2005年8月22日 (月)
「死について」考える or 「死を」考える。


人生は百人百様の課題を抱え、使命を帯びて、三次元地球地上に肉体という道具(もしくは乗り物)を与えられて出てくる。

この惑星人(地球人)の場合、課題が何なのかよく解らないまま、『生存してはいるが、活きてはいない』状態でルーティンワークのように日々無為無策に過ごしているようだ。

そして、我と欲によって築き上げられた社会システムに組み込まれ、好む好まざるとに関わらず『生存競争』に明け暮れる。

「活きて」いないのに生きて(生存して)どうする?「活きて」もいない生存のために他を蹴落とし、傷つけ、奪い、貶めながら競争をしてどうする?

肉体という道具で何をするかが課題・使命ではないか?

課題も使命も解らず、道具ばかりを磨いてどうするのか?

道具ばかりをケアしてどうするのか?

毎日確実に老朽化していくその道具の使い方も、使う目的も解らず、求めもせずに、漫然と磨いてどうするのか?

いずれ朽ち果てる「所詮道具」に執着してどうするのか?

いずれやって来る「廃棄処分」の時。
その道具を何にどう使って来たのか?
生存させていただけか?
保管していただけか?
燃料(メシ)を補給していただけか?

どの道具も、基本OSをインストールために小学校、中学校に行く。
ここから先は、道具によっては、バージョンアップのために高校、専門、専修に行く場合もあるし、そうでない場合もある。
次の道具を生み出すために増殖能力を発揮する道具もある。
そうでない場合もある。

大学、院とバグも抱えながら更にインストールをしていく道具もあればそうでない場合もある。

各道具各様だが、最終的に例外なく迎える「廃棄処分」の時。
使っても使わなくても、活かしても活かさなくても最終的に必ず迎える「廃棄処分」の時。
願っても願わずとも迎える「廃棄処分」の時。
無駄にした道具か?
それとも使い切った道具か?

この惑星人は道具を生存させ、磨き、飾る術(すべ)を知っている。生存競争をその規模に応じて闘う術を知っている。

争う術を知っている。

奪う術を知っている。

欲望を満たす術も知っている。

我を張る術も知っている。

現実的には進学、就職、結婚、蓄財、老後の備え・・・と。

人生の様々なシーンで生存競争に打ち勝つため、血眼になって闘うマシーン。

それほど生存競争に鎬(しのぎ)を削るのに、誰もが例外なく、確実に、絶対迎える死に対して、鎬を削るほど真剣に考えるようとしないのか?
なぜ真摯に向き合おうとしないのか?

今日の朝起きて『いつか死ぬけど、明日は死なないだろう。』と思って今日を生きる。

明日の朝起きて『いつか死ぬけど、明日は死なないだろう。』と思って明日を生きる。

明後日になれば『いつか死ぬけど、明日は死なないだろう。』と思って明後日を生きる・・。

「明日」生存している根拠はどこにも無いのに、「明日は大丈夫」と思っていないか?


『一日一生』・・今日でお終い。
今日が全てと思って生きてない。


『一日一生』を思う時、人は「生きて(生存して)」いる状態から「活きて」いる状態へと脱皮する。

道具である「生きた肉体」と本体である「活きた精神」が連動する瞬間だ。

シルバーバーチャンにも18、19のワカゾーの時があった。
特に若造は「死について」考えはするが「死を」考えてはいない。

『いつか死ぬけど、明日は死なないだろう。』だ。

大方のワカゾーにとって、『一日一生』ではないのだ。

阪神大震災、スマトラ・・・被災者は天災に呑み込まれる10秒前ですら、
『いつか死ぬけど、明日は死なないだろう。』と思っていたに違いない。
多くの惑星人がそうであるように・・。

が、「明日の予定はあっても、明日など存在しない」「明日という概念は存在しても、存在しているのは今この瞬間だけ」なのだ。反対側の「昨日・過去」というものですら存在した物的証拠や記憶があるだけで、その過去自体はもう存在しない。
過去の物的証拠や記憶が存在しているのは今この瞬間なのだ。

過去に存在した物的証拠が存在しているのは「今」なのだ。
過去があったという記憶が頭脳に残っているのは「今」なのだ。
常に「今」、「今」、「今」、過去の記憶も「今」その頭脳に、過去の物も「今」そこに在り、未来の希望も予測も夢も「今」その頭脳に存在するのだ。


生き甲斐という言葉がある。

そして「今」即ち『一日一生』をそこに重ねると、見えてくるキーワードがある。

それは「死に甲斐」だろう。

何のためなら道具(肉体)を投げ打つことができるか?

肉体は「生物」であるけれども、「生命」ではない。

生物は所詮生命の乗り物だ。道具なのだ。

何のためにならたとえ死んでもよいと思えるか?

その「死に甲斐」のために生きている状態を「活きている」という。

肉体に執着しない、志を優先した、精神に重き置いて生きる状態を「活きる」という。

如何に死ぬかは如何に活きるかを問うものに他ならない。

それは明日ではなく、今日(今)の課題なのだ。

一日一生。

「死に甲斐」は究極の生き甲斐なのだ。即ち「活き甲斐」だ。

***「一日一生」は生き急ぐことではない。

今日が最後だからと焦燥感に駆られて、落ち着き無く、イライラと精神の沈静を失う事ではない。

今日死んでもよいと思える死に甲斐があればそれでよい。

死に甲斐は達成した途端に色褪(あ)せる生き甲斐ではないのだから。

『朝に悟れば、ゆうべに死すとも可なり』と誰かが言っていた。***

怒り、憎しみ、羨望、不満、拘り(こだわり)からの解放。

そのために必要な気付きと許し。

その結果たどり着く悟りと感謝。
人生が思い通りにならないのはこのプロセスを経て学ぶためだ。
思い通りになってしまう人生では、思い通りにならない事、思い通りにならない人への許しも学べない。

思い通りにならないことに、いつまでも執着する拘りとその愚かさからも解放されない。

それらに必要なことは気付きだ。

気付くと、許しが生まれ、比較して他を羨むことが愚かしいと気付くから羨まなくなり、気付きのために「思い通りにならない事、人が用意されている」と気付くから不満、不平もなくなる。

比較的変化が鈍重に設定された三次元物質界では、不満、不平の現象が劇的に変わることは少なくても、その事象を受止める精神は自由度が高く、いかようにも変容する。

即ち許しであり、羨まないことであり、不満を言わないこと(言う気にならないこと)だ。

その先に都合の悪いこと、思い通りにならないことへの感謝がある。

こういう成長する人格者は往々にして皆謙虚だ。

思い上がりがない。
これが究極の悟りなのだろう。

ここまで来ればもはや道具(肉体)のあり方も環境も違ってくる。
もはやこの惑星に生まれる必要はない。
より高等なレッスンを展開している別の惑星にある「教室」に新たな「乗り物」で降りればよい。

人はこれを学ぶ為に、思い通りにならない人生を生きていく。

「活きながら」生きていくのだ。霊主体従とも言えるだろう。

この気づきも(その結果である許しも感謝も)、気付くのは己であり、相手や他人ではない。

手にできるのはは自ら気付いた分だけだ。

変われるのは己であり、相手や他人が己の替わりに変わるのではない。

また相手や他人を変えようとするものではない。

それをすると「変えるべし」と思う対象は次から次へと際限なく現れてくるだろう。

己が気付き、己が変わるのだ。

どう変わるのだ?

「三次元に出てくる前に抱えてきた課題」に沿って変わるのだ。

自分にとって都合の悪い事(まはた人)、思い通りにならない事(まはた人)となって課題は具現化する。

受け取る己が未熟な部分が怒り、羨み、不平不満となって心に映る。

同じ事象に出くわして、人それぞれ反応が様々であるのは、心の発達度合いが様々だからだ。

ある事象が、あるの者には高いハードルであるが故に激しく反応し苦しむが、その同じ事象が、別のある者には取るに足りない許しの対象であったりする。

同じ事象が心、人格、器の発達の程度により、その者の課題となるか課題とならないかが自ずと決まる。

即ちその者が困難、怒り、羨み、怒りなど総じて思い通りにならないと感じたら、それこそがその者の程度に合わせた課題ということになろう。

よく「私の人生の課題は何でしょうか?何を課題にして私は生まれてきたのでしょうか?」と答えを求める者がいる。

答えは、
『あなたの課題はあなたが思い通りにならないと思う事、腹の立つ事、羨む事、イライラする事、・・・等々、これら全てあなたの課題です。
それらをあなたがどう受止めるかはあなたの魂の成長に応じて変幻自在に変わるものです。
卑近な例では、「三年前の自分なら許せなかった事が今では許せる。
同じ事象なのに、(少し老化したけど)同じ肉体なのに、同じパターンなのに・・・今は許せる」ということがあります。
これが課題をクリアしているということです。

職業や同僚や社会的に置かれた立場、生まれてきた時代や取り巻く家族やその構成は「条件」であって、「課題」ではありません。
どんな職業であれ、どんな立場であれ、どんな時代であれ、どんな家族であれ・・・・それらは皆「条件」です。

従ってあなたの肉体も「条件」の一つに過ぎません。

「課題」をこなす上でのステージです。

与えられたこれら一切合財の「条件」の中にあなたにぴったりの、あなただけの課題が散りばめられているのです。

三年前は許せなかった事を今は許せるあなたに今後同じ事象が起こってもあなたの心はもう動揺しません。

何故ならそれはもうあなたの課題ではなくなっているからです。

苦しかったでしょう。

でも、よくここまで一人で頑張りましたね。」

・・・これが答えだ。


オカルトチック、ドラマティック、メルヘンチック、場合によってはヲタクチックな回答を求めている向きには物足りない答えだろう。

が、真実は、沈思黙考し、内省すればすぐ手の届くところにあるべきなのだ。

一日を振り返り、
何度怒ったか?

その度合いは?

一点の曇りなく穏やかに暮らせたと胸を張れるか?

怒りも羨みも憎しみも呪いも不満も不平も焦燥感もいささかもなかったと言えるか?

言えない限り課題は続くのだ。

次々にクリアして、クリアして、またクリアして、課題のレベルはどんどん上がっていく。

すると小悟の者には課題ではなくとも、大悟の者であるからこそ課題となりうるような実に次元の高い課題ということも出てくる。

『何故ならそれはもうあなたの課題ではなくなっているからです。』とは反対に
『それは次元が高すぎてあなたにはまだ課題になりません』ということもあるということだ。

が、それをいちいち自分で判断する必要は無い。

判断などせずとも、『即ちその者が困難、怒り、羨み、怒りなど総じて思い通りにならないと感じたら、それこそがその者の程度に合わせた課題ということになろう。』と先に言った通りだ。

人生はこの繰り返ししかない。

この些細な日常の課題を見逃すと、
「道具」「乗り物」を利用できず、単に維持するだけの人生に陥る。
課題に気付かない人生は、進化、成長の喜びから遠ざかるため退屈だ。

退屈だから刺激を求めるようになる。

飽くなき物質的刺激を・・・。

体主霊従パワー炸裂の人生。

体主霊従は
不満、不平、憎しみ、羨み、イラだち、そして怒り、地に足のつかない浮遊した迷いの人生。
『色々あったけど過ぎ去ってみれば、ただの思い出。
学び、気付きを置き去りにしてしまった・・・。』と最後に思うのが関の山。

霊主体従は己の死に甲斐に焦点を当て、日常の些細な事においてすら、思い通りにならない人生だからこそ、つまづき、そして気付きを重ねて、日々成長する人生。

一日一生なのだから、昨日の自分と今日の自分と明日の自分は着実に異なっており、静かに成長していく。

体主霊従と霊主体従の人生を歩む二者の開きは、5年、10年で大開きに開いていく。
片や肉体を本体として保身に努めた者、片や肉体を道具として精神を進化させていく者。

進化、進歩の階段を上りさえしていれば、どこで道具、乗り物を換えてもいいのだ。

それが肉体の死だ。

魂は進化、進歩の階段を上りつづけているのだから。

ただし、いつ乗り物を換えるかという判断は自分でしてはならない。

生かされている以上、課題がある証拠なのだから、そのステージに自分で勝手に幕を引いてはならないのだ。


***「肉体などという不自由なシロモノを持たない偉大な大愛」(これを仮に神と呼んでも可)からすれば、肉体の死は当然死ではなく、悲しみの対象でもないのだ。

「大愛」にとって死とはあるコンピュータに保存されていたデータをより完全へと近づけてやる加工をするため、別のコンピュータに「移動」させる程度の作業なのだ。

目的はデータを成長させることにある。

そのために次はどの時代の、どのOS上でどんなアプリケーションを駆使して、データを成長させるかが最大の関心事なのだ。***


学ぶ必要も無いのにいつまでも肉体に乗っている必要は無い。

それを判断するのは自己ではない。

「お迎え」が来ないなら、まだ学ばなければならない事があるのだろう。

また、その乗り物でよく学んだため、次の乗り物が必要となるなど、このステージでは学ばせようがなく、別の学びのステージが必要なら、「道具」を「乗り物を」替える事になる。

何れにせよ、生きているのではなく、生かされているのだ。

そして生かされているという事実を活かすかどうかは己次第ということになる。

ステージの幕は自己の判断で降ろすのではなく、時が来れば降りるものなのだ。

***天災に巻き込まれようが、事故に巻き込まれようが、病死しようが、老衰死しようがいわゆる「お迎え」が来るまで勝手に乗り物を降りてはならない。

気付き、学び、得たものが自分の「データ」に記録され、より完全なものへと向かって永遠の旅をする魂にとって、データの記録を途中で放棄するのは大罪だ。

永遠の進化と至福へ向かうために肉体も、世界も、時間軸も空間も存在する。

これだけ大掛かりな「舞台装置」で、気づきと進化のステージを用意してあるのに、そして、思い通りにならない事象を通じてしか気付き得ない学びをデータ記録する必要がまだまだあるから生かされているのに、途中で乗り物を降りるのは大罪中の大罪である。

自殺は大きな罪をつくることになるのだ。

他を殺戮するのも進化の機会を奪うとう意味で同罪だ。***

その道具、乗り物に乗って学ぶ必要がなくなったのだから、道具、乗り物は廃棄処分される。

死とは人間の都合や我や欲でコントロールするものではないことが解る。

体主霊従の者にとって死とはその乗り物を降りること、即ち全ての終わりを意味し、悲しみと、絶望と恐怖のクライマックスだろうが、霊主体従の者にとって死とは「その道具」を使うことをやめ、「その乗り物」に乗るのをやめただけの事なのだ。

次に用意される「道具」はどんな使い勝手だろうか?

次に用意される「乗り物」はどんな条件だろうか?

どんな性能だろうか?
その道具で何を創造しようか?
その乗り物に乗って何を学ぼうか?・・・

躍動する進化の道程なのだ。
(いずれ乗り物に乗らずとも学ぶ方法も知ることになるのだろう。)


本日、これまで。


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シルバーバーチャル星人の生活

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