて惑星地球の小惑星化、
流星化へと引き込まれ、三次元宇宙の塵と成り果てる大罪を犯すか、
一にかかって地球惑星人の想念波動次第である」
と述べてきた。
地球惑星人の肉食によって、否応無く無慈悲に大量に屠殺された動物らの怨恨、憤怒と悲哀の念が地球惑星の業想念の総体を汚濁し許容の限界を超えつつある旨も述べた。
また、宇宙の神々から優良惑星人まで、有形無形の存在が人類を(またその魂を)一人でも多く救済へと自ら向かわせるべく尽力していることも述べてきた。
この想念波動と作用を覆い隠し、
暗躍してきた者こそ、
「シリーズ第9回
『邪神・邪霊』夜明け前、いよいよ激しく巧妙に」
において、その発生から実体まで詳述した邪なる勢力である。
破壊的想念を抱き、否定的負の想念波動を「糧」とする生命進化のサイクルに逆行する勢力である。
この邪神共が想念波動とその作用を隠蔽するのに最も功を奏した手段が宗教であった。
どの宗教も道徳も善を勧めて、悪を行ってはいけないと訴える事は決して悪いことではない。
しかし、想念波動の作用を説かずに善を勧める時、
何が起こるか邪神らはよく知っている。
即ち宗教信者のみならず、一般の地球惑星人は人々に善であることを望むものの、実際に善を行わない人々を見て、
咎め、怒りの心を起こして非難するなど排他的想念を放射するのである。
また、悪を行う者を見て、
憎しみ、咎め、
果ては
「殺してしまえ」
と攻撃的、排他的想念、他を否定する想念を放射するのである。
勧善懲悪を強く推進しようとするほどに、これらの悪想念を起こす衆人が多く出る結果を生むのである。
「まず波動在りき」とシリーズを通じて述べてきた理由は偏(ひとえ)にここにある。
本シリーズではないが、スピリチュアルページの
「ベジ&スピリチュアル雑記帳」の中に
『正しい事でも争う時は既に誤り』(肉食と戦争:番外編)
を記した狙いは、同朋である動物達に溢れる慈愛の心を向けられる発達段階に既に達したベジタリアンらが、動物達を愛するが余りに、その「愛が執着へと変容」し、「正義の心が驕(おご)りへと変容」し、想念波動世界では取り返しのつかぬ罪を築き上げ兼ねない危険性を訴えることにあったのである。
善を望み、善に憧れ、善を勧め、悪を否定しようとするほどに却(かえ)って破壊の原因である悪想念を累積するとは、これ程愚かで哀しい事はないのである。
この無明に人類を導いたのが邪神・邪霊とその傀儡となって操作された肉体人間達であり、宗教や道徳を利用し、如何にも善を世に勧めるかのごとく装って、実は想念波動、念波、霊波の作用を隠蔽して却って悪を行わせてきたのである。
「愛と正義と善を強力に勧め、人類を救済する為に組織された団体が宗教団体」。
この文言の背後のどこに底知れぬ罠が大きな口をポッカリ空けて善男善女を待ち構えているのか、何も知らぬ者にはとんと見当もつかぬのである。
想念波動とその作用を知る者、そして「大峠」を越える為、未来へ向かって人類が何をすべきか得心の行った者は、この欺瞞と罠をよくよく銘肝すべし。
宗教の神々と呼ぼうが、地球の神々と言おうが、その実態は邪神・邪霊なのである。
何度も言及するが、これらの手管(てくだ)の要諦(ようてい)は想念波動とその作用を覆い隠し、極めて狡猾(こうかつ)に真理めいた言葉を散りばめ、愛と正義に満ち満ちた教義を展開するかの様にみせかけ、その実、人類の欲心をあおり、自己主張を助長する破滅の方向へと導くという一点に尽きる。
その最終目的は地球の小惑星化、流星化なのである。
不良惑星人の我欲の想念波動に吸い寄せられるかのように地球に参集した邪神・邪霊が数万年に渡って「悲願」としてきた地球の流星化である。
理念の眠った宗教的人格者やカリスマ的存在や霊感的教祖の背後で宗教を起こし、これを利用して、平和、愛、正義、真、善、美、誠などまことしやかに謳い上げ、「欲心を捨てましょう」「隣人を愛しましょう」と一方で正しいことを言いながら、また一方では、我欲ある信者の心の隙に付け入って無限供給などと称し、信者に気付かれぬように欲心を煽り続けるのである。
「シリーズ第9回『邪神・邪霊』夜明け前、いよいよ激しく巧妙に」の一部をそのまま転記すれば、
「邪神ですら真理を説くのである。
九割は正神の言葉を盗んで真理を説き、安心させ、残り一割で見事に騙す。
邪神ほどの老獪な存在であるが故に出来ることである。
平等を説き、平和を語り、人心を美辞麗句に酔わせ、
「いざ、いざ行かむ」
と神の顔をして、人を獣へと導くのである。」
邪神が邪神の顔をして現われるはずがないではないか。
むしろ燦然と神々しい光を放ち現われるのである。
いわゆる霊能者にかかるのは神々しいまでにその姿を幻視させる邪神から邪霊、果ては低い背後霊まで
「ピンからキリ」
である。
往々にしていずれの霊能者も「神」を説くものである。
肉体人間は、三次元の肉体とその複体である四次元の霊体を持ち、三次元に生活しながら、同時に四次元にも繋(つな)がっているのは最早常識であろう。
顕在意識とも呼ばれる表面意識は通常三次元での活動にのみ関与し、無意識とも呼ばれる潜在意識は四次元にもそれ以上の次元にも作用するように組成されている。
所謂虫の知らせや夢や第六感はこの一部である。
通常の生活における意識状態では、意識による無意識の捕捉、即ち表面意識で潜在意識の動きを捉えることは極めて稀であるため、四次元に関与する潜在意識で得た印象や心象が三次元用のモニターである肉体の脳を再生機とする表面意識に浮かび上がることは意識的にはできない。
できるとすれば無意識に意識を投じた時(瞑想などによる変性意識状態)などであり、通常の生活における意識状態では無意識層の情報をはっきりと意識的に感じ取る事は困難である。
特に表面意識が生存競争に奔走する時には決して潜在意識から表面意識へ四次元の印象、心象が浮かび上がることはない。
しかし、霊能者と呼ばれる者たちの背後霊の波動変換能(または波動干渉能)とでもいうべき能力により、四次元の印象や心象を即座に表面意識へ言わば'ショートさせる'ことで導入せしめる能力が霊能力である。
よって、その背後霊の正邪、真偽、高低の度合いにより、入れ物である霊能者の程度も百人百様となる。
そこに肉体人間としての霊能者自身の耐久力、知識、人格、霊位の影響が加わり、更に霊能者の潜在願望にその背後霊がある程度呼応して、現われる霊能は千差万別となる。
遺失物(うせもの)判断や方角占いの如きものから、シャーマニズムのような呪術的なもの、奇跡的な詐術で世間の瞠目を集めるもの、心霊手術や治療を施すものや死者の霊を憑依させる口寄せ的なもの、そして稀代の予言者まで様々であるが、低い背後霊の支配する者ほど即物的で、高い者は啓示的となっていく。
しかし、高い者とは言っても、この背後霊は所詮四次元の範囲を出ることは決してない。
なぜなら宇宙の神は肉体人間に霊能力は決して与えないからである。
肉体人間に(悪想念の制御という条件付で)自ずと賦与されるように仕組まれているのは、精神感応力を基礎とした様々な(地球人のいう)超能力である。
悪想念制御ができぬうちはこの超能力も決して開かれない。
それは精神異常者に刃物を持たせるのと同じだからである。
超能力は不良惑星人がそう呼ぶのであって、生命進化上、優良惑星人のようにエゴを放擲(ほうてき:打ち捨てること)した段階に精神性が到達した時、自ずと発現する能力であり、それを'超'
能力などと呼ぶ必要はない。
不良惑星人には抽象的概念を理解する能力は今となっては当たり前の能力であるが、初発の人類や類人猿からすればその能力は将に超能力に匹敵する摩訶不思議な力なのである。
それと同じように、地球人の言う超能力は生命の進化に伴って賦与されるよう仕組まれ、約束された当たり前の能力なのである。
霊能力のように背後霊の霊位の高低とその感応度により結果を左右される不安定な能力とは異なり、エゴを放擲した時に自ずと開く能力なのである。
この能力はエゴ、我欲を捨て切れない地球惑星人には未だ'超'能力という手の届かない領域にある能力だが、優良惑星では(敢えて言えば)'常'能力である。
よって正神と繋ぐ優良惑星人に、四次元の様々な低き者がかかることもなく、霊能力と称する'混線'や憑依もない道理である。
霊能力の発現は地球惑星始め他の不良惑星特有の現象なのである。
優良惑星に霊能者は存在しない。
全ての優良惑星人は我欲の制御を成し遂げているため、波動同調性により邪神と繋ぐことはなく、宇宙の神々と繋がり、創造神には全幅の信頼を置くため、常に正神に'神憑って'(かみがかって)いるのである。
惑星人ひとり一人が正神と繋ぐ至福の中にある優良惑星社会に、何ぞ宗教、社殿、仏閣、聖堂の必要あらんや。
我欲の制御、エゴの放擲を為し得た結果、幸福は望まずとも享受できるものなのである。
地球惑星人は地球科学的常識で解き明かされないからといって、不可思議な状況を直ちに神、または神々と判断して呼ぶような古典的信仰に近い思考に走ってはいけない。
古代神道は随神(かんながら)の道を説き、宗祖・教祖も存在せず、思想、哲学的に神の道を説くもので地球発祥のものにしては比較的高い次元を示す道であった。
しかし、時代が下るに従い、我欲の者共に汚濁され、邪神・邪霊に踏み荒らされる様相へと変質してしまった。いつしか原始宗教のごときアニミズム的傾向を示し、高き神々に通じていた往時の影もなく、完全に形骸化して今日に至っている。八百万(やおよろず)の神の発想は既述のごとく、愛と叡智が様々に変化して万物として現れる様子を捉えて生まれたものであるが、鳥が空を飛ぶその力は神の「働き」であるのに、これを神とし、石が水中に沈む重力は神の「働き」であるのに、これを神とし、石が石であること自体は神の「働き」であるのにこれを神とし、水が水素と酸素で水たることは神の「働き」であるのにこれを神としてしまったのである。
古神道時代の惑星人は神とは叡智そのものであり、愛そのものであると直感していたため、石や鳥や水は根源的神ではなく、働きであると知っていたが、時代が下るにつれて根源的神の「働き」までも神々とするような愚昧に成り果ててしまったのである。
これも我欲に付け入った邪神の支配下に入って、理念を眠らされた結果である。
こうして石にも雨にも土にも神々が宿るとされた。
(「神が宿る」とするのは一面的には正しいのであるが、それは根源的神の現れであり、働きであって、神そのものではない。)こうして八百万の神々の'誕生'となっていった。
更に時代は下り、ついには
『唯一絶対神の存在を八百万の神々の中に埋没させてしまった』のである。
日本古来の
'宇宙科学'の黎明はこうして潰えてしまったのである。
ここに多神教的古典信仰が成立し、国中に五穀豊穣の神やら鎮守の神やら水の神、山の神、火の神やらが各地で祀(まつ)られ始めた。
村落の住人達は、不作を憂えて五穀豊穣の神を、洪水が起きれば水の神を、土砂が崩れれば山の神を、火災が起きれば火の神を、地震が起きれば地の神をと、それぞれの神を引っ張り出して祀って祈りを捧げてきた。
しかし、村落住人の作物の豊作不作も災害も、偏にその村落住人の想念波動の良し悪しにかかっていることを、時代が下ったこの時、最早知る由もなくなっていたのである。
村落とその隣の村落が相克し、年中悪想念を撒き散らしておきながら、その村落の豊作や無災害は望むべくもないのである。その村落の収穫と加護は火の神、山の神、鎮守の神や水の神を祀って信仰するかどうかによるのではなく、想念波動の制御に掛かっているのである。
こうしてここでも邪神・邪霊は、実在である一なる創造主、絶対神の存在を八百万の神という実在しない抽象概念的神の中に埋没させ、人民に絶対神の存在を忘却させることに成功し、その上に想念波動とその作用の隠蔽工作にも成功を収め、抽象概念的八百万の神をせっせと祀らせ、我欲の放擲という魂の転生の目的から人民を遠ざけてきたのである。
唯物科学が発達した現代にあって、このような多神教的古典信仰を真顔でしていた村落住民を現代惑星人は嘲笑するであろうが、想念波動とその作用による人類の禍福に対し盲目同然であるという点において、往時の村落住民を笑う資格などどこにもないのである。否、現在も相も変わらず邪神の画策にまんまと嵌まり、尚、我欲をほしいままにしているばかりか、往時の村落住民の神に対する感謝の念と比較して、現代人は感謝の念を忘却してしまったかのような驕った姿勢で、どうして往時の惑星人を笑うことができようか。
村落住民の信仰は、火の神や水の神といった抽象概念的神を祀って祈れば福来たると思わされるなど、邪神に操られていたのではあるが、豊作の際には衷心より感謝の念を捧げ奉ったのである。
仮令(たとえ)実在しない抽象的、概念的神に手を合わせていても、感謝の念は正神と繋ぐ波動であるが故に宇宙則に適った波動なのである。
この感謝さえ薄れ行く現今地球惑星人がどうして往時の無知なる村落住民を笑うことができようか。
山崩れが起こる原因を往時の村落民が山の神の怒りとして恐れたのとは異なり、現代人は災害の発生する原因を地質構造や気象条件に求め、山崩れが起こったのは地盤が軟質なところへ集中豪雨が降って起こったとする。が、優良惑星には集中豪雨が発生しない。
集中豪雨が発生しない以上、地盤が軟質であっても何ら不都合は起きないのである。
不良惑星の場合、その集中豪雨は如何にして齎されるのか考えて見られよ。
業想念の自壊作用である。
地球惑星人は洪水を見て荒れ狂うが如しというが、その様子はその惑星に住む惑星人の意識が荒れ狂う、その心の姿の映しなのである。
これを比喩表現であると思う者が在れば、それは誤りである。
比喩などではなく、想念波動の作用の具現化である。
悪想念の放散と自壊が病や障りになって現れる事には得心が行くが、気象条件だけは例外ということはなかろう。
現れである万物を支持する波動により様々に変化(へぐ)る天則を忘れてはならない。
波動が良くも悪くも変化すれば現れも変化するのである。
住人の想念波動次第で、悪にも変化り、善にも変化る。
悪に変化れば反省と我欲の制御に精進し、善に変化れば尚一層の感謝を捧げ、悪も善も進化に必要な現われなのだから、善きにつけ悪しきにつけ感謝の念を起こすべきなのである。
宇宙間に根源的悪はない。
(尚、記紀神話には様々な神々が登場する。
根源の神の記述もあるし、観念的神の記述もあるが、登場するほとんどの神々は、架空や喩えやアニミズム的な神々ではなく、実際に肉体をもって三次元地球地上に存在した肉体人間であった。
シリーズ第8回『現存地球惑星人の来歴』でも少し触れた天津神、国津神を参照されたし。
また、今に伝わる
天津神、国津神の伝承は、歴史の中で邪神邪霊の画策に操られた往時の地上権力者とその配下の者共によって改竄され、天津神と国津神が入れ替わっていたり、平定する側が平定された側になって記述されていたり、夫婦であったものが姉弟の関係に記述されていたりして、正邪混沌とした内容になってしまっている。
むしろ正統と見なされない、古史・古伝と呼ばれる記録にこそ、真実の片鱗が残されていることが多い。
こうした改竄は神道に限らず、仏教、回教、基督教など長い歴史を有するもの程その傾向が顕著である。
いずれも時の政治や権力によって書き換えられる道を辿るのである。)