第12回 『悪あればこそ弥栄する』

一大天譴とアセンションが目前に迫った現在にあって尚、
地球惑星人の神に対する認識は混沌としている。


程度の酷い者は


「神とは願い事を叶えてくれる存在」


「(病気や事故等、自分にとって都合の)悪い事物から護ってくれる存在」


として
(更に酷い者は神社と仏閣の区別もなく)
事ある毎に願掛けをする始末である。


事故も病気も不幸の一切合財の根本原因は自らの悪想念波動の汚濁とその集積にあり、
業想念の自己崩壊現象であるにもかかわらず、
濁った我欲とそこから放射される悪想念を棚上げしておきながら、
自らの想念波動の結果である自分にとって都合の悪い「不幸」だけは避けて通れますようにとは誠に身勝手な話である。


地球でも心ある者たちの経験則から


「人を呪わば穴二つ」

【他人を呪って殺そうとすれば、自分もその報いで殺されるから、葬るべき穴は二つ必要になること】

というではないか。


必ずや己に返ってくるのに平気で悪想念を撒き散らす。

その後具現化する業想念の自己崩壊現象である所謂「不幸」は、

「理不尽な偶然」

であるとして片付けるのが大方の地球惑星人である。


病一つとっても、
憂いの多い者、
心暗く沈む者は
肺を病み、

人を毛嫌いする者は皮膚病に悩まされ、

我の強いものは気管支を痛め、

自己保身欲の強い者は心臓を病む傾向が強いなど
想念波動により疾患の現れ方も地球惑星人の場合大方決まっていることを知らねばならない。


想念波動をさて置いて、多くの"常識的"地球惑星人の好む唯物的傾向の生物学でこのことを補完すれば、大脳の動きに想念と病気の関係を見出せよう。

地球惑星人の脳の構造は

「知性の座」と形容される大脳新皮質で捉えた外界の刺激に対して、

「感情の座」と呼ばれる大脳辺縁系で快・不快を判断する。

このときの判断が不快であれば怒り、
妬み、羨み、不平、不満、憎悪、復讐心、焦燥感となる。


これらの悪想念、マイナス感情は神経網を通じてより根源的な脳、即ち「生命の座」と言われる脳幹に悪影響を及ぼす。

この脳幹は全ての哺乳類には勿論、爬虫類にも両生類にもある、生命活動を司る最重要箇所である。

人間が大脳新皮質のみを損傷し、この脳幹が機能していれば自立呼吸もするし、心臓も鼓動するが、表面的な意識はない植物状態となる。

障害がこの脳幹にまで及び機能しなければ、自立呼吸することは出来ず、人工呼吸器なしには忽ち全脳死、多臓器不全となって肉体の死に至る。

この脳幹は
間脳、中脳、橋、延髄の4つに大別され、脳幹のうち間脳にある視床や視床下部でホルモンや自律神経制御を主にしているため、これらを通じて全身の細胞制御をする訳である。

外界から受けた最初の「刺激」を「知性の座」で如何に上手に処理するか、即ち如何にポジティヴな捉え方をするかにより、気付きや反省など学びが生まれ、

「感情の座」で不幸に対してまでも許しや感謝や愛念が発せられ、
その好影響は脳幹をも極めて潤沢に滋養して、ホルモン制御と自律神経制御の精妙なバランスは絶妙となり、健康を望まずとも約束されるのである。

感謝で癌が治った話が巷で聞かれる背景にはこのプロセスが存在するのである。
(参考記事:人が病気になる仕組み・・ストレスと脳幹)


解剖学的にはかなり端折ってしまったが、いくら仔細に生物学的、解剖学的解説をしたところで、何故ネガティヴなストレスが脳幹に悪影響を与えるのかは、脳内神経網を駆け巡る電気信号や分子生物学的解析だけでは解明は決して出来ない。

どんなに複雑な化学反応式を引っ張り出して説明を試みたところで、どうしてそういう性質があるのかを説明は出来ないのである。

もっと判りやすく言うと、水素と酸素で水が出来るのはよいが、どうして「水」なのか、どうして「硫黄」ではないのか、どうして「水銀」ではないのか。

行き着くところ
「それはそういうものだから」としか言えないのである。

そうなるように仕組んであるからとしかいえないのである。

ここに波動レベルの話を持ち出しても同じ事である。

「この波動に共鳴することにより、物質世界ではナンノカンノ」と言ったことろで、その波動でどうして物質はそう反応するのかと問われれば、その根源がそういう性質を持っているから、そうなるように仕組んであるからとしか言えなのである。

反対に仮定すると、ネガティヴなストレスで元気になってもいいではないか、ネガティヴなストレスでどんどん健康、どんどん幸せになってもよいではないか。

しかし、ネガティヴィなストレスは健康を害し、不幸を招くことは動かし難い事実である。

地球人が幾ら奇妙な惑星人だとはいえ、極度に緊張して胃がさわやかに感じる地球人はいまい。

怒髪天を衝くほど怒って、さわやかな朝の目覚めや幸福を感じる地球人はいまい。

なぜ、感謝、許し、朗らかさ、信頼、謙虚、調和などが自律神経的にもホルモン的にもよい傾向を示し、結果的に健康に繋がるのか。

なぜ怒り、憎しみ、妬み、抑圧感、焦燥感、怨恨、猜疑心、心配、敵愾心を抱くと病や事故や不幸を呼び込むのか。


答えは簡単である。


宇宙則では
「そう設定されているから」である。


物質を支える波動レベルでも

「そう設定されているから」

である。

その具現化した化学的反応がホルモンや自律神経の動きとなって現れているのである。

「そう設定されている」

・・・その宇宙則のこうした一面も優良惑星群では広く愛と呼ぶ。

地球でまことしやかな通念となっている愛の概念とは随分異なる大愛が

「そう設定」した

のであるから仕方ない。


病気や事故を始め、その他思い通りにならない人生を通じて根本的には悪でない「悪」
「不幸」と呼ばれる経験をする中で、その不幸の原因が実は己の想念波動の在り方、
己に内在する野蛮、残忍、非道、自己保身、自己中心などの我欲
≪悪のキ≫

にあることに気付き、

また自ら蒔いた種が実った不幸経験を通じて、気付いて反省し、これらを克服して行くことで初めて幸福とは何かが解るのである。


難しく考える必要はない。

話を単純に、かつ縮図化して喩えれば、幼少時から成人するまで貧乏を味わったことのないどこぞの御曹司には自分の置かれた経済環境を裕福であると、頭ではわかっているが本当には判らないのと同じである。

また、裕福でないことが場合によっては幸福であるなどとは夢想だにしない。

健康人に病人の気持ちがわからず、健康であることの幸せが頭ではわかっているが実感を伴っては解らぬのと同じである。

晴眼者には盲人の世界が解らず、目が見えることの幸せが頭ではわかっているが駆け、踊るほどの喜びをもっては解らぬのと同じである。

五体が満足に揃っている者には下肢、上肢に不具合ある者の不自由が解らず、何の苦もなく歩けることの幸せ、物を掴み、操れる幸せが頭ではわかっているが、自らの足が大地を踏みしめる時の砂利の音に嬉々として感謝を捧げる程には解らぬのと同じである。


反対に言えば、己に起こる「悪」
「不幸」など汚れた経験をして学んだからこそ、昔は己もそうであったと、現在汚れある者を許せるのである。

子供がゴミをポイ捨てするのと同じ事を大人がする時、
他の大人達は軽蔑と怒りをもって非難するであろう。


しかし、これを子供がする時、
大人は本気で軽蔑し怒るであろうか。


「怒るのではなく叱る」

であろう。


子供は社会のルールに対しても未熟であることを前提としていて、教えてやらねばという
「愛があるから叱る」のである。

決して心底の軽蔑も怒りもない。

社会のルールを知らなければやりかねない事を自らの過去の経験を通じて大人は知っているからである。


自分自身が汚れたことがあるから、汚れているものを許して叱って愛することが出来るのである。

今生で他人の失敗や罪や悪意にまでも大変に寛容な器の持ち主は、過去世において同じように失敗もし、罪も犯し、悪意を持って他人を攻撃したり、殺したこともあるはずである。
そしてそれらの行いの根っこにある己の我と欲を正す機会を被害者となったり、責められる立場になったり、殺されたりする苦痛体験という形で反省の機会を転生する度に与えられ、転生ごとにその課題をこなし、心を正して大器の人(魂)となって今生を生きているのである。

こうした大器の者においても、一足飛びに今があるのではない。

優良惑星人とて同じである。己に起こる「悪」や「不幸」はどうしても、どうしても必要なのである。

なぜならそれらも神の働きの現れであり、愛の一表現だからである。


≪まことの善は
悪に似ているぞ、

まことの悪は善に似ているぞ。

よく見分けなならんぞ。

悪の顔した神あるぞ≫



すなわち
一見悪なる「悪」や一見不幸なる「不幸」も愛であり神なのである。

このフレーズに違和感を感じるならば、その惑星人は未だ、神を己(の我欲)にとって都合のよい「小間使い」「御用聞き」に位置づけており、神に頼ろうとしている。

神は頼るものではない。

神頼みするものではないのである。


感謝や打算のない奉仕する麗しい心で暮らすとき、幸は求めずともやって来る事実が、神が永遠の至福を与えようとすることを目的としているという何よりの証拠である。

この感謝や打算のない奉仕の心を知るための「悪」ではないか。
そのための「不幸」ではないか。
ひとつの魂の永い長い進化の道程から見れば、これら「悪」も「不幸」も皆一時的なものなのである。

根源的な神、一なる創造主はその現れ方こそ違え、どこにでも現れている。

神は愛そのものであり、愛は神そのものである。

また、一見して悪なる「悪」も一見して不幸なる「不幸」も神の愛の働きの一部なのである。
(このことはいずれ『神々の正体』として詳述する。)


絶対悪は宇宙には本来存在せず、すべてが相対的悪である。

しかし、相対悪といえども現象界では悪は悪。
それを正さねばならない。
それを正そうと覚醒していく者ほど苦心し、苦心する過程で様々な魂の学び、即ち愛の学びを得るのである。

したがって、「悪」は咎め、責めるものではない。

勧善懲悪の短絡思考を好むのは邪神の囁きである。

「悪」は許して正して変容させるものである。

≪悪を殺すと云う教や、
やり方ではならんぞ。

悪を抱き参らせて下されよ。≫



また、その悪を己の映し鏡として、そこに映った己の心の欠けたところ、未熟さを正すことが不良惑星人の本分である。「悪」を許せざる憎む心が悪なのである。


しかし、その憎しみという悪想念が原因で引き起こされ己に降りかかる不幸など何らかの痛い目にあって、魂が学習していく過程で憎む心を克服するとき、この憎む心の悪も悪ではなくなるのである。

いかなる悪も最終的には悪の仮面を脱ぐ時が来るように宇宙の進化は大愛に近づくことを目指し方向付けられているのである。

その期間が三次元地球地上の時間感覚でいう数百年なのか、数千年なのか、数万年を要するのかはその魂次第である。

矯正の機会は転生の度に、そして日常生活の事象の中に常に与えられているが、それに気づくか気づかぬか、そして正して行くか行かぬかはその魂次第なのである。


≪善と悪とに、
自分が勝手にわけて、
善をやろうと申すのが、
今の世界のあり方≫



であるが、
この善悪を超越して正しき想念を維持せねばならない。

現象的悪に心揺らぎ、心奪われてはならない。

その現象にいちいち反応して悪想念を発することをまず制御せねばならないのである。


「いずれ、そのうち」と言いながら、現存地球人類は太古に滅んだ文明時代から同じことを懲りずに、転生を繰り返してきた。

地球(ここ)に降ろされてから何万年が経過したことであろうか。

優良惑星へと昇格する地球には我と欲を握り締めたままでは残れない。

自らの責任で落第してしまった魂は、転生先でまた貨幣経済様システムに縛られ、憎しみ、互いに疑い、嫉妬して、警戒し合い、奪い、傷つけ、怒り、殺し、追われ、焦り、嘆き、病に苦しみ、世を果敢無(はかな)み、生きる目的も定まらず苦悩し・・・・・止め処もなく繰り返される不幸の波に木の葉のようにもまれて生まれ変わり、死に変わり、またも負のスパイラルダウンへ飲み込まれる転生を繰り返さねばならなくなる。


こうして「悪」は宇宙がどれだけ進化しても、常にどこかに存在する不良惑星では永遠になくならない。


「悪」は進化のために必要だからである。


≪悪あればこそ
向上するのであるぞ。

悔い改め得て
弥栄するのであるぞ。≫



今回のアセンションで地球が優良惑星に昇格する時、悪の元である我欲を内包した惑星人は残しておけない。

我欲を捨てきれない者は他の不良惑星でやり直さざるを得ない。

そこではまだ「悪」が必要だから、そこでなら不良惑星人級の魂でも存在することは許されるのである。


参考までに言うと、地球は不良惑星であるが、宇宙間にはもっと遅れた惑星もある。

唯物科学文明的にも現在の地球よりも遅れた文明を築き、現今の地球人から見てもお粗末至極な文明なのだが、その惑星人たちはそれなりに自らを文明的であるとして、その奢り高ぶりは著しい。

さらに、その惑星人類の想念のレベル、即ち愛のレベルは地球人よりずっとずっと低く、殺人して物を奪っても殆ど自責の念を抱かない惑星人がゴロゴロしているような惑星である。

地球の警察に相当するような組織も殆ど機能していないし、何か盗難に合うと、その被害者は直ぐに別の者を襲って、別の盗難をしたりするなど日常茶飯事である。

惑星全体がこうした犯罪意識の薄い社会もまだこの宇宙間には多く存在しているのである。

地球で人間の作った法により裁かれた悪人と呼ばれる人間でも、その惑星に一ヶ月も住めばれば気が変になる次元である。
(人間を襲って食べる獣類も存在していてよく子供が襲われていなくなる。

地球の熊に似た生物だが、地球の爬虫類のような進化を遂げてきた生物のため、熊のように体毛はない。)

ここまで劣悪な惑星となると優良惑星人もその飛行船でデモをしたり、姿をみせたりという啓蒙活動はしていない。

啓蒙活動に関しては、その不良惑星人がまだ宇宙をよく知らず、知らぬがゆえに万物の霊長と勘違いして思い上がり、動物はおろか人間同士でも弱者を踏みにじりながらも、自らを文明的惑星人であると大いに錯覚している寝ぼけた眼を開くため、当該惑星外にも知的生命体が存在していることを知らしめることが活動目的の一つである。


子供を叱る大人のように直接的には活動できないが、その理由は力による干渉は愛という宇宙則により許されていないからである。


『促して「自ら」目覚めさせよ。』


これがルールなのである。

シルバーバーチャンが『「自ら」気付くこと』というフレーズをよく使うのもこのためである。

この惑星に関しては、レベルが低すぎて文字通り取り付く島もないため、観察対象ではあるが啓蒙対象にまでは未だなっていない。


さて、これらの未開惑星に近い不良惑星に比べれば地球は不良惑星といえども、自らが原因である幾多の苦痛体験を通じ、地球惑星の歴史とともに人類総体としてその魂を進化させてきているのである。
が、それでも地球は未だ未だ不良惑星であることには変わりはない。
覚醒に近いところに居る心ある者は率先してもっと多くを学び、時間のある限り、更に更に前進せねばならないのである。

その地球には
「勝者の理論」
という言葉がある。

このシリーズの過去の記事で述べてきたように地球惑星では文明が興っては滅び、また興っては滅んで、現存文明に至っている。

いずれの文明においても、その歴史は戦争と略奪に彩られ、現存文明も含め、いずれの文明に住した人類も各国家や地域の利害が対立する以上、時には衝突は止むを得ず、闘争は当然の事としてきたのである。

現存地球文明においても、人類は口に愛と反戦を唱えながら、この地球地上で戦争、闘争、紛争が一時なりとも絶えたことはない。

今この瞬間にも人類の兄弟姉妹がどこかで奪い合い、殺し合いをしているのである。
地球惑星人は戦争と闘争とはあたかも種類が異なるもののように信じて、戦争はけしからんが、闘争は生存競争や生活のためある程度は仕方ないと思っているのである。
この誤った思い込みとその思い込みの上に平気で発する闘争、競争の排他的想念に、これらが昂じて憎しみ、恨み、怒り、僻(ひが)み、羨(うらや)み等々悪想念のオンパレードが続く限り、いくら口に愛だ平和だと唱えても、愛の欠片(かけら)も平和の兆しも何一つ実現はしない道理である。

言葉だけが空回りすることは歴史が既に証明していよう。


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