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ベジ&スピリチュアル雑記帳
肉食と戦争・・・懐かしい書籍発見から派生して思う

本棚 シルバーバーチャンの書庫(八畳の部屋一面本棚で、学生時代からの書籍は蔵書に値しない読み捨て雑誌以外は全て保存してある)の整理をしていた。

 よく「当時流行っていた音楽を聴くと青春時代を思い出す」などというが、シルバーバーチャンは当時のポップスよりも書籍が時代の記憶とリンクしていることが多い。

 8月15日(日)、1980年代の書棚を整理していると古くて新しい書籍が出てきた。ずいぶん手を触れていなかったらしく、うっすらとホコリが積もっていた。 紙のカバーを二重にもかけ、書籍そのもののカバーにはなんとラミネート加工が施されていた。記憶にないが汚れても拭けばきれいになると考えて加工したのだろう。大事にしていた様子がわかる。

 見ると『ニューサイエンティスト群像』とある。
勁草書房から1987年3月に発刊されている。
1987年とは当たり前だが昭和62年だ。
平成17年の今、昭和という響きがやけに色褪せて聞こえる。
まだ、17年しか経過していないのに、遠い遠い昔のようだ。
(まだベルリンの壁で東ドイツと西ドイツと2つ国家があり、ソ連も存在し、ミャンマーもまだビルマと呼ばれていた時代というともう「歴史」級の響きだな。)

 同書には「百匹目のサル」、「形態形成場理論」や「タオ自然学」などルパートシェルドレイク、フリッチョフカプラなど懐かしい面々が百花繚乱の如くその論説を展開していた。今でこそ、これらのキーワードは頻繁に書籍やネットの記述に登場するようになってきたが、当時は間違いなくヒッピーの生き残り、焼き直しのニューエージムーブメントやマッドサイエンスの類と見られ、対峙する立場をとる者も多かった。対峙するならまだしも関心すら抱かれなかったといったほうがよいかもしれない。

 まだ某大Sophomoreの学生だったシルバーバーチャンは同書を手にして、ものすごく興奮した事を思い出した。

「凄い時代がやってくるぞ」と。

だが、シルバーバーチャンが期待したような時代はすぐにはやってこなかった。
いや、今尚、時代はやっとその入口にたどり着いたぐらいのところらしい。
そして新しモノ好きがこうした理論をオモチャのように扱い、囃子立てて、乱用する。

 「百匹目のサル」などまさにその代表例だ。

いつの時代もそうだが、パラダイムシフトが起こる時代には、玉石混淆、雨後の竹の子のように、そして圧倒的に邪な存在の傀儡(かいらい、くぐつ、操り人形)となった「学識経験者」「覚者」「○×大師」「自称聖者」が闊歩する。

 どの面々も「我、悟れり」と涼しい顔をしてモノ垂れ給う。
我こそは生命の実相悟れりというなら、まずそれを実生活に体現して見られい。
生活の根源的行為である食を正されよ。
死体をむさぼる莫(なか)れ。

 いかに多くの知識を脳天に詰め込み、口に愛だの平和だのと唱えても、人類皆非肉食にならざれば恒久平和の世は来ようはずもない。
生命の座から視すれば、動物等は我等が同胞に他ならない。
その同胞を喰らうはいかなる由(よし)ありや。

 そこにあるは同胞の生命を蹂躙(じゅうりん*踏みにじること)してでも己の嗜好的食欲を満たしたいとの傲慢にして賤しき想いではないか。
恐怖、憤怒(ふんぬ)、悲哀の中にて血潮を噴き出し、虫の息なるもハラワタを引きずり出されながら、無念の中に「消費」された同胞の命を慮(おもんばか)ることができぬ者が如何(いか)にして、如何なる時も紛争、闘争、戦争を回避しうる意志を堅持できると申すか。

 抑えがたき欲望のためには物言えぬ同胞の命を蹂躙する想念を宿したる者、その心根は我田引水なるが故に、大きくは国益、小さくは個人の利得を左右するに臨みし時、いとも簡単に相手を蹂躙してでも己の欲求を通さむとする衝動が働くものにあらずや。
その想念の在り方が紛争、闘争、戦争へと突き進む下地となるなり。
人と動物を別なりと分けたる法律、条令の類によりて、人類同胞に対しては「捕まっては元も子もなし」と思うが故に人類同胞の生命蹂躙に及ぶ事は日常茶飯事には起こらざるなり。
この法による取り締まりなくとも、人類同胞同士の殺戮日常茶飯事には起こらざるなりと断言為し得ようか。
「罰っせらるることなし」と思うや否や怨恨、強欲による殺戮まかり通るなり。
なれど動物にはこの法適用されぬが故に、食品としてまた虐待対象として、また実験材料として日々動物同胞の命を蹂躙為しあるなり。

またせいぜい道徳程度を拠りどころとする不安定にして危うき善心にて人類同胞に対する犯罪を踏みとどまり、その発生は全体数に比して僅少なり。
なれどひとたびこの対象が動物同胞となると、この道徳も効力を失う事多きなり。

動物への愛情を謳う道徳を説く傍らで動物同胞の肉片、即ち死体の一部を調理するの矛盾を犯すも、これに気付かざるなり。
これ理念眠りたる証左なり。
理念眠りたる者、恒久平和を実現する力を持たざるなり。

 同胞の死体をむさぼる肉食為す者の大部分は「動物」と「肉」の繋がりを連想せざる無頓着なるもの多きなり。
連想せざるは「肉は食品なり」との洗脳の故にてもあり。
仮令(たとい)頭にては理解為すも、己の嗜好的欲望の充足を優先為す頑迷固陋(がんめいころう)の霊性低き者多きなり。
地球人類が肉食を放擲(ほうてき)せずして、戦争、紛争、闘争のなくなる日を望むは、冷水にその身を置きて温かきを乞い願うが如しといわざるべからず。
肉食の放擲なくば戦争の絶えうること無しとは、大袈裟にても、喩え話(たとえばなし)にてもなく、ましてや御伽噺(おとぎばなし)にても非(あら)ざるなり。

 ベジタリアンの同胞諸氏よ。

同胞諸氏におかれては、斯(か)くの如き無知蒙昧(もうまい)なる、しかしその本質は瑠璃(るり)の如き輝きを持ちながら、その理念曇りたる肉食人類同胞に、肉食の本質的非を説きて、一人でも多く市井の覚者を輩出する一助とならむことを願うものなり。

シルバーバーチも日月神示下ろせし丑寅の金神も肉食の放擲を人類に要求為しあるが、その理由の要諦はここにあると覚るべし。

 このシルバーバーチャンも人類同胞が肉食放擲を欣求(ごんぐ*よろこんで求めること)為すその日を一日千秋の想いにて待ち望むものなり。

 (・・・・とうとう文語になってしまった。)

 本日、これまで。



雑記帳
「死について」考える


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