スピリチュアルとベジタリアンの世界へシルバーバーチャンがあなたをいざないます。ちょっと辛口ですんでお怪我などなさらないよう、包帯をご用意下さいませ。
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シリーズ 第16回
『吾(われ)、吾にして既に吾に非(あら)ず』

自我・・・これほど人を人たらしめ苦悩させ、
しかし、大いなる飛躍へと繋ぐ試金石となるものはない。

地球惑星上でも他の不良惑星上でも、進化の段階に未開人類として位置した時に完全に発現する意識に自我意識がある。

未開人類以前の進化段階においても、
意識は如何なる動物にも例外なく在るが、
自我意識、即ち「わたし」は未だ明確には見られない意識で、
現存する動物には極めておぼろげな「わたし」の原型しかない。
 (ただし、人類と共に家族の如く扱われ愛され暮らす所謂ペット、コンパニオンには明確な自我意識ではないが、それに近い「わたし」を有するものも存在する。

これは人類でいう表面意識の範囲内での意識活動であるため死亡すると完全に失われてしまう意識状態である。

ただし、生存時に自我に近い意識の強い活動をしたという事実そのものは単純化して記録され、これがいずれ未開人類として地上に登場する進化の過程で原体験的データとして役に立つのである。

人類と物理的にも近く共に暮らし、常に家族の一員として意識され愛を注がれることで、「進化の船頭」である人類の想念波動の影響を野生動物よりも多大に受けるため擬似的自我活動をする言わば「経験のタネ」が蒔かれるのである。

勿論、この不完全な自我意識の発現には、地上物質媒体として、特に脳機能的に発達した生物の肉体を必要とするのは言うまでもない。

 従って、仮令人類に近く暮らそうとも爬虫類や両生類には(個体としての意識は勿論あるが)「わたし」を意識することは決してない。
馬、牛、豚、犬、猫、猿など生物として高等な哺乳類、及び一部の鳥類にしかこの意識の働きは見られない。
意識の働きというより脳の働きである。
この脳の働きが「経験のタネ」として記録され、いつか本当の自我が発現するときの役に立つのである。
また、種族として人類と共に永い時を歩んできた種は、その種の類魂に共通するデータベースとして、人類との関わりの記憶を有しているため、その内の一個体が生存時に人と共に暮らすと、その個体には「わたし」的意識が生存中は発現しやすいのである。

ヘビ、トカゲ、カメやカエルなど爬虫類や両生類が「人に馴れ」て「わたし」が居るように見えるのは、本能レベルで安全を確認した事による行動様式であり、上述のような自我意識の発現ではない。)

 未開人類となって初めて明確に発現する自我意識はその後、不良惑星人として進化する過程で、自我意識に立脚した個性を益々発達させていく。
この個性が各人各様に花開く事は、主義主張の衝突や虚栄心、差別、優越感、劣等感、支配、被支配等ともなり、これらを元にして競争、闘争、戦争など行過ぎた愚行蛮行へと迷走もするが、反対に個性あるが故に磨き合い、気付き合いが生まれ、認め合い、許し合いを学び、最終的には大愛に気付いてその惑星人類として完全統一を学ぶ事にも相成るのである。

 一方、無我という言葉がある。
字面だけを見ると、自我を無くす事のように取れるため、
無我とは自我を否定する事としている誤りをよく目にも耳にもする。

しかし、無我とは自我を無くすことではない。
自我を没却して無我となるとは自我を否定することでは決してない。
自我は未開人類以降の人類進化の道程において欠くべからざる意識経験である。
不要な事象は宇宙間に一切ない。自我を否定してはならないのである。
 では、自我を否定せず無我に至るとは如何なることか。

 その前に、言葉を整理する必要がありそうである。
この無我という表現は本稿にはどうもそぐわない。
シルバーバーチャンが過去の記事においても「無の心」という表現はしても、
「無我」という表現を避けたかった理由もここではっきりするであろう。

 世には小我と大我という表現もある。
小我は表面意識的であり、感情的であり、生存競争に奔走し、物事に執着し、自己愛であり、利己的意識である。
「俺が、俺が」という自己顕示欲もこの状態から齎される。
大我は潜在意識的であり、理性的であり、我執を去ってこだわり無く、
利他愛に満ちた許しの境地であろう。
端的に言えば、前者は不良惑星人的、後者は優良惑星人的と言ってもよい。

 このように小我、大我という視点で整理するとすっきりする。

世間一般に「我が強い」「我を張る」のように使用される「我」(が)や過去の記事で表現してきた我欲の我は「小我」のことである。
「無の心」とは小我を打ち破って大我が発動した心の状態であり、
また「無我」と呼ばれるのも「大我」のことである。

 こうして小我、大我と別記すると、分離、分割する思考に慣らされた地球惑星人は小我と大我は別々のもので相対、相克するもののように捉える傾向があるが、そうではなく、ある物質が気体、液体、個体の三体にその状態を変えていても同一の物質であるが如く、小我も大我も自我の状態をいうのである。 

 自我は「わたし」という意識であり、小我にも大我にも、利己愛にも利他愛にも変化できる「成長するわたし自身」「分け御魂に賦与されたわたしという機能」であり、そこに善いも悪いもなく、「より小我的である自我」から「より大我的である自我」へと、その段階は無限である。
また、この自我こそが「私は誰?」という問いの源泉となっているのである。

動物にはない、人類ならではの問いである。
仮に人類並みの知能を有する動物が存在したとしても、自我の発動を見ない限り
「私とは誰なのか」という自問は起こり得ないということである。

へその緒はつながつているのであるから、
一段奥のへそえへそえと進んで行けば、
其処に新しき広い世界、大きくひらけるのであるぞ。
自分なくするのではなく高く深くするのであるぞ。
無我でないぞ。判りたか。


他を愛するは真愛ぞ。
己のみ愛するのは自己愛ぞ。
自己愛を排してはならん。
自己愛をひろげて、大きくして真愛と合致させねばならん。
そこに新しき理(ミチ)ひらけるのであるぞ。
自己愛を悪魔ととくは悪魔ぞ。
無き悪魔つくり、生み出すでないぞ。
一段昇らねば判らん。

 過去の記事で一貫して繰り返してきた我欲の放擲、打ち捨てる事とは、自我を小我にとどめず拡大して大我と為せということである。

 小我的生き方、小我的心の状態には表裏一体となって自己欲が付いて回る。
我と欲が表裏一体である以上、上述のように「小我から大我へ拡大せよ」というなら、この「欲」に関しても同じく「拡大せよ」と言えるのである。
「欲を拡大せよ」とここだけ切り取って見ると獣化せよと言っているようだがそうではない。
 
 ここにシルバーバーチャンが畏友に宛てて記した文章がある。
以下はその抜粋である。(文体もそのまま転記)

『欲に対して「足るを知る」を基準にするのもよいでしょう。
ただし、どこを境界線にして足りたと知るのか不明瞭です。
人によって基準は異なります。
また、自分の中ですら、長期的には精神的成長、短期的にはその日の気分や体調までも関わってきて基準は変化します。

足るを知る基準を厳しくすればよいというものでもありません。
エスカレートして宗教の戒律のようになってしまいがちですし、
それを自分が楽々クリアできると、その基準をついつい人に押し付けてしまっているなんて事にもなりかねません。

(中略)

でも、難しく考えないで、出来るだけ多くの人にとって役に立つ方向性を見失わずに出来る範囲で出来ることをすればいいのです。

あなたが愛を与える範囲が家族から地域、地域から地方、地方から国、国から世界、世界から宇宙へと広がり、あなたが愛を与える対象が人から動物までも、動物から植物までも、植物から環境までもと広がればその愛はより普遍的なものへと変容して行くでしょう。

この愛を実現しようとする欲求は欲には違いありませんが、決して非難される欲ではありません。むしろ賞賛に値するでしょう。
賞賛に値する欲なら、いっそ大きな欲を持ってはいかがでしょうか。

ただし、大きな欲には大きな愛が必要ですから、自分にそれだけ普遍的な愛がまだ成長していないなら、大きな欲は望めないのは自明の理です。身の丈にあった欲でいいのではないでしょうか。
 一番いけないのが、功罪に振り回されすぎて、こっちを立てればあっちが立たず・・と頭の中だけで考え続けて哲学の森に迷い込み、結局何もしない事です。
また、この「欲」はいけないことじゃないのか、と悩んで宗教の戒律のように悶々とすることです。
宗教的な戒律は「こんなことをしたら地獄に落ちる」(?)みたいな強迫観念で、結局それは自分が地獄に落ちたくないから・・という自分の事しか考えていないエゴですよ。

 まあ、自分と自分の家族さえよければ何でもあり、ということでなければよっぽど大丈夫でしょう。
常に利他を想っての行動なのですから。
欲が我欲ではなく、より大きく広い愛のある意志であればよいのではないですか。
食欲や性欲や睡眠欲など生物が生きて行くうえで組み込まれた欲は、自分なりの足るを知る範囲でよいのではないですか。
この範囲や度合いが自分の精神的成長で変化して行くのを自分で観察するのもまた一興じゃないですか。(笑)』

 以上が、畏友が欲について自問している記事にシルバーバーチャンがお節介にもコメントをしたものである。

自己慾もなくてはならんが、段々浄化して行かねばならん。
浄化して大き自己の慾とせよ。
自分のみの慾となるから弥栄えんのぢゃ。
弥栄えんもの神の御心に逆行。

 この我と欲即ち利己愛と自己欲という状態にとどまっている限り、これがあらゆる躓(つまず)き障(さわ)りとなり、その小我と小我故の自己欲から発する想念波動に乗じて跳梁跋扈する邪神・邪霊に弄ばれて、不良惑星人はそれぞれの苦海に漂いながら、岩礁に我が身を打ち付けて深く傷つくのである。
(しかし、それはその不徳を恥じて、心を正し行く学習過程でもある。
この学習により小我は大我へと拡大していくのである。)

 我と欲を放擲する道は、未だ小我の状態である自我を大我へと拡大する事であり、自我を無くしてしまおうと無理な挑戦をする事ではないのである。
人類の意識進化の段階としてある自我意識を無きものとせよと囁くのは、自我の消滅を恰(あたか)も修行や悟りへの道であると錯覚させ、
消滅し得ない自我を消滅させようと苦しめる邪神の画策である。

 自我を小我から大我へと広げることこそ肝要である。
即ち利己から利他への高まりであり、自己欲から大いなる全体欲への拡大である。
自己の欲はあってもよいのである。
だたし、そのままではいけない。
事あるごとに学んで(不良惑星人の場合、その学びは往々にして何らかの苦痛体験である。)、自分より他が為の欲へと成長させよということである。
他が為の欲とは、それはもはや欲でなく愛である。
愛へと変容しているのである。
上述の畏友へ宛てた文章で「大きな欲には大きな愛が必要」と表現した正にそのことである。
 その切磋琢磨の学びの場こそ、宇宙間にそれぞれ在る不良惑星である。
故に現象界で暮らす人々は個性が実に多様で、また玉石混交なのである。

 石は玉の姿を見て玉になろうとし、玉に成りかけの石ほど己の不完全な姿に傷つき苦悩しながらも更に玉へと近づき、玉は石によってより一層の磨きが進む。石も無ければならないし、玉も無ければならないのである。
玉も石もそれぞれにそれぞれを必要としあう同胞(はらから)なのである。
石も様々、玉も様々、真相はその在り方がより小我的か、より大我的かという違いがあるだけである。

 宗教のような戒律はもとより、人は己の中に何かしらの戒律を作って己を縛る。
しかし、戒律で縛れるのは行動だけであり、想いは制限できまい。
頭を振って想いを否定しようとも、思ってしまうものは思ってしまうのである。
その想いこそが今の自分自身なのである。
偽らざる自我なのである。
より小我な自我かより大我な自我かである。
自我は偽る事も誤魔化す事も出来ないのである。
偽りも誤魔化しもできないのだからこそ、「それでよい」のである。
それが自分自身のありのままの姿、自我なのである。

 「善も悪も超越して正しく生きよ。」
「悪を抱き参らせよ。」
「善いも悪いもない自我である。」
「小我から大我へ無段階。」
「玉も石もそれぞれにそれぞれを必要としあう同胞(はらから)なのである。」

・・皆同じことである。
「玉と石」にも、「善と悪」にも、「小我と大我」にも境界線など本当はない。

この玉石善悪小我大我のカクテルの海という揺り籠の中で、
大愛へ向かって皆成長進化して行く、本当はただそれだけなのである。

 さて、大我的在り方を、平易にして身近な一言で示した「アホとなれ」は言い得て妙である。
アホになれぬが故に、永きに渡って不良惑星に幽閉され、その中で苦しい転生を繰り返してきたのである。
男の沽券、女の意地、強情、損得勘定、強欲・・・アホにならねばこれらは捨てきれまい。

改心とはアホになることざぞ、世界中のアホ中々ぢや、中々アホになれまいがな。

良寛

良寛この神示は良寛禅師の生き様を彷彿とさせる。
親鸞上人と並んで無欲にして大悟に至った‘良寛さん’の生き様は
シルバーバーチャンの目指す、人としての在り方でもある。

 一般的な良寛禅師のイメージはおおよそ次のようなものである。
 『幼少の頃は大庄屋の長男で、本を読むのが大好きで、いつもぼんやり昼行燈(ひるあんどん)。
里の子供らと手毬をつき、特におはじきが大好きで歳をとっても村人や子供らからからかわれ、それでもいつもにこにこして怒ることもない優しい良寛さん。
学も徳も深く、それでいて純粋な童心を持ちつづけながら、自ら愚禿と称して奢(おご)ることなく、穏やかに、優しく、自然の中に埋もれるように生涯を終える無欲なる悟道の達人。』

 江戸も終わりの天保の世だけに逸話も多く残されていて、これを明治の文学者・相馬御風が『大愚良寛』を著わして、良寛禅師を身近な良寛さんとして世に広く知らしめたのである。
大愚にしろ愚禿にしろ、この「愚かさ」は上述の「アホとなれ」と同義の愚かさである。
小我の我執を去り、大我へと至る「伸びやかな愚かさ」である。小我の小利口さ、打算、利害得失を離れた無垢の愚かさである。
 良寛が優しさを向けた対象は人だけではなく、動植物にも優しかった。ある時、厠(かわや)の床から筍が生えてきて、庵の屋根につかえそうになったので、藁葺きの屋根を焼いて穴をあけて伸ばしてやろうとしたら厠を全部焼いてしまった話もその一つである。

 相馬御風によって‘良寛さん’のイメージは定着したが、これは飽くまで晩年良寛禅師と呼ばれた頃のことであって、そこへ至るまでの道は孤独と愁(うれ)いと苦悩の日々であったのである。あの良寛禅師も己の中に凄まじい修羅を見ていたのである。

 大庄屋の長男として生まれたこの秀才は何不自由なく過ごせる暮らしを捨てて出家する。形式主義や腐敗した幕府の地方官僚、奉行所などの組織悪に大庄屋の家ともなると否が応でも巻き込まれる。そうした現実世界での権力や里の民衆に絶望し、嫁側の家のエゴにより離縁させられるという不幸な結婚を経験した長男坊良寛の出家はとりあえず現実逃避と反発だった。

 ところが円通寺の国仙和尚との出会いで良寛の自己探求心は燃え上がった。この本当の出家の始まりは同時に良寛の孤独と愁いと苦悩の始まりでもあったのである。また、その孤独と愁いと苦悩こそが、救いへの糸口でもあったのである。

 円通寺での良寛は相馬御風の広めたイメージとは正反対であった。
その暮らしは恰も軍隊のような厳格で規則正しいものだった。
その中で良寛は刻苦勉励して行を積み、持ち前の秀才を遺憾なく発揮していた。
意気軒昂な模範的青年僧侶はそのまま行けば円通寺の住持となり、曹洞宗の宗門組織の中で出世街道をひた走ることも出来たはずであった。
 しかし、ある時を境に良寛はその身を翻(ひるがえ)して「否定の否定」なる人生を歩みだした。何故か。

 良寛が十年余りを過ごした円通寺には、仙桂(せんけい)という修行僧がいた。
良寛の先輩である。良寛はこの仙桂和尚のことを詩にしている。

『仙桂(せんけい)和尚は真の道者(どうじゃ)
貌(かお)は古(こ)にして 言(げん)は朴(ぼく)なる客(かく)
三十年 国仙(こくせん)の会(え)に在り
参禅せず 読経せず
宗文(しゅうもん)の一句を道(い)わず
園菜(えんさい)を作って 大衆を供養す
当時 我 之(これ)を見れども見えず
之に遇(あ)い 之に遇うも 遇わず
吁嗟(ああ)今 之に倣(なら)わんとするも 得べからず
仙桂和尚は真の道者』


 仙桂和尚の風貌は古くさく、言葉使いも素朴である。
三十年も国仙和尚の下に居ながら、皆と一緒に座禅に参加することもなく読経もしない。
悟道に関して議論を交わすこともせず、庭に野菜などを作って皆の食事のおかずにと農作業に専念している。まるで農夫である。
当時の良寛は仙桂和尚に会っても、自分がどういう人物に相対しているのかも分からなかったが、今になって、仙桂和尚の真似をしようとしても、とても出来るものではなかった。
仙桂和尚こそは何が道なのかを得心していた真の道者であるといっているのである。

 秀才良寛は当時、農作業に従事するような僧としては身分の低い者に目もくれなかったに違いないが、これこそが真の行者、真に道を知る修行者であることに気付く。
そこにあるのは宗門での立身や出世ではなく、ひたすらに、ただひたすらに他を利する慈悲の心であると気付いたのである。
良寛は自分はとても仙桂和尚までに至らないと、それまでの自己完成を目指した刻苦勉励の日々を愕然として振り返ったであろう。

 恐らくは良寛がこの仙桂和尚を理解するに至る切っ掛けとなったのは、良寛が師と仰いで止まなかった道元禅師の著わした『典座教訓』(てんぞきょうくん)にある逸話であろう。

 当時修行のため宋に渡った道元は阿育王山(あいくおうざん)で厳しい修行に打ち込む日々を送っていたが、ある日、腰の曲がった老僧が陽炎ゆらめく真夏の炎天下で椎茸を干していた。
老体に滝のように流れる汗を見るだけでも、容赦なく強い日差しの中の椎茸干しは過酷な作業だとわかる。

これを見た道元は老僧の六十八という歳を聞いて驚き、
「そんなことは若い僧にやらせればいいではないですか」と気遣うと、老僧は
「他人は私ではない。」【他は是(こ)れ吾にあらず】
と答えて、自分がやるから自分の修行なのであり、他人にさせれば、
そこには椎茸が干せればよいという結果しかないではないかというのである。

 道元が、せめてもっと涼しい日に改めてやってはどうかと提案すると、今度は
「今以外にいつの日があるというか」【更にいずれの時をか待たん】
今この瞬間を生きずにいつを生きるのか、今この時の充実が大事なのだというのである。
道元には返す言葉も無かったに違いない。

道は自分で歩めよ、御用は自分でつとめよ、人がさして呉れるのでないぞ、自分で御用するのぞ、道は自分で開くのぞ、人頼りてはならんぞ。

 良寛は師と仰ぐ道元のこのエピソードに触れて、宗門に在りながら農夫のような低い身分に甘んじる仙桂和尚の偉大さと、その姿を通じて見える己の道を知ったはずなのである。

 強者の理論が蔓延(はびこ)る世俗に反発して、出家した良寛を待っていたのは、宗門の世界にまでも蔓延った組織悪だった。
良寛はこの道元禅師の『典座教訓』の生きた証人であるかのような、表向きは身分の低い、しかし真の道者である仙桂和尚によって遂に宗門を飛び出して放浪の旅に出たのだった。

 仏をダシにして生活の手段とし、学を身につけ自己満足と優越感に浸る我善しの腐れ坊主の巣窟を後にしたのである。
大寺院に所属しなければ僧侶ではないといわんばかりのエリート意識は、「一門に非らざん者はみな人非人たるべし」(平家にあらずんば人にあらず)とした平安末期の驕りにも、大企業の社員でなければ、金持ちでなければ、金を稼ぐ知恵者でなければ‘勝ち組’にあらずと謂わんばかりの現代の拝金思想にも通じ、人々の小我どまりの自我がいつの時代にも呪ったように社会の価値観を形成してきた。

 何を以って勝ち組とほざいて悦に入(い)るのか、反対に何を以って負け組などと屈辱と嫉妬に泣き濡れて恨み言をいうのか。
勝って優越感に酔いしれ、負けて劣等感に打ちひしがれる。
共に我執に翻弄される小我の姿である。
 小我故の優越感と劣等感、小我故の傲慢と卑屈である。
小我故の差別、小我故の利己欲、自己保身、我れ善し、無関心、
小我故の強欲、小我故の弱者蹂躙である。
 
 良寛はこの小我の殻を打ち破る孤独の旅に出かけたのである。

 この「アホとなれ」は大我的であれと言うことであるが、
これを反対に言い換えれば、

いくら修行して悟りを得たいと願って刻苦勉励しても、いつも己の中心に小我的な自分が居座り、これに気付かないが故に、修行しようが、反省してみせようが、瞑想しようが、所詮、己の我執の枠を出られずに我武者羅なだけの出口なき人生歩むことになる
ということでもある。

 我執を去れぬ己のみの自己完成では、刻苦勉励の果てに行き着けるのは所詮自己満足と傲慢なのである。
そこには何の悟りもない。
悟ったとする単なる勘違い、取り違いである。

 そして大我的でないが故に、即ち「アホとなる」修行をしていないが故に悟ったと勘違いした小悟のその人には、途端に小我がむくむくと頭をもたげて「我こそは」と思い上がって奈落へと落ちるのである。

 人はガクンと落ちれば誰でもハッとして目を覚ます。少しずつ少しずつ、じわりじわりと落ちていくから気がつかぬのである。落ちた分だけ姿勢高く、他を見下して悦に入るのである。高級ぶった低級な小我の人である。こうした自己完成を目指してはならない。

 悟りとは実は色々と身に付けていく足し算ではなく、余計なものを削り落とす引き算によって無垢な自我を削り出すこと、掘り出すことなのである。
知識はこれを助けるが、知識は所詮知識、知っただけのことであるとシルバーバーチャンが常々言うのはこうした訳である。

 不良惑星人は生存競争を生き抜かねばならない恐怖と心配と防衛のため色々と他を出し抜く有利な能力を身に付けようと汲々とする。
このような競争社会の中の ‘掟’と同様に、悟道においても勉学し、知識を身に付け、理論武装して求めて、求めて己を厚塗りして、‘大家’や‘先生’や‘偉い人’になりもする。
 もっとも、知識や教養や技術が他を生かし活かすための愛念を実現する目的の中にあるならこの限りではない。
自己完成や排他的‘武装手段’として知識や教養や技術を身に付けるのでなければ、何であれその道を極めたければ極めればよい。
が、不良惑星人は小我的であるが故に、往々にしてこれがいつの間にか他を蹴落として競争社会を生き抜くための‘武装手段’や自己満足を得るための自己完成を目指すことにすり替わってしまいがちなのである。
これもその程度は様々であろう。より小我的かより大我的かという話と同じである。

 自我は偽れないのだから、偽りない自我のままとするしかないのである。
結果、悪的と表出するか善的と表出するか、即ちそこに愛があるかないかの違いとなって現されるのである。
悪的なものは何らかの形で苦痛体験を強いられて善き方向へと誘(いざな)われるであろう。
 (教育は、この悪的なるものを善へと向かわせるために存在すべきである。
現在の地球の教育は自己完成を目指させ、他を蹴落として生き残る我れ善しを教えているのである。
優良惑星として歴史の浅い惑星群で子供たちに施すあらゆる教育の原点は「汝、生命と利他の為に生きよ。」にある。)

 そもそも優良惑星不適格者として我と欲を放擲することを人生の第一義とされている惑星人が為すべき事は、地球的刻苦勉励による知識や経済や権威による‘武装’ではないのである。
小我の殻と欲の皮を何重にもかぶせて自ら封じ込めてしまった自我を、
その皮を剥ぎ、殻を破って大我へと還(かえ)ることである。
求めずして日々の暮らしの中に我を折(お)って、
自らの至らなさ、愚かさを認めて歩むとき、
他に対する真の優しさや慈愛が生まれるのである。

 考えてみれば、存命中に自己完成を目指して身に着けた技術も知識も
教養も死すればすべて失われ、残っても刻苦勉励したという事実が
単純化された情報として魂に記録されるのみであるが、
小我から大我への拡大は自我そのもの、自分そのものが為し得た事であるため
自ら掴んだ‘財産’(霊格)として死して尚、堅持できるではないか。

そして次の転生時には算数も理科も国語さえも覚えていなくても、
その魂は前の世で拡大した分だけの大我的自我を備えて生まれてくるのである。

 先に記したように、優良惑星として歴史の浅い惑星群では、
子供らに対して施される様々な教育の原点は
「汝、生命と利他の為に生きよ。」
である。

既に大我的となって転生してくる子供らに優良惑星人としてもっと次元の高い愛を学ぶ基礎中の基礎であり、全てはこの原点を中心にして展開されていく。

 また、優良惑星として長い歴史を有する惑星群においては、
転生してくる子供らは更に更に大我的であるため、
生来的に高邁(こうまい)な精神を有していて
「生命と利他に生きよ」などと殊更に教育する必要などない。

 それに比して多くの不良惑星群では、
転生する子供らは未だ前の世から引き続き小我的自我のまま転生してくるため、
生命と利他の教育を必要とするが、如何せん、より小我に凝り固まった大人たちの施す教育が、
生存競争や各種闘争に身構えて暮らすための教育、
排他的教育、
我れ善しの教育であるがために、子供は教育と称した
’戦闘員養成の洗脳’を受けて大人になる。

また、小我の殻に押し込められる前の子供らに、
より一層小我的な大人たちの方が気付かされること、
学ぶことがあるなど真の教育の逆転がよく見られるのである。
しかし、その子供らも結局は’戦闘員教育’を充分に受けて、
同じ小我の大人になっていく場合が殆どである。

 小我のまま転生した子供達なるも、
転生時までにある程度リセットされて比較的無垢となった自我に、
不良惑星における’教育’が戦闘員として身構えて暮らすための地球人の
’小知恵’、’小利口さ’などの社会洗脳を施して、
子供達をより一層凝り固まった小我へ劣化させるのである。

そして、これを「大人になる事」だとしているのである。

不良惑星の社会は’大人と呼ばれる子供の死骸’で一杯である。

 「もう一度、子供となれよ、アホとなれ。」

 何を学んだか、何を学ぶために転生をするのか・・・

小我から大我への拡大、即ち愛の拡大である。
算数や理科を学ぶために転生しているのではなかろう。
建築学を学ぶために転生しているのではなかろう。
医学を学ぶために転生しているのではなかろう。
スピリチュアリズムの知識を身に付けるために転生しているのでもなかろう。

 こうして身に着ける学問や技術や教養は、
利他を実践する手段であり、いや手段に過ぎず、これらを利用し、
またこれらを通じて困難を乗り越えながら、真の愛を学ぶことこそが
その魂の目的である。
(よってどういう手段を取るかの違いがあるだけで、
手段である例えば職業にも偉い仕事、賎しい仕事、業務にも
偉い業務、賤しい作業などという貴賤はないはずなのである。
職業の重さは皆同じなのである。そして、そこに利他愛があるかないかだけである。

「汝、生命と利他の為に生きよ。」
(不良惑星の職業の実際は嘘、偽り、我れ善し、生存競争が蔓延し、
人のみならず弟妹動物らの生命の尊重、環境の保全も
利己心の前に無表情に踏みにじられているのが不良惑星の現状である。
小我的に生きる惑星人が殆どだからである。)

 良寛禅師は徹底的に教養や知識を突き詰めて、
最後にそれを全て捨て去ったのである。
それを実行するところが良寛の真骨頂であった。

 『俗にも非(あら)ず、沙門(しゃもん)にも非ず』
(俗にもあらず、僧にもあらず)と言って、僧として成功するためとはいえ
俗な階級組織に属することは本意ではないし、
かといって俗事に己を埋没させ暮らしていける生活者でもない。
この当時の良寛は未ださまよえる言わばモラトリアムであった。
今時の言葉ならニートといったところであろうか。
そして、酒もタバコもやるし、時には女性にも心を動かされる。
働くわけでもない。

 大庄屋の長男という重圧や形式主義に反発して家を出て、
仏門に入るもここにもあった職業坊主の醜悪さに辟易し、
仙桂和尚の背中に学んで僧門を飛び出し、放浪の旅に出てしまう。
結果、俗でも僧でもない自分を詩に詠んで嘆く。

『家を出て以来、二十年もかかって自分の辿り着いたとどのつまりが「中途半端」とは。情けなさも嘆かわしさも涙もこみ上げてくる。一体自分は何なのだ。中途半端なだけではないか。』と。

 しかし、その中途半端はその時代時代の社会的価値観に照らして中途半端だと
’世間がご親切にも判定’するのであり、何が中途半端で何が立派なのか、
本当は誰も何も言えないのである。
個人の価値観形成に対する、生まれて以来晒され続ける社会の’教育’という洗脳の影響は多大で、
良寛でさえ自分はどう見ても、どう考えても「中途半端」だろうと思っていたのである。
(それだからこそ一なる大愛からもっとも遠くにある
「我こそは」という傲慢がなかった訳でもある。)

 現代に生きる惑星人は当時の良寛のように放浪の旅をすることは稀であるし、
乞食同然となって放浪した良寛とは対照的に家や車や他の財産や家族や地位や名誉を衣のようにまとって暮らしている。
そして、それを自分だと思って、いや信じて生きている。

 しかし、生き方や置かれた環境がどうであれ、実は、
良寛のような心の変遷を現代を生きる惑星人の多くも経験するのである。
ただそれに気付いているかいないかだけである。
良寛は何もかも捨て去って(社会的には)中途半端となった自分に何が残されているのか、自分とは何だったのかと振り返ったのだが、反対にそこそこに(またはしっかりと)社会的に‘立派’になった人も、この「自分とは一体何だったのか」という問いを自らに投げかける。

 男も女も人生には節目というものが訪れる。
この節目を特に年齢と重ねて二十歳、三十歳、四十歳・・と
切りのいいところで人生を振り返る。

 それぞれの年齢で振り返り方の深さも角度も異なるのは当然だが、
今ひとつ例を挙げれば次のようなものである。

今まで色々やってきた。
情熱を傾けて頑張りもした。

知識も身に付け、能力も身に付け、人望もそれなりに身に付けた。
目標に向かって走ってきた。

「あの山頂」に向かって我武者羅に登ってきた。
結婚もした、家も買った、子供も育ててきた。

職場でも一平卒の時代から今では部長となり、
部下を率いてエネルギッシュにバリバリ働いている。

 冬の夜空を仰いで、静かに透き通って瞬く星を見る時、
それら身にまとった衣を全部剥ぎ取られる気がして、ふと怖くなる。

それらを剥ぎ取った自分とは何か。何が自分に残されているのだろうかと。

それまで希望、情熱、夢で飾られた期待色の景色が急に色あせて、
無残なまでに剥き出しにされた自分が冬の夜空の張り詰めた虚空に
吸い込まれそうになる。

 部下に囲まれ、家族に囲まれていても、孤独だ。
孤独である。孤独なのである。

 この孤独の愁いはどこからやって来るのか。
この孤独こそが小我に苦しむ自我の叫びなのである。
自我が発現した時、一なる大愛からその自我を以って自らを
「わたし」として切り離した孤独なのである。
そして大愛ともう一度一体化したいという根源的で果たし得ない望み、
小我である限り果たし得ない大愛との一体化という望みなのである。

 社会的に中途半端であろうが、
社会的に立派であろうが
‘衣’を剥ぎ取られた裸の自分、
小我に苦しむ自我は皆同じ、
小我であるが故に手の届かぬ大愛を求めて愁う孤独なのである。

 良寛はこの孤独に言い訳をせず、誤魔化さず正面から向き合った。

心にまとう衣、小我を脱ぎ捨てていったのである。
自信、虚栄心、猜疑心、自惚れ、傲慢、怒り、自尊心・・・
殻を打ち破るための、自己との激しい戦である。

 この小我の殻を打ち破って大我発動となった時、
自我は遂にもう一度大愛と一体化する喜びに還ることが出来るのである。
根底は小我であれ大我であれ、分け御魂である以上、
常に大愛とつながっているのに、未開人類となって以来、
自我の発現、即ち「わたし」が生まれ、その「わたし」が小我的心に支配されることで、
本当は繋がっている大愛との絆を切り離されたように認識するのである。
大方の地球惑星人はこの段階にある。
小我であるが故に、大愛を己の中に感じることが出来ないままでいるのである。

 しかし、小我を削って落として捨て切った時、
切り離されたと認識していた大愛との絆が実はしっかりと繋がっていたことを再認識し、即ち大我へと至って再び大愛と一体化する。

 同じ自我が小我から大我へと、まるで‘別のもの’のようになるのである。
大愛との一体化は、同じ道を引き返して大愛へと「帰る」のではなく、
違う道を通って即ち‘別のもの’へと成長して「還(かえ)る」とシルバーバーチャンは表わしたいのである。

 平面上で直線を引き返して帰るのか、立体で高く円を描いて還るのか。
もと来た道を引き返しては、自我発現以前の動物の意識へ「帰る」ことになる。
そうではなくて小我の殻に苦しんだ自我を、殻を破って、捨てて、また捨てて、捨て切って大我となった自我が再び一なる大愛へと「還る」のである。

 小我の殻に自らを幽閉した自我の、大愛への渇き、一体化の望みが孤独となってその人は愁うのである。
従って、この孤独と愁いを知る者は真に生きることに気付いている者と言えるのである。

即ち我欲の放擲、小我から大我への飛躍を切望する自我の人なのである。

 自尊心、自信、自惚れ、傲慢、怒り、虚栄心、猜疑心、嫉妬心、羨望、復讐心、敵愾心等々・・・
およそ負の想念波動を内包するこれらの小我的心は、伸びやかに愚かにアホとならねば捨てきれまい。

 身を低く持する修行を怠った自己完成は、あれこれ身に付け、頭に詰め込んだ分だけ傲慢となるのである。

どんな草でも木でもその草木でなければならん御用あるぞ。
だから生きているのぢゃ。
そのはたらき御用忘れるから苦しむ。
行き詰る。
御用忘れるから亡びるのぢゃ。
個人は個人の、一家は一家の、国は国の御用がある。
御用大切、御用結構。
日本が変って世界となったのぢゃ。
自分の為ばかりの祈りには、自分だけの神しか出て来ない。
悪の祈りには悪の神。
善の祈りには善の神。
始めの間は中々判らんものぢゃ。
神様のなされるマネから始めて下されよ。


 ここでは≪祈り≫と表現されているがこれは
欲望、願望と同義である。
己のみの人格完成を願う心は、我れ善しの自己満足を欲する心である。
「俺が俺の為に完成したい」心である。

 知識でも教養でも技術でも何事も極めたければ極めればよい。
行ける所まで行ってみるがよい。
しかし、その極めようとする、完成しようとする目的はどこにあるのか、
誰のためか、どう役立てようとするのか、どう喜ばせようとするのか、
その対象は自分だけではないか、家族だけではないか、
何が誰が対象か、範囲はどこか常に自省することを忘れてはならない。

自分の為ばかりの祈りには、自分だけの神しか出てこないのである。
即ち小我然とした小さき己に終始するばかりである。

 ≪どんな草でも木でも その草木でなければならん御用あるぞ。だから生きているのぢゃ。そのはたらき御用忘れるから苦しむ。行き詰る。御用忘れるから亡びるのぢゃ。個人は個人の、一家は一家の、国は国の御用がある。御用大切、御用結構。≫なのである。
 己の御用に精進する自己確立こそ必要である。
≪個人は個人の、一家は一家の、国は国の御用がある。御用大切、御用結構。≫

御用、御用と言われるが、御用とは何ぞや。
道元や良寛の覚醒の切っ掛けとなった阿育王山の
椎茸干しの老僧や仙桂和尚が思い出される。

 老僧の『他は是れ吾にあらず』、自分がやるから自分の修行なのである。自分の御用なのである。自分以外の人の学びは学びではない。
≪道は自分で歩めよ、御用は自分でつとめよ、人がさして呉れるのでないぞ、自分で御用するのぞ、道は自分で開くのぞ、人頼りてはならんぞ。≫

 また、その学びは、たわいも無き日常の些事にまで見つけることが出来るのである。
良寛が詩にした仙桂和尚は
『参禅せず、読経せず、宗文の一句を道わず、
園菜を作って大衆を供養す』、
立身も出世も求めず、ひたすらに他を想って野菜を作る。
今風に言えば、会社などの組織などで、企画ならビッグプロジェクトに参加したり、
営業なら颯爽として華々しく営業の戦果を上げたり、
経営なら格好よくスーツでも着こなして切れ味鋭い経営分析と辣腕による磐石のキャッシュフロー経営を担ったり、
現場の重鎮として実働部隊を取り仕切り、
見事大事業を成功へと導いたりするわけでもなく、
日がな一日、地味な事務作業とお茶汲みをするといったところであろうか。

 アホになれなければ、「どうして私がお茶汲みなんて・・」と愚痴るものである。

 「お茶汲み」という言わば些事にすら、いや些事なればこそ、そこに椎茸干しの老僧や仙桂和尚が身をもって示した只ひたすらに他を想い愛する行を見出せるのである。

 お茶汲みはつまらぬ、くだらぬ、卑しいことであろうか。
そこにどんな想いがあるかでその価値が決まるのである。
ただそれだけである。「アホとなれよ。」

 反対に、ビッグプロジェクトを推進する企画開発も辣腕経営も、
意気軒昂の営業もそこに利他愛なくば≪御用≫とならず。
御用致せよ、アホとなれ。

 アホとなって自己確立為すのである。
お茶汲みも行となる。
トイレを出たなら次の者がそのままトイレに入っていけるように
履物を揃えるのである。「アホとなれよ。」
足元にゴミがあれば、拾って捨てよ。
「アホとなれよ。」

 ただし、他人の感謝や賞賛を求めてするその心は自己満足である。
我れ善しである。
もはや≪御用≫ではない。

感謝や賞賛等見返りを密かにも期待して行なう心は小我である。
しかし、そう思えてしまうならそれが自我である。
そのままである。
そして小さき己に自ら嫌悪して傷つくのである。
しかし、それもよいのである。
そうして己の汚さ、浅さ、卑しさに気付くのであればそれはそれでよいのである。
まず気付く事から始まるのである。
その愚かさを認めて噛みしめてアホとなるのである。

 己を「そこそこの者」と思っている以上、アホにはなれない。
そこそこの者はその「そこそこ」を他人に指摘されて腹を立てる。
大我は腹を立てはしない。

 華々しい行いで誰が見てもいい事をしたといわれるような「デカイ事」をして、
悦に入ればそれは最早≪御用≫ではない。
例えば‘職業議員’などは見返りを求めて恩を売る、
票が欲しいばかりに恩を売る。
票を投じる選挙民も票を脅しの道具にして、
「(都合の)いい事、デカイ事」をしてくれと求める。

 互いに≪おかげを落して≫いるのである。


 化物に化かされんよう、おかげ落さんようにして下されよ。
よいことを申し、よい行をしてゐても、
よくない人があるのぢゃ。
よくないことも御用の一つではあるが、
そなたは未だそれを消化する程の所まで行ってゐないぞ。
小学生が大学生のまねしてはならん。
そなたはまだ慾があるぞ。
慾を、小さい自分ばかりの慾をすてなされ。
そしてまことの大深慾になりなされよ。
その気持さへ動いてくれば、何事も見事成就するぞ。

≪大学生のまねをする小学生≫の何と多いことか。
小学生(小我)は≪よいことを申し、よい行をしてゐて≫
さぞ気持ちよいことであろう。
よいこと言い、よいことをする大学生(大我)には当たり前のことで、
それで思い上がることはないのだが、小学生はそれを精一杯自慢したがり、
有頂天となって傲慢に陥り、鼻高々の天狗となるのである。

「大きな欲には大きな愛が必要」なのである。
「自分にそれだけ普遍的な愛がまだ成長していないなら、
大きな欲は望めないのは自明の理」なのである。
「身の丈(小我大我)にあった欲」なのである。

 世のため人のためよいことをしたという充実感に忍び寄る傲慢と賞賛を求める小我の自我では≪御用≫は勤まらない。
幸いにも‘たかがお茶汲み’だからこそ、そこには傲慢へと落ちる罠(ワナ)はない。
小学生が大学生になる練習にはもってこいではないか。
「アホとなれよ。」

 小学生が大学生のやることをやってしまうから
≪おかげを落として≫
思い上がって本末転倒、高級ぶった低級な魂となるのである。

≪そしてまことの大深慾になりなされよ。
その気持さへ動いてくれば、何事も見事成就するぞ。≫

 まことの大深欲、即ち無私の利他愛である。
決して傲慢とならない。
些事にしろ大事にしろ中心に私心なき利他愛あれば全てよしである。
些事を侮(あなど)るなかれ、また、大事をする時こそ
小我の傲慢に用心せねばならないのである。

≪おかげ落とすでないぞ。≫

≪われがわれがと思ふてゐるのは調和(まつり)てゐぬ証拠ぞ、
鼻高となればポキンと折れると申してある道理よく分らうがな、
この御道は鼻高と取りちがひが一番邪魔になるのぞと申すのは、
慢心と取りちがひは調和(まつり)の邪魔になるからぞ。
ここまでわけて申さばよく分かるであろう、何事も真通理(まつり)が第一ぞ≫。

≪この世の仕事すてて、神の為ぢゃと申して飛廻る鼻高さん、ポキンぞ。≫

≪よくもまあ鼻高ばかりになったものぢゃなあ、
四足(よつあし:獣、強欲)と天狗(てんぐ:鼻高、傲慢)ばかりぢゃ、
まあまあやりたいだけやりて見なされ、
神は何もかもみな調べぬいて仕組みてあるのぢゃから、
性来だけの事しか出来んから、
愈々となりて神にすがらなならんと云ふ事判りたら、
今度こそはまこと神にすがれよ、
今度神にすがること出来んなれば万劫末代 浮ばれんぞ。
したいことをやりて見て得心行く迄やりて見て改心早う結構ぞ。≫

 「アホとなれ」・・
この言葉を実践して生き切った僧侶が鎌倉時代にも在った。
京都高山寺の明恵(みょうえ)上人である。
明恵上人が、努力して悟りを開き高僧になろうと
自己完成を目指す上昇志向の修行僧に言っていた言葉がある。

『仏になりても何かせん、道を成(じょう)じて何かせん。
一切求め心を捨てはてて、徒者(いたずらもの)に成り還(かえ)りて、
兎(と)も角(かく)も私にあてがう事なくして、飢(うえ)来たれば食し、
寒(かん)来たれば被(こうむ)るばかりにて、
一生はて給(たま)わば、大地をば打ちはずすとも、道をうちはずす事は有るまじき。』

 修行をして仏になろうとか悟りを開こうとか努力などして何になるか。
成功を求める心は捨てよ。
一切を捨てよ。
徒者になれといっている。
徒(いたずら)とは「虚しい様」である。
平凡な人であることを貫いて、「俺が、俺が、俺が俺が俺こそが・・」という心を捨てて平凡に一生を終われば、大地を踏み外すことはあっても、仏の道を打ちはずすことは決してないというのである。

 我執を去らぬ限り、小我的自我を抱えたままでは如何なる刻苦勉励の果てにも大我へとたどり着くことはないというのである。
学問、知識、教養、地位、名誉、金銭、ありとあらゆる小我の現世的証や成功や自信を手に入れても、どこまでも小我の自我だからである。
大我へと至ることこそが最高の悟りである。
そして大我へと至るということは即ち「アホとなる」ことである。
即ち優良惑星への帰還である。

 この「アホとなった」晩年の良寛の姿こそ、優良惑星人の姿そのものである。
もちろん時代も文明も科学も異なるが故に優良惑星人とは表面上の生活はまるで違うが、その魂においては良寛はすでに優良惑星人の領域に達していたのである。
その時代に優良惑星人が良寛に扮して生きたと例えてもよいぐらいである。
その生き様は逸話として脚色されているものの「大愚良寛」や「良寛坊物語」に描かれた通りである。

 良寛が明恵上人を知っていたか否かは定かでないが、道元、仙桂、良寛、明恵という人物達には、その内面に小我を打ち破ろうとする強い決意があった。
そして皆孤独な愁いの人であった。
その内面の強い決意あればこその優しさであったのである。
なぜなら孤独は相手に期待しない。
期待しないから見返りも求めず一方的に愛を注ぐことが出来る。
それが慈悲というものである。


 大我となる悟りとは、自分を極めつくすことにあるが、
この極めつくすとは自分に執着して、感情に翻弄されることではなく、
日常生活の中に自分(小我)を忘れることであったのだ。
小我を捨てたとき初めて明らかと成る大我的自我、
即ち沽券も自尊心も何もかも剥ぎ取った裸の自分なのである。
不良惑星人はこの意味において本当の自分を未だ知らない。

 「アホとなれ」は「己を虚しくせよ」である。

よくある虚しい人生などという表現は少しも「己を虚しくして」はいない。
小我の自我であるからこそ、我欲に執着して、
それを充たす事ができない時、思い通りにならない現実を虚しく感じるのである。

それは虚しいと表現されただけの欲求不満、不平不満、小さい己への執着である。
大我となった虚しさに欲求不満はないのである。
孤独も愁いも抱えてよい。
「アホとなれよ」。

自我は自我、滅することなくここにあり
小さき己を日々捨てよ
大我となれよ、アホとなれ

我、自我にして小我に非ず
大我なり
吾、吾にして既に吾に非ず
大我なり
            (シ) 

 本日これまで。

シリーズ『シルバーバーチャル星人の生活』 
第17回 諸般の事情により記事の掲載は「待機中」となっています。


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