シルバーバーチャンのヘッポコベジタリアン生活。

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ベジ&スピリチュアル雑記帳
正しい事でも争う時は既に誤り』(肉食と戦争:番外編)

シルバーバーチャンは取っている立場が、肉食廃絶にあるため、ブログに載せる記事で肉食を容認する事はない。

 が、現実問題として、『肉食を止めたいが「諸般の事情により」やめられない、どうしたらいいか?』と相談を受ける事がある。

最も多いのが、自分はベジタリアンという生き方を選択したいのは山々なのだが、家族の了解がどうしても取れないというものだ。子供や特に配偶者の了解、同居の両親や義父義母の反対にあって敢え無く肉食卒業を断念するケースが少なからずある。

 こんな時シルバーバーチャンはこう答えることにしている。

 『正しい事でも、それを主張するために攻撃的想念を抱いた時には既に誤り。』と。

 記事『肉食と戦争』でも書いたが、想いのあり方が戦争をなくしもし、なくさなくもするなら、自分の都合に合わせて≪攻撃的心を内包しながら≫相手をコテンパンに傷つけ、打ちのめし、論破してしまっては、喩え肉食廃絶が正しい行為であっても、攻撃する心で相手を折伏するなら、
そこにはもはやはなく、己の満足のための支配があるに過ぎない。

「私は100%正しい肉食廃絶を訴え、実践している。
お前はどうだ!ん?賤しく野蛮に肉を貪りつづけるか!」と。

言われた側も自分が汚く野蛮な原人にでもなったような気になるが、だからといって肉食神話を信じているのだから、それで肉食を止めるわけでもなく、互いによろしくない雰囲気になるだけのことで、何ら建設的、創造的方向に事は滑り出さない。

肉食廃絶が100%正義であったとしても、そこに愛が無ければ、「(自分の)正義を掲げたテロ」に通ずるのだ。

ベジタリアンはジ・ハードであってはならないベジタリアンという生き方は
ジハード(聖戦)であってはならない。

戦いである以上肯定はされ得ない。
ベジタリアンであるか否かをめぐって肉弾戦が展開される事はないにしても、想念の世界においては戦ったに等しいのだ。
「まず始めに想念ありき」だ。

その想念が大きくは戦争へと続いていくのだ。
更に大きくは人類の想念の総体が自然現象に影響を及ぼし、天災となって具現化してくる事は近い将来、帰納法的に証明される時が来るだろう。
正しい事を主張しても、悪想念を発すれば、それは既に間違いを犯したことになるのだ。

 シルバーバーチャンはベジタリアンであることを貫ける恵まれた環境にあるし、
シルバーバーチャンがベジタリアンということは公然の事実だし、
周囲もそれを理解してくれる仲間達なので、
事あるごとに「○○は大丈夫?食べられる?」と聞いてくれるし、
シルバーバーチャンも食べないなら食べないとハッキリ言う。

反対にシルバーバーチャンの目の前で、友人知己が肉を食べていても、
咎めもしないし、批判もしない。
それでも「肉、喰うのやめようかなぁ。」と言い出す「同志」は徐々に増えてきている。

しかし、そういう尊敬に値する高邁な精神進化を遂げようとする友人知己も、
帰宅すれば家族がいて、そうもいかない・・・これが現実なのだ。

その家族もいずれ肉食の非に興味を示し、「卒業」する日がくるかも知れない(こないかも知れない)。

シルバーバーチャンの周辺にベジタリアンが増えてくるのは、
想念の作用、想いのなせる技なのだ。

ベジタリアンである事を強要してはならない。肉食する者を非難してはならない。

「親父の背中」的ベジタリアンな生き方がよい
強要せずとも、時に応じてベジタリアンであること、その理由、動物達の置かれた現状を、相手の置かれた立場を思いやって話す事だ。
そして自分自身がベジタリアンな生き方をする事こそが、百万言費やしてベジタリアンライフと動物への愛情を「講釈」するよりも遥かに説得力のある「親父の背中」となる。
その「親父の背中」を見て、『変わった奴だ』と通り過ぎるか『「親父」の生き方に共鳴した。
色々と障害はあるが、俺も後に続こう。』と思うかは、その相手の心の進化・発達の度合いと置かれた環境・立場次第だろう。

何れにせよ強要する事ではない。

≪かつてワカゾーだったシルバーバーチャンはこれが解らず、
肉食を巡って母親との「戦争」に明け暮れていた。未熟だったのだ。≫

 そして、その背景にある想念のあり方は、いつしか大きな潮流となって世界を動かすに違いない。
「100匹目の猿」が誕生するのはいつの日だろうか?

(「100匹目の猿」は1980年代前半当時、「100番目の猿」と翻訳されていたが、いつしか「匹」に変わっていた。)

 急進的なベジの方々は
『そんな生ぬるい事を言っていたら、いつまでたっても肉食はこの世からなくならないし、いつまでも無邪気な動物達は肉食主義者の犠牲になりつづけるじゃないか!
今日一日でどれだけの無垢な命が奪われたと思ってるんだ!』
と息巻くかも知れない。
が、反対に急進的行動に出ても、肉食は決してなくならないし、そこに伴う攻撃的想念が現界での戦争へと続く道であることも変わらない。
ならば、静かに「親父の背中」を見せて、導く事の方が賢明だという事になりはしないか。

人は最終的には言葉に共鳴するのではなく、生き方に共鳴するのだから。
シルバーバーチャンの経験ではそうだ。
現にベジタリアンはそうして増えつつある。

 『どんなに正しい事でも、それを主張するために攻撃的想念を抱いた時には既に誤り。』

ベジタリアンであることに拘泥して、自分はあたかも聖者であるかのごとき思い上がりと思い違いをし、肉食を好む者、事情があって仕方なく肉食を継続する者を下卑た存在として見るなら、それは宗教的ドグマや選民思想と何ら変わりはない。
ベジタリアンであることは「免罪符」になりえないのだ。
神は愛なき正義を誉める事は無いだろう。

(神という言葉は誤解を招きやすい昨今、別の言い方をすれば、
『宇宙に、そして路傍の石にさえも偏在し、法則を司る峻厳な、
時には一見残酷な大愛の、大いなる意志』とでも言おうか。)

(従ってビーガンベジタリアンであるシルバーバーチャンであってすら、
争いが生じる危険性があるなら、例えば牛の死体を申し訳程度だが口にするに違いない。
ワカゾー時代のシルバーバーチャンが親の脛をかじっていた頃は、「戦争」に敗れれば肉を食わざるを得なかった。
独立してからはそんな状況に「追い込まれた」事はまだ無いが・・。)

 いつか人類が挙って(こぞって)、加速度的に肉食を放擲する日が来る事を願って・・。


雑記帳
肉食と戦争



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