シリーズ 第15回
『神々の正体(その3)』
先回の最後に「病気治し」を標榜するものには宗教教団である場合から心霊手術や宗教とは言えぬものまで裾野が広いと記したが、単に裾野が広いだけでなく、その内容に関して言えば、「病気治し」を標榜するものの背後の‘神々’は真偽、正邪、高低、正否が入り乱れて、その正体を見破るのは容易ではな い。
「病気治し」に関しては、高邁な真理を解くことはない(できない)低い次元の存在が背後に在っても、そこに正義感や愛念が見られる場合もあ り、反対に高邁で普遍的真理を説く高級霊が背後に在って援護する場合でも、対象となる肉体人間の進化のため敢えて病気を治さないこともあるため、病気が治 る治らないという視点だけで判断しがちな肉体人間からしてみれば理不尽に感じることもある。
ケロリと治っても、実は邪神が邪霊を取り除いて欺いている場合 もある。
この事を踏まえて、今回(第15回)では、「病気治し」の背後の真偽判別の原則を記して大方の参考に供する事ができればと思う次第である。
宇宙間の不良惑星はいずれの惑星においても、病が多種多様に発生し、惑星人の病苦が絶えることなく、それを治療しようとする医療機関が存在するものである。
地球惑星も例外ではなく、その治病方法には大別して、所謂近代西洋医学に基づく現代医学的方法論により「病変した患部」を切る、焼く、貼り付け る、縫い合わせるなどして除去してしまう発想及び薬理作用のある物質を服用する、貼付や塗布して経皮吸収する、吸引する、血管に注入するなど医薬の化学反 応で目先の症状を一旦沈静化させ、その間にうまくすれば自然治癒力が何とか治すだろうとする方法など、根本原因に手を加えることなく
‘外力’で攻撃的に治そう(または治ったようにしよう)とする流れと代表的には人体の骨格的歪(ひず)みの調整により神経圧迫を取り除き主に自律神経の調整を図ったり、または 針等により電気的歪(ひず)みを調整して自律神経の調整を図ったり、その他いずれも外科的手術や薬理作用によらず、自律神経調整を主にして自然治癒力を引 き出し、‘現象界の範囲内での根本的’な方法によって元から治そうとする流れがある。
鍼灸、整体、カイロプラクティック、ホメオパシー、オステオパシーか ら足ツボ、気功、波動共鳴まで攻撃的近代西洋医学以外にも代替療法と呼ばれる実に様々な手法が地球惑星には存在する。これらの真偽と効果は別稿に譲るとし て、これら言わば‘現実的’方法による治療の他に、ここで述べるのは心霊や神の名のもとに治療する所謂霊能者、祈祷師、拝み屋等の特殊能力者や宗教教団等 によるものの背後についてである。
さて、先回(第14回『神々の正体(その2)』において、題目、御利益、平和の祈りに共通する邪神邪霊の画策は、想念波動とその作用を隠蔽して、 さも善を勧めるかの如く、九割は正しき神々、善霊の説く真理を盗略して説いて、残り一割で肉体人間の我欲に付け込み欲を煽り、また善男善女の正義の心を逆手にとって咎め、憎悪、怒り、攻撃、非難、誹謗などの悪想念を放散させることが狙いであると既述した。
この狙いは邪神・邪霊が背後で暗躍する場合、「病気 治し」を標榜する団体や個人の背後にも共通して見て取れる。 ただし、冒頭に述べたように、我と自己欲の縮小、放擲を説かずに病気治しを掲揚して信者を集める地球の神々等の邪なものや低いけれども善なるものなど様々にあって識別を要するのである。
邪な者には「この宗教、この教え、この神に縋(すが)れば病気は治る」と言う教団、霊能者、祈祷師など巷には様々在るが、この「縋れば治る」とい うのは「信じろ」「素直になれ」といって題目や祈りで信者の我善しの利己心を煽るものと同義である。我欲の放擲を説かずして、縋れば治るとは先の
「冷水に 身を置きて温かきを乞い願うが如し」である。
肉体人間として存命中に誤った想念波動を慢性的、継続的に起こし、その想念波動との共鳴により自ら 呼び寄せた邪霊や暗黒の境涯にある霊魂が肉体人間の波動に干渉して生命波動を攪乱し、やがて物質である肉体にもその波動の汚濁が具現化して細胞レベルで変 容を起こした状態を病変、病気と呼んでいるのである。真の根本治療とはこの汚濁の想念波動の浄化であり、また浄化のためにはこの‘根っこ’である我と欲の 制御即ち利己心の制御が必要であり、病気はそのために必要な切っ掛けであるにもかかわらず、我欲の放擲を説かずして力尽くで邪霊を追い払い、治ったように 化粧させるのは邪神の手管(てくだ)である。
その病者が誤った観念を堅持したり誤った想念波動を永年にわたり発した結果、邪霊や肉体人間に縋って助けを求める霊魂と同調して、一なる大愛から享ける全 き生命波動を攪乱し、反応が鈍重に仕組まれていて変化に時間を要する三次元物質(肉体)に、やがて病変となって顕われるのである。
病は、優良惑星へ帰還する切符である利己心の制御・克服を一念発起させ、反省を促すための起爆剤なのである。そういう意味では邪霊は、その者が優良惑星に帰還する手伝いを図らずもしていることになる。
ただし、己の観念や想念波動の使用方法のどこにどう誤りがあるのか反省して目覚め、己のエゴを打ち捨てる進化をする建設的方向にある時、結果的に‘手伝い ’になるのであり、「冷水に身を置きて温かきを乞い願う」時は、結果的に邪霊は災いの触媒となって更に不幸を呼び込むのである。善きにつけ悪しきにつけ感 謝すべしというのはここにも当て嵌まるのである。
早う気付いた人民から救いの船を出してくだされよ。損もよいぞ。病気もよいぞ。怪我もよいぞ。それによってメグリ取って頂くのぞ。メグリなくなれば日本晴れぞ。今がその借銭済ましぞ。世界のメグリおおきいぞ。
現在の環境を甘受せよと申してあるが、甘受だけでは足らん。それに感謝せよ。積極的に感謝し、天地の恩に報じねばならん。
根元の誤った観念や想念波動を正さず、邪神の力で邪霊や縋り憑くいわゆる未成仏霊を引き離しても、別の邪霊や未成仏霊を引き寄せ、一旦治まった病も再発、または病勢が増悪して執拗に何度も現れるのである。
汚物にたかる蝿をいくら追い払っても、汚物を除去しない限り、次から次へと種類の異なる蝿が寄ってたかってくるのである。この汚物の除去を説かず、蝿を追 い払う愚昧に陥らせ、神仏の名を騙り尤もらしく繕って、悩める病者、患者を掻き集める宗教教団の背後は邪神である。利己心は棚上げしたまま、とにかく治し て欲しい一心の病者、患者、信者は納める金子(きんす)に比例して治癒の霊験もあらたかに違いないと幹部に言われるまま大金を奉納するのである。こうして 教団はまたも全国からせしめた大金で大本山や伽藍を建立して教勢を世間に誇示するのである。この大本山や大伽藍という虚仮威(こけおど)しに目暗ましに あった欲深で哀れな病者が次から次へと食い物にされていくのである。邪神の力で邪霊等を追い払い一時的にも治まるなら(最終的には悲惨な結果となっても) まだしも、全く‘霊験’とやらが現れず改善の兆しもない場合が殆どである。それでも一度心に植え付けられた誤った観念は洗脳の如く病者を教団に縋りつかせ 続けるのである。唯物主義者を含めて周囲の善意の者が諌めても、幹部のセリフや強弁を復唱するかのように‘教理’を吐いて頑として受け入れないのである。 この頑迷固陋も邪神に付け入られたためであるが、そもそもはその者の我と欲の強さが原因である。また我と欲の強さで誤った想念を起こしたことにより病気を その身に具現化したのである。 症状の軽い病気から重篤な疾患まで日常茶飯事に発生し、病院、薬局が犇(ひし)めく不良惑星では病気に罹患する事は当たり前で、不良惑星人の一生 のうちに病を経験しない者はいないといっても過言ではない。宇宙間の優良惑星には病は発生せず、病が発生しないため病院もない。我欲なきが故に想念波動に 誤りなく、想念波動に誤りなきが故に環境は良く保たれ、当該惑星に生きとし生けるもの全てが共生かつ共栄し、食も正しく同朋である動物を「食べ物」と捉え ていないため、彼等を殺害してその肉片や臓物を食すことは決してなく、邪なる四次元の低き存在の干渉なく、すべてが歓喜の内に弥栄するのである。この優良 惑星人の視点から地球惑星人始め不良惑星人の社会を見るとき、我欲を欲しいままにして病、不幸を自ら呼び込み、その苦痛に顔をゆがめて、不平と恨みと嘆き に打ち伏して、唯物的病院や背後は邪神とも知らず唯心的宗教に助けを求め、病院も教団も益々栄える構図は大変不思議なものに映るのである。不良惑星人も、 自ら首を絞めて「苦しいぞ、馬鹿野郎!」と叫んでいる狂人の様子を見たなら首をかしげるではないか。優良惑星人の目には、不良惑星人の病む様子が、この自 ら首を絞めてのた打ち回る姿として映ると共に、そこに深い哀しみを覚えるのである。 更に巧妙な邪神の手管は、この書物を読めば病気が治ると広言し、その書物に「病は心の影です。」「病気を心に描くと病気になるのです。」「常に思うことが成就するのですから、病気を恐れる心が病気にするのです。」などと著わすものである。
半ばもっともらしく聞こえるが、幾ら不良惑星人であっても、故意にそして常に病気を心に描いていることはないし、実際に病気を心に描いて自ら望んだ病気に なることは極めて少ない。寧ろその逆で、常に病気を心に描かず、常に病気に対して恐怖しないにもかかわらず、病気になる者の方が圧倒的に多いのが現実であ る。
このようなケースに対してこの‘教理’は「常に思い描かず、常に思わなくても病気を恐れる心があれば常に病気を心に描いたのと同様の作用が あって、心に描く、または恐怖した通りの病気が現れるのです。」と主張する。しかし、不良惑星人の全てが病気を恐れてはいないし、寧ろ病気になって初めて 事の重大さに恐れ慄(おのの)くわけであるから順番が逆である。また、常に病気を恐れて暮らす惑星人の方が圧倒的に少なく、常に病気を恐れて暮らすのは既 に症状やその兆候が現れた者であろう。 すると‘教理’は「表面意識で描き恐怖しなくても、潜在意識が描き、恐怖しているのです。例えば病気を恐れさせるようなチラシ、宣伝、解説書、注 意書のような印刷物や放送番組などを視聴することは日常的に起こりますよね。この時潜在意識には恐怖の思いが暗示されて、視聴した事さえ忘れた頃に暗示が 効力を発して、恐怖したとおりに病気が発生するのですよ。」という。こうした理屈を全て否定するつもりはない。極々僅かながらこのような患者は存在するの である。しかし、不良惑星の特に文明圏に住む者達は常に病気に対して恐怖する念を抱かせる情報に晒されており、文明人はこれらの情報によって常に疾患症状 を呈していなければならないことになる。医師、看護士、治療家にあっては患者という正に生きた病気の実例に日々接しているのだから、彼等は軒並み病に倒れ ていかねばならないことになるではないか。このように暗示によって病気になると主張するなら、文字や言葉を理解しないばかりか、病気になる前には決して病 気を意識さえしない動物達は如何にして罹患するというのか。 こうした教団の信者も事実上多くの病に罹患して、実際には信者の大方が医薬、医術の世話になるという事実と「病気は心の作用」「病気は心の影」という‘教理’との板ばさみになって困惑して迷うのである。
この‘教理’は暗示による心の作用を前面に押し出して、想念波動の共鳴を覆い隠しているのである。
想念波動を隠蔽すれば、その根源である我欲放擲の重要性、必要性も自ずと隠蔽できるためである。想念は言葉を介さずして共鳴、作用する波動であり、言葉による暗示とは全く異なるのである。
また、地球の優良惑星への次元上昇の必要条件である我欲の放擲を説かず、我欲を根にして発せられる想念波動の制御を、心の作用という暗示レベルの話に摩り 替えたその背後が何者か推して知るべしである。「想念波動も精神の問題、暗示も精神の問題。」と広義では一見同じカテゴリーに属する類似性を利用して、我 欲の放擲と想念波動の制御の必要性、重要性の前面に「心の作用」「暗示」というブロックを立てて、我欲の放擲に衆人の思いが及ばぬように謀ったのである。 ただし、この「病気本来なし」というその意味が真理を捉えての事なら何ら反論はない。即ち、病気は絶対的悪ならぬ「悪」、≪御用の悪≫であり、特 に進化の次なるステージを優良惑星とする不良惑星人最大の課題である我と利己欲を打ち捨てる必要性を気付かせる試金石である。病気も根源的神すなわち大愛 の働きの現われの一つであり、「悪」即ち≪御用の悪≫なのであり、我欲を打ち捨て去る時、決して顕われることのない悪なのである。 現象界は相対的に仕組まれた次元である。善のみでは何も進展せず無と同じこととなり、悪のみでもまた無と同様なのである。故に、創造の大愛は悪を 取り除こうとはせ給わず、悪を悪として正しく生かし給うのである。善を創り力を生み出すところに悪の存在意義がある。過去の記事で度々言及してきたように 勧善懲悪は物質的及び平面科学的に生きる傾向が強い不良惑星人の陥る誤謬の想念である。悪あればこそ弥栄するのである。
病気は現象としては確実 に存在するが、飽くまで現われであり、絶対としては、即ち本質的には存在しない御用の悪なのである。しかし、相対世界である三次元地上においては病気は現 象として確実に存在するのである。我欲の惑星人の棲息する各不良惑星には現象として顕われなければならないものなのである。我欲の放擲を促す反省の対象物 としてその存在意義を有するのである。
よって病気も不幸も心の作用により齎される一面もあるが、これを金科玉条の如く前面に掲げて、その後ろにある真実、即ち我欲放擲の重要性を包み隠したところがこの邪神の狡猾な手管であった。 この教団が説く「病気本来なし」の意味するところは、真理である悪の存在意義を踏まえた「病気本来なし」ではなく、「無いと思えば無い」と病気は 暗示で全て治るかの如く信者を倒錯させる、余りにも唯心に偏った盲目的教えである。病気は絶対悪として実在しないが相対即ち≪御用の悪≫としては存在しな ければならないものである。≪御用の悪≫は善をつくり生み出すためのもの、即ち我と利己欲を打ち捨て、我欲に覆われて埋もれた利他愛を再び己の中に見出す ための悪である。無いといくら思えども、その者に我欲ある限り、そのエゴを諌めるために病気は「顕われて在る」のである。この手の教団の教説のような「病 気は無いと想えば病気は治る」や「この本を読めば病気は治る」では、暗示で治る範囲の病気以外は決して治ることはない。 暗示で治る範囲の病気に関して言及すると、地球には士気を鼓舞するという言葉があるように、気持ちが萎えたり怖気づいたりして身体が動かない時で も士気を高揚してやると、その気持ちに反応して動かなかった身体が動くことがある。戦時中に、弾丸が腹をかすめた程度の負傷でも異常な精神状態の中、「撃 たれた!」と思うや否やへなへなと地面に座り込んでしまった歩兵に、衛生兵が「瞬く間に止血して傷を治す妙薬」と偽って歯磨き粉を塗り込むと忽ち立ち上が るのもそうである。身体のどこかを何かにぶつけて痛がる小さな子供に母親が「痛いの痛いの飛んでけー」というと泣き止むのもそうである。端的に言えば、病 気は無いと思えば無い、治る」は「痛いの痛いの飛んでけー」と何ら変わりはない。 悪の存在意義を腹に落とした上で、「病は本来ない」のであるが、我欲、エゴに気付きを与えるために「悪」として現われる神の働きとして、病気は 「きちんと働いて」いるのである。真の根本治療は我欲の放擲であることは繰り返し述べてきたが、これを何度転生しても尚クリアできなかった難題としている 不良惑星人は、その心に惰性、慣性があり「余程大きな衝撃」が加わらない限り方向転換、即ち改心することは中々に難しいのが現実である。「余程大きな衝 撃」の一つが落命の危険を孕(はら)んだ重篤な病なのであるが、大方はこれでも尚も改心できず肉体を失うのである。
人民というものは、奇跡見ても、病気になっても、中々改心出来んものぢゃ。
死後の生活がハッキリ判っても、未だ改心出来んのぢゃ。
それは外からのものであるからぢゃ。
マコトの改心は、中の中のゝのキ頂いて、ホッコンの改心出来ねばならん。
(ホッコン=根本) そこで大方の惑星人は医薬の力に頼ることとなる。
それでうまく落命は回避しても慢性化したり、後遺症を残して一生不定愁訴に苦しんだり、治ったと は言えないものの症状が出ていない寛解期の中、再発に怯えて暮らすなど、これもまた中々気の毒な状態が継続する。が、現象界に命あっての改心である。
本シ リーズ第1回及び第2回の想念作用の項で既述したように、記憶という情報を記録・再生できる脳がある地上生存中に様々な地上体験を経て成長しなければなら ない。肉体を失って後の時間の経過がない四次元での改心は地上に在るときに比べて桁外れに遅々として進まない。医薬を奨励するつもりは毛頭ないが、急を要 する場合、現象界の現実的対応をせねばならないのは言うまでもない。
肉体生命あっての改心の機会である。あらゆる方法を良く吟味して治療に努め ねばならない。地上には地上の治療方法があるのである。治療というと大方の現代人は即座に近代西洋医学的それを想起するが、いずれの不良惑星においても、 文明の末期に向かって必ず台頭する唯物思想を背景に幅を利かせた治療方法というだけで、地上に存在する一治療法でしかないことを忘れてはならない。現にそ の根本的理論において大きな誤謬を抱えた学門なのである。
動物実験を経て開発された医薬もやはり大愛に逆行するため根本の癒しや治療には繋がら ない。
薬物療法は対症療法であり、症状を消すことはあっても根治にはならない事は今ではもう一般に広く認知されている。
代替療法として連綿と続いてきた治 療法は主に自然治癒力を引き出して治病へと導くものであり、攻撃的かつ短絡的かつ近視眼的かつ局部的視野に立つ現代医学に比してより自然な方法であることが多い。
病気や細胞のみを見ている近代西洋医学と人間そのものをみている代替医療の違いである。近代西洋医学は正に木を見て森を見ずである。だからといって、代替医療も胡散臭いものから見事な治療家まで玉石混交なので注意と研究が必要である。
そもそもは病に罹患しないことが肝要である。精神(我と利己心の放擲)と物質(食を正すことを中心とした肉体のケア)の両側面に注意を払うことである。
我欲の放擲を課題として物質界に存在するなら、道具である物質(肉体)もきちんと管理せねばならないのは当然である。
この後紹介する<革新の生命医学『千島学説』>を知れば、現代人の病の原因を(飽くまで波動には言及せず、物質的生物的病理の範囲内で)遡れば、 殆どが血の汚れに見出される。
その血の汚れは赤血球の変異のことであり、そしてその変異は間違いなく食の乱れに起因する。その大なる原因は肉食にあること は今更言うまでもない。
ウイルスなど外的要因によってもたらされたかの如く映る病変も、外部からの侵入を迎え撃つ人体防御の脆弱さがそもそもの原因であ る。朝から晩まで菌、ウイルスに晒されない瞬間など、日常生活ではないのである。「入られても悪さをさせない、力を出させない」ことである。
病の原因が今生になく、前の世、前々の世からの因果も絡んで、病弱、虚弱体質であったり、身体に不具のある場合も当然ある。これはこれでその本人 もその親もまたはその子も愛念をもって何とか改善しようと様々に東奔西走するであろう。その中で本人もその家族も友人知己も、それぞれに相応しいそれぞれ の学びがあり、生活様式が菜食となったり、精神世界の妙に触れたり、健常者にはわからぬ気付きや悟りを得て結果的に建設的方向に向かうことも往々にしてあ るのである。人の世の禍福は糾(あざな)える縄の如しである。弱き者の心を知る者が真の勇者である。今生限りの利害得失に呪縛されてはならない。
さて、過去の記事で何度も言及してきたように弟妹である動物を殺害して、その肉片や臓物を食する‘豊かな’食文化を是認している残酷な行為は、愛 なき想念波動に支持されてのことであり、愛なき想念波動は我欲と利己(エゴイズム)からもたらされ、これらは大宇宙を経綸下にしろしめす一なる根源的神、 即ち大愛に逆行するが故に、その大愛の全き生命波動を遮断した、弟妹を殺害して食すその身に不調や病変を来たすのは当然である。
反対に大愛にかなった食のあり方、即ち人類同様に進化の道程を歩む動物等を慈しむ想いの反映として穀菜食かつ小食というあり方であるならば、大愛に逆行することがないため、その身に重篤な病の発生はないのも当然である。
ただし、同じ穀菜食と言えども、動物という人類の弟妹らに対する利他愛による慈愛と守護進化から乖離した「我善しの健康志向」は利己心であり、そ の身に病を顕しても不思議ではない。しかし、想念、思念が霊質に即効的に反映する四次元とは異なり、反映が鈍重な物資世界において、物質には物質の法則が 強く作用する。よって、仮令(たとえ)利己心から行なう穀菜食であっても、生物的病理における血を汚す要素は肉食に比して圧倒的に少ないため、その者の罹患率も低くはなるのである。
何れにせよ、仮令、肉食をせず穀菜食を貫こうとも、別の点においては利己心、利己欲を堅持し、想念波動に歪み、乱れ、汚濁の多い者は、何かしらの 疾患症状をその身に呈するか潜在させて抱えるのである。宇宙間の優良惑星人に疾患無きを想うべし。優良惑星社会に医療機関、医薬の存在せざるを想うべし。 故に「我善しの菜食主義」を単なる‘健康ヲタク・ベジヲタク’と揶揄するのである。
菜食は、生物種を超越した利他愛の表現として自ずと選択される 食のあり方であるのが望ましいのである。我欲の不良惑星にあって、弟妹らに向ける慈愛から、菜食を旨とし実行するベジタリアンを優良惑星人が頼もしく想 い、より一層親しみを感じるのもまた当然である。
ただし、入口が‘利己的な健康ヲタク’であっても、菜食をよりよく実践しようと研鑚する中で、 家畜としておとしめられた動物達の悲惨な現状を知り、思い及んで更に情報を集めて学び、利他の心に目覚める事はこの時代には珍しいことではなくなってき た。無関心が興味に、無知が有識に変わった事で、初発は「我善し」という利己であっても、その仮面を脱ぎ捨てて利他へと変容して行くのである。
利他へと向 かいつつある悪は悪ならず。≪悪を抱き参らせ≫たのである。
悪は≪許されていはいるがそれは絶えず浄化し、弥栄すればこそである。浄化し弥栄し行く悪は悪でなく、偽は偽でない。動かざる善は善でなく、進展せぬ真は真でない。≫全ては流転して留まることはないのである。
悪も神の働きと申すもの。悪にくむこと悪ぢゃ。
善にくむよりなお悪い。何故に判らんのか。
因みに、特に米国では2005年現在で国民の70%弱が代替医療(カイロプラクティックやアキュパンクチャー(針治療)は勿論ホメオパシー、オス テオパシー、アロマセラピー、足ツボから気功まで近代西洋医学以外の様々な治療法)を選択したことがあると答えている。
近代西洋医学のメッカである筈の米 国や欧州から近代西洋医学に対する‘迷信’‘盲信’は崩壊してきている。
この潮流は地球惑星全土に今後も拡大していくであろう。
近代西洋医学は大病院に高額な検査機器等を配備して進化してきたように見えるが、その歴史の中で進化したのは、患者に負担の少ない新しい術式の開 発、危険な術式の廃止、検査機器、診断機器のテクノロジーであり、唯物論的、近視眼的、部分的、分割的、攻撃的理論は旧態依然としたままである。
相も変わ らず切る、焼く、潰す、散らす、症状を消す(誤魔化す)発想の延長にある。ここにも利権に群がる蟻や「寄らば大樹の蔭」の如き姑息な鼠が自己保身に奔走し て巨視的生命医学の発展を阻んできたことも近代西洋医学が今日まで主流として、また正統であるかの如き錯覚を伴って生き残った原因である。
しかし、地球の有する惑星波動が高まりつつある中、根本的には治らない近代西洋医学に愛想を尽かし、近代西洋医学膝元の国々の国民の中から神話が崩れ、その国民らは自らの自然治癒力を信じて、自律神経の調整を以って自然治癒力を引き出す代替医療に向かうのである。
食のあり方においても、肉食中心の西洋的食事のあり方が崩壊し、菜食が健康法として既に揺るぎない市民権を得ているのは、元来菜食傾向の強かった 日本国においてではなく、肉食を中心としてきた欧米においてであるのは、近代西洋医学神話の崩壊と同じ潮流の中に起こっているからである。
「医」と「食」は切り離して考えられないのだから、近代西洋医学神話の崩壊の後を追うように肉食否定の潮流が起こることは不思議ではない。
特に戦後の日本国は欧米の機械論的文明の模倣が先進的であると精神まで骨抜きにされ、日本古来の食文化も破壊され、弟妹らの死肉を貪る誇りなき外 道に堕してしまった。爾来、欧米で起こる潮流が遅れて日本に到達する構図の中、欧米で既に起こった代替療法を見直す認識は日本国にも今後波状的に拡大して いくことは間違いない。
現に日本国内でも機械論的唯物的近代西洋医学の牙城であるはずの大学病院のいくつかが代替療法を治療方針の柱に据えるほど‘大胆な’転換を始めているのである。
近代西洋医学の誤謬を突いた『千島学説』の内の一つ、「腸造血説」はこの潮流の中で徐々にそして見事に証明されるであろう。腸造血説の一般認識が進むことにより、その元となる食のあり方が根本から見直され、肉食の完全否定と菜食が当たり前の世となるであろう。 従来のように「食を見直す」と言いながら、結局のところ「肉も野菜も何でもバランスよく食さねばならない」に終始するバランス論(弟妹らの悲痛な 叫びにも「仕方ない」の一言で耳を塞ぎ、惨殺してまでその死肉を貪りたいという賤しきエゴを聞こえよく表現したバランス論)ではなく、人間の身体の機構と 精神の滋養も含め、人間にとって相応しい食材とは何かもはっきりと示されよう。「何でも食べて」いては病気になるのである。
そして単に医学的見地からの肉食の非ではなく、種を超えた生命倫理上の、また想念波動の理解を得た利他愛に基づく肉食の廃絶へと発展していくであろう。 ただし、『間に合えば』の話である。その惑星人が共に進化の道程を歩むべき弟妹らの他殺死体を貪り食っている限り、優良惑星化を果たす地球に残る ことも、そこに再び転生することも決してない。そして、その惑星人がどこに転生しようとも、我欲の我善しである限り、その転生先惑星は不良惑星に他なら ず、その身に病苦の絶えることも断じてない。
さて、宗教や地球の神々、神仏とは何の関わりも無く正義感強く、肉体人間の幸福のために癒しを行なおうとする善霊達の中には、憑かる肉体人間を通じて、世に言う奇跡的治療を施す存在もある。
真偽、正邪はあるものの、心霊手術と称するものもその一つである。
九割以上が「手品」「詐術」による‘インチキ’であるが、元となった真の奇跡的心霊手術 を模倣した自己顕示欲の強い者や詐欺的金儲けの為のものである。
模倣の元となった奇跡的心霊手術の背後は四次元の高い位置にはないが、正義感の強い背後善霊であった。
正神に奇跡はなく、高き存在ほど啓示的となっていくことからも判断できるとおり、奇跡的心霊手術は大宇宙の順当な運行法則を捻じ曲げた波動により齎されるものである。
本来の「病気治し」、癒しの道の施与は、その患者なり病者の病が如何なる心の誤った性癖から生じたものかを説き分け、その者の心を正させることによって病気の平癒、治癒に導こうとする事こそ最上の方法なのである。病の根本原因が我と利己欲から惹起する道理と病の存在意義を≪御用の悪≫と知るなら ば、その病を‘頂いた’者に我欲の放擲の道を示すのは当然である。これは正義と愛をその人格に内包した施術者とその援護を為す背後善霊でなければ出来ない ことである。
大愛、大霊の順当な波動を捻じ曲げて、心霊的手術で患部を治癒する行為は最上の方法ではないが、そこに愛があるかどうかで判断は変わる。正義感だけでは世は乱れるのである。
また、この見分けはその見事な術の割には、施術者の要求する報酬が極めて少ないことが特徴である。(だからといって、施術者の寡欲(欲が少ないこと)や背後善霊の無私をいいことに報酬を値切るような事をしてはならない。)
その他、こうした奇跡的に映る霊力による治療は心霊手術と同じく確かに存在するが、既述の如く背後に邪なものを抱えた者も多く、また真偽も定かでない便乗ビジネスが多いので注意が必要である。
霊力による病気治しは、そこに些かなりとも「心を正せ」「我欲を捨てよ」に相当する我欲放擲により病者を癒そうとする諌めや戒めがあるならば、最上の方法ではなくとも四次元の存在にしては比較的高いものである。
そして、往々にしてこの傾向の施術者の諌めや戒めや諭しの言は病者にとって耳に痛いものである。我欲あるが故に症状を呈しているのであるから、己も気付き 得なかった驕りや心の誤った性癖やエゴをポキンと折られてムッとするのである。その心こそ「我」である。その我が病へと導いたのである。
ここで注意しておきたいのが、こうした病気治しもあるという事実とその背後の存在に関して言及したのであり、霊力による治療を奨励するわけでは決してない。本来、奇跡や神頼みで病気を治療しようとしないことである。
本日これまで。
シリーズ『シルバーバーチャル星人の生活』
第16回吾、吾にして既に吾に非ずへ
先回の最後に「病気治し」を標榜するものには宗教教団である場合から心霊手術や宗教とは言えぬものまで裾野が広いと記したが、単に裾野が広いだけでなく、その内容に関して言えば、「病気治し」を標榜するものの背後の‘神々’は真偽、正邪、高低、正否が入り乱れて、その正体を見破るのは容易ではな い。
「病気治し」に関しては、高邁な真理を解くことはない(できない)低い次元の存在が背後に在っても、そこに正義感や愛念が見られる場合もあ り、反対に高邁で普遍的真理を説く高級霊が背後に在って援護する場合でも、対象となる肉体人間の進化のため敢えて病気を治さないこともあるため、病気が治 る治らないという視点だけで判断しがちな肉体人間からしてみれば理不尽に感じることもある。
ケロリと治っても、実は邪神が邪霊を取り除いて欺いている場合 もある。
この事を踏まえて、今回(第15回)では、「病気治し」の背後の真偽判別の原則を記して大方の参考に供する事ができればと思う次第である。
宇宙間の不良惑星はいずれの惑星においても、病が多種多様に発生し、惑星人の病苦が絶えることなく、それを治療しようとする医療機関が存在するものである。地球惑星も例外ではなく、その治病方法には大別して、所謂近代西洋医学に基づく現代医学的方法論により「病変した患部」を切る、焼く、貼り付け る、縫い合わせるなどして除去してしまう発想及び薬理作用のある物質を服用する、貼付や塗布して経皮吸収する、吸引する、血管に注入するなど医薬の化学反 応で目先の症状を一旦沈静化させ、その間にうまくすれば自然治癒力が何とか治すだろうとする方法など、根本原因に手を加えることなく
‘外力’で攻撃的に治そう(または治ったようにしよう)とする流れと代表的には人体の骨格的歪(ひず)みの調整により神経圧迫を取り除き主に自律神経の調整を図ったり、または 針等により電気的歪(ひず)みを調整して自律神経の調整を図ったり、その他いずれも外科的手術や薬理作用によらず、自律神経調整を主にして自然治癒力を引 き出し、‘現象界の範囲内での根本的’な方法によって元から治そうとする流れがある。
鍼灸、整体、カイロプラクティック、ホメオパシー、オステオパシーか ら足ツボ、気功、波動共鳴まで攻撃的近代西洋医学以外にも代替療法と呼ばれる実に様々な手法が地球惑星には存在する。これらの真偽と効果は別稿に譲るとし て、これら言わば‘現実的’方法による治療の他に、ここで述べるのは心霊や神の名のもとに治療する所謂霊能者、祈祷師、拝み屋等の特殊能力者や宗教教団等 によるものの背後についてである。
さて、先回(第14回『神々の正体(その2)』において、題目、御利益、平和の祈りに共通する邪神邪霊の画策は、想念波動とその作用を隠蔽して、 さも善を勧めるかの如く、九割は正しき神々、善霊の説く真理を盗略して説いて、残り一割で肉体人間の我欲に付け込み欲を煽り、また善男善女の正義の心を逆手にとって咎め、憎悪、怒り、攻撃、非難、誹謗などの悪想念を放散させることが狙いであると既述した。
この狙いは邪神・邪霊が背後で暗躍する場合、「病気 治し」を標榜する団体や個人の背後にも共通して見て取れる。 ただし、冒頭に述べたように、我と自己欲の縮小、放擲を説かずに病気治しを掲揚して信者を集める地球の神々等の邪なものや低いけれども善なるものなど様々にあって識別を要するのである。
邪な者には「この宗教、この教え、この神に縋(すが)れば病気は治る」と言う教団、霊能者、祈祷師など巷には様々在るが、この「縋れば治る」とい うのは「信じろ」「素直になれ」といって題目や祈りで信者の我善しの利己心を煽るものと同義である。我欲の放擲を説かずして、縋れば治るとは先の
「冷水に 身を置きて温かきを乞い願うが如し」である。
肉体人間として存命中に誤った想念波動を慢性的、継続的に起こし、その想念波動との共鳴により自ら 呼び寄せた邪霊や暗黒の境涯にある霊魂が肉体人間の波動に干渉して生命波動を攪乱し、やがて物質である肉体にもその波動の汚濁が具現化して細胞レベルで変 容を起こした状態を病変、病気と呼んでいるのである。真の根本治療とはこの汚濁の想念波動の浄化であり、また浄化のためにはこの‘根っこ’である我と欲の 制御即ち利己心の制御が必要であり、病気はそのために必要な切っ掛けであるにもかかわらず、我欲の放擲を説かずして力尽くで邪霊を追い払い、治ったように 化粧させるのは邪神の手管(てくだ)である。
マコトの信仰を得て霊的に病気を治すのは、一瞬には治らんぞ。
奇跡的に治ると見るのは間違い、迷信ぞ。
時間も要り、手数も要る。
物も金も要る。大き努力要るのであるぞ。取り違い多いのう。
下手をすれば落命にもつながる病を治そうと必死になる心情は当然であるが、その根本原因がどこにあるのかを現象界を超えて思慮せねばならないのである。奇跡的に治ると見るのは間違い、迷信ぞ。
時間も要り、手数も要る。
物も金も要る。大き努力要るのであるぞ。取り違い多いのう。
その病者が誤った観念を堅持したり誤った想念波動を永年にわたり発した結果、邪霊や肉体人間に縋って助けを求める霊魂と同調して、一なる大愛から享ける全 き生命波動を攪乱し、反応が鈍重に仕組まれていて変化に時間を要する三次元物質(肉体)に、やがて病変となって顕われるのである。
病は、優良惑星へ帰還する切符である利己心の制御・克服を一念発起させ、反省を促すための起爆剤なのである。そういう意味では邪霊は、その者が優良惑星に帰還する手伝いを図らずもしていることになる。
ただし、己の観念や想念波動の使用方法のどこにどう誤りがあるのか反省して目覚め、己のエゴを打ち捨てる進化をする建設的方向にある時、結果的に‘手伝い ’になるのであり、「冷水に身を置きて温かきを乞い願う」時は、結果的に邪霊は災いの触媒となって更に不幸を呼び込むのである。善きにつけ悪しきにつけ感 謝すべしというのはここにも当て嵌まるのである。
早う気付いた人民から救いの船を出してくだされよ。損もよいぞ。病気もよいぞ。怪我もよいぞ。それによってメグリ取って頂くのぞ。メグリなくなれば日本晴れぞ。今がその借銭済ましぞ。世界のメグリおおきいぞ。
現在の環境を甘受せよと申してあるが、甘受だけでは足らん。それに感謝せよ。積極的に感謝し、天地の恩に報じねばならん。
汚物にたかる蝿をいくら追い払っても、汚物を除去しない限り、次から次へと種類の異なる蝿が寄ってたかってくるのである。この汚物の除去を説かず、蝿を追 い払う愚昧に陥らせ、神仏の名を騙り尤もらしく繕って、悩める病者、患者を掻き集める宗教教団の背後は邪神である。利己心は棚上げしたまま、とにかく治し て欲しい一心の病者、患者、信者は納める金子(きんす)に比例して治癒の霊験もあらたかに違いないと幹部に言われるまま大金を奉納するのである。こうして 教団はまたも全国からせしめた大金で大本山や伽藍を建立して教勢を世間に誇示するのである。この大本山や大伽藍という虚仮威(こけおど)しに目暗ましに あった欲深で哀れな病者が次から次へと食い物にされていくのである。邪神の力で邪霊等を追い払い一時的にも治まるなら(最終的には悲惨な結果となっても) まだしも、全く‘霊験’とやらが現れず改善の兆しもない場合が殆どである。それでも一度心に植え付けられた誤った観念は洗脳の如く病者を教団に縋りつかせ 続けるのである。唯物主義者を含めて周囲の善意の者が諌めても、幹部のセリフや強弁を復唱するかのように‘教理’を吐いて頑として受け入れないのである。 この頑迷固陋も邪神に付け入られたためであるが、そもそもはその者の我と欲の強さが原因である。また我と欲の強さで誤った想念を起こしたことにより病気を その身に具現化したのである。 症状の軽い病気から重篤な疾患まで日常茶飯事に発生し、病院、薬局が犇(ひし)めく不良惑星では病気に罹患する事は当たり前で、不良惑星人の一生 のうちに病を経験しない者はいないといっても過言ではない。宇宙間の優良惑星には病は発生せず、病が発生しないため病院もない。我欲なきが故に想念波動に 誤りなく、想念波動に誤りなきが故に環境は良く保たれ、当該惑星に生きとし生けるもの全てが共生かつ共栄し、食も正しく同朋である動物を「食べ物」と捉え ていないため、彼等を殺害してその肉片や臓物を食すことは決してなく、邪なる四次元の低き存在の干渉なく、すべてが歓喜の内に弥栄するのである。この優良 惑星人の視点から地球惑星人始め不良惑星人の社会を見るとき、我欲を欲しいままにして病、不幸を自ら呼び込み、その苦痛に顔をゆがめて、不平と恨みと嘆き に打ち伏して、唯物的病院や背後は邪神とも知らず唯心的宗教に助けを求め、病院も教団も益々栄える構図は大変不思議なものに映るのである。不良惑星人も、 自ら首を絞めて「苦しいぞ、馬鹿野郎!」と叫んでいる狂人の様子を見たなら首をかしげるではないか。優良惑星人の目には、不良惑星人の病む様子が、この自 ら首を絞めてのた打ち回る姿として映ると共に、そこに深い哀しみを覚えるのである。 更に巧妙な邪神の手管は、この書物を読めば病気が治ると広言し、その書物に「病は心の影です。」「病気を心に描くと病気になるのです。」「常に思うことが成就するのですから、病気を恐れる心が病気にするのです。」などと著わすものである。
半ばもっともらしく聞こえるが、幾ら不良惑星人であっても、故意にそして常に病気を心に描いていることはないし、実際に病気を心に描いて自ら望んだ病気に なることは極めて少ない。寧ろその逆で、常に病気を心に描かず、常に病気に対して恐怖しないにもかかわらず、病気になる者の方が圧倒的に多いのが現実であ る。
このようなケースに対してこの‘教理’は「常に思い描かず、常に思わなくても病気を恐れる心があれば常に病気を心に描いたのと同様の作用が あって、心に描く、または恐怖した通りの病気が現れるのです。」と主張する。しかし、不良惑星人の全てが病気を恐れてはいないし、寧ろ病気になって初めて 事の重大さに恐れ慄(おのの)くわけであるから順番が逆である。また、常に病気を恐れて暮らす惑星人の方が圧倒的に少なく、常に病気を恐れて暮らすのは既 に症状やその兆候が現れた者であろう。 すると‘教理’は「表面意識で描き恐怖しなくても、潜在意識が描き、恐怖しているのです。例えば病気を恐れさせるようなチラシ、宣伝、解説書、注 意書のような印刷物や放送番組などを視聴することは日常的に起こりますよね。この時潜在意識には恐怖の思いが暗示されて、視聴した事さえ忘れた頃に暗示が 効力を発して、恐怖したとおりに病気が発生するのですよ。」という。こうした理屈を全て否定するつもりはない。極々僅かながらこのような患者は存在するの である。しかし、不良惑星の特に文明圏に住む者達は常に病気に対して恐怖する念を抱かせる情報に晒されており、文明人はこれらの情報によって常に疾患症状 を呈していなければならないことになる。医師、看護士、治療家にあっては患者という正に生きた病気の実例に日々接しているのだから、彼等は軒並み病に倒れ ていかねばならないことになるではないか。このように暗示によって病気になると主張するなら、文字や言葉を理解しないばかりか、病気になる前には決して病 気を意識さえしない動物達は如何にして罹患するというのか。 こうした教団の信者も事実上多くの病に罹患して、実際には信者の大方が医薬、医術の世話になるという事実と「病気は心の作用」「病気は心の影」という‘教理’との板ばさみになって困惑して迷うのである。
この‘教理’は暗示による心の作用を前面に押し出して、想念波動の共鳴を覆い隠しているのである。
想念波動を隠蔽すれば、その根源である我欲放擲の重要性、必要性も自ずと隠蔽できるためである。想念は言葉を介さずして共鳴、作用する波動であり、言葉による暗示とは全く異なるのである。
また、地球の優良惑星への次元上昇の必要条件である我欲の放擲を説かず、我欲を根にして発せられる想念波動の制御を、心の作用という暗示レベルの話に摩り 替えたその背後が何者か推して知るべしである。「想念波動も精神の問題、暗示も精神の問題。」と広義では一見同じカテゴリーに属する類似性を利用して、我 欲の放擲と想念波動の制御の必要性、重要性の前面に「心の作用」「暗示」というブロックを立てて、我欲の放擲に衆人の思いが及ばぬように謀ったのである。 ただし、この「病気本来なし」というその意味が真理を捉えての事なら何ら反論はない。即ち、病気は絶対的悪ならぬ「悪」、≪御用の悪≫であり、特 に進化の次なるステージを優良惑星とする不良惑星人最大の課題である我と利己欲を打ち捨てる必要性を気付かせる試金石である。病気も根源的神すなわち大愛 の働きの現われの一つであり、「悪」即ち≪御用の悪≫なのであり、我欲を打ち捨て去る時、決して顕われることのない悪なのである。 現象界は相対的に仕組まれた次元である。善のみでは何も進展せず無と同じこととなり、悪のみでもまた無と同様なのである。故に、創造の大愛は悪を 取り除こうとはせ給わず、悪を悪として正しく生かし給うのである。善を創り力を生み出すところに悪の存在意義がある。過去の記事で度々言及してきたように 勧善懲悪は物質的及び平面科学的に生きる傾向が強い不良惑星人の陥る誤謬の想念である。悪あればこそ弥栄するのである。
病気は現象としては確実 に存在するが、飽くまで現われであり、絶対としては、即ち本質的には存在しない御用の悪なのである。しかし、相対世界である三次元地上においては病気は現 象として確実に存在するのである。我欲の惑星人の棲息する各不良惑星には現象として顕われなければならないものなのである。我欲の放擲を促す反省の対象物 としてその存在意義を有するのである。
よって病気も不幸も心の作用により齎される一面もあるが、これを金科玉条の如く前面に掲げて、その後ろにある真実、即ち我欲放擲の重要性を包み隠したところがこの邪神の狡猾な手管であった。 この教団が説く「病気本来なし」の意味するところは、真理である悪の存在意義を踏まえた「病気本来なし」ではなく、「無いと思えば無い」と病気は 暗示で全て治るかの如く信者を倒錯させる、余りにも唯心に偏った盲目的教えである。病気は絶対悪として実在しないが相対即ち≪御用の悪≫としては存在しな ければならないものである。≪御用の悪≫は善をつくり生み出すためのもの、即ち我と利己欲を打ち捨て、我欲に覆われて埋もれた利他愛を再び己の中に見出す ための悪である。無いといくら思えども、その者に我欲ある限り、そのエゴを諌めるために病気は「顕われて在る」のである。この手の教団の教説のような「病 気は無いと想えば病気は治る」や「この本を読めば病気は治る」では、暗示で治る範囲の病気以外は決して治ることはない。 暗示で治る範囲の病気に関して言及すると、地球には士気を鼓舞するという言葉があるように、気持ちが萎えたり怖気づいたりして身体が動かない時で も士気を高揚してやると、その気持ちに反応して動かなかった身体が動くことがある。戦時中に、弾丸が腹をかすめた程度の負傷でも異常な精神状態の中、「撃 たれた!」と思うや否やへなへなと地面に座り込んでしまった歩兵に、衛生兵が「瞬く間に止血して傷を治す妙薬」と偽って歯磨き粉を塗り込むと忽ち立ち上が るのもそうである。身体のどこかを何かにぶつけて痛がる小さな子供に母親が「痛いの痛いの飛んでけー」というと泣き止むのもそうである。端的に言えば、病 気は無いと思えば無い、治る」は「痛いの痛いの飛んでけー」と何ら変わりはない。 悪の存在意義を腹に落とした上で、「病は本来ない」のであるが、我欲、エゴに気付きを与えるために「悪」として現われる神の働きとして、病気は 「きちんと働いて」いるのである。真の根本治療は我欲の放擲であることは繰り返し述べてきたが、これを何度転生しても尚クリアできなかった難題としている 不良惑星人は、その心に惰性、慣性があり「余程大きな衝撃」が加わらない限り方向転換、即ち改心することは中々に難しいのが現実である。「余程大きな衝 撃」の一つが落命の危険を孕(はら)んだ重篤な病なのであるが、大方はこれでも尚も改心できず肉体を失うのである。
人民というものは、奇跡見ても、病気になっても、中々改心出来んものぢゃ。
死後の生活がハッキリ判っても、未だ改心出来んのぢゃ。
それは外からのものであるからぢゃ。
マコトの改心は、中の中のゝのキ頂いて、ホッコンの改心出来ねばならん。
それでうまく落命は回避しても慢性化したり、後遺症を残して一生不定愁訴に苦しんだり、治ったと は言えないものの症状が出ていない寛解期の中、再発に怯えて暮らすなど、これもまた中々気の毒な状態が継続する。が、現象界に命あっての改心である。
本シ リーズ第1回及び第2回の想念作用の項で既述したように、記憶という情報を記録・再生できる脳がある地上生存中に様々な地上体験を経て成長しなければなら ない。肉体を失って後の時間の経過がない四次元での改心は地上に在るときに比べて桁外れに遅々として進まない。医薬を奨励するつもりは毛頭ないが、急を要 する場合、現象界の現実的対応をせねばならないのは言うまでもない。
肉体生命あっての改心の機会である。あらゆる方法を良く吟味して治療に努め ねばならない。地上には地上の治療方法があるのである。治療というと大方の現代人は即座に近代西洋医学的それを想起するが、いずれの不良惑星においても、 文明の末期に向かって必ず台頭する唯物思想を背景に幅を利かせた治療方法というだけで、地上に存在する一治療法でしかないことを忘れてはならない。現にそ の根本的理論において大きな誤謬を抱えた学門なのである。
動物実験を経て開発された医薬もやはり大愛に逆行するため根本の癒しや治療には繋がら ない。薬物療法は対症療法であり、症状を消すことはあっても根治にはならない事は今ではもう一般に広く認知されている。
代替療法として連綿と続いてきた治 療法は主に自然治癒力を引き出して治病へと導くものであり、攻撃的かつ短絡的かつ近視眼的かつ局部的視野に立つ現代医学に比してより自然な方法であることが多い。
病気や細胞のみを見ている近代西洋医学と人間そのものをみている代替医療の違いである。近代西洋医学は正に木を見て森を見ずである。だからといって、代替医療も胡散臭いものから見事な治療家まで玉石混交なので注意と研究が必要である。
そもそもは病に罹患しないことが肝要である。精神(我と利己心の放擲)と物質(食を正すことを中心とした肉体のケア)の両側面に注意を払うことである。
我欲の放擲を課題として物質界に存在するなら、道具である物質(肉体)もきちんと管理せねばならないのは当然である。
この後紹介する<革新の生命医学『千島学説』>を知れば、現代人の病の原因を(飽くまで波動には言及せず、物質的生物的病理の範囲内で)遡れば、 殆どが血の汚れに見出される。
その血の汚れは赤血球の変異のことであり、そしてその変異は間違いなく食の乱れに起因する。その大なる原因は肉食にあること は今更言うまでもない。
ウイルスなど外的要因によってもたらされたかの如く映る病変も、外部からの侵入を迎え撃つ人体防御の脆弱さがそもそもの原因であ る。朝から晩まで菌、ウイルスに晒されない瞬間など、日常生活ではないのである。「入られても悪さをさせない、力を出させない」ことである。
病の原因が今生になく、前の世、前々の世からの因果も絡んで、病弱、虚弱体質であったり、身体に不具のある場合も当然ある。これはこれでその本人 もその親もまたはその子も愛念をもって何とか改善しようと様々に東奔西走するであろう。その中で本人もその家族も友人知己も、それぞれに相応しいそれぞれ の学びがあり、生活様式が菜食となったり、精神世界の妙に触れたり、健常者にはわからぬ気付きや悟りを得て結果的に建設的方向に向かうことも往々にしてあ るのである。人の世の禍福は糾(あざな)える縄の如しである。弱き者の心を知る者が真の勇者である。今生限りの利害得失に呪縛されてはならない。
さて、過去の記事で何度も言及してきたように弟妹である動物を殺害して、その肉片や臓物を食する‘豊かな’食文化を是認している残酷な行為は、愛 なき想念波動に支持されてのことであり、愛なき想念波動は我欲と利己(エゴイズム)からもたらされ、これらは大宇宙を経綸下にしろしめす一なる根源的神、 即ち大愛に逆行するが故に、その大愛の全き生命波動を遮断した、弟妹を殺害して食すその身に不調や病変を来たすのは当然である。
反対に大愛にかなった食のあり方、即ち人類同様に進化の道程を歩む動物等を慈しむ想いの反映として穀菜食かつ小食というあり方であるならば、大愛に逆行することがないため、その身に重篤な病の発生はないのも当然である。
ただし、同じ穀菜食と言えども、動物という人類の弟妹らに対する利他愛による慈愛と守護進化から乖離した「我善しの健康志向」は利己心であり、そ の身に病を顕しても不思議ではない。しかし、想念、思念が霊質に即効的に反映する四次元とは異なり、反映が鈍重な物資世界において、物質には物質の法則が 強く作用する。よって、仮令(たとえ)利己心から行なう穀菜食であっても、生物的病理における血を汚す要素は肉食に比して圧倒的に少ないため、その者の罹患率も低くはなるのである。
何れにせよ、仮令、肉食をせず穀菜食を貫こうとも、別の点においては利己心、利己欲を堅持し、想念波動に歪み、乱れ、汚濁の多い者は、何かしらの 疾患症状をその身に呈するか潜在させて抱えるのである。宇宙間の優良惑星人に疾患無きを想うべし。優良惑星社会に医療機関、医薬の存在せざるを想うべし。 故に「我善しの菜食主義」を単なる‘健康ヲタク・ベジヲタク’と揶揄するのである。
菜食は、生物種を超越した利他愛の表現として自ずと選択される 食のあり方であるのが望ましいのである。我欲の不良惑星にあって、弟妹らに向ける慈愛から、菜食を旨とし実行するベジタリアンを優良惑星人が頼もしく想 い、より一層親しみを感じるのもまた当然である。
ただし、入口が‘利己的な健康ヲタク’であっても、菜食をよりよく実践しようと研鑚する中で、 家畜としておとしめられた動物達の悲惨な現状を知り、思い及んで更に情報を集めて学び、利他の心に目覚める事はこの時代には珍しいことではなくなってき た。無関心が興味に、無知が有識に変わった事で、初発は「我善し」という利己であっても、その仮面を脱ぎ捨てて利他へと変容して行くのである。
利他へと向 かいつつある悪は悪ならず。≪悪を抱き参らせ≫たのである。
悪は≪許されていはいるがそれは絶えず浄化し、弥栄すればこそである。浄化し弥栄し行く悪は悪でなく、偽は偽でない。動かざる善は善でなく、進展せぬ真は真でない。≫全ては流転して留まることはないのである。
悪も神の働きと申すもの。悪にくむこと悪ぢゃ。
善にくむよりなお悪い。何故に判らんのか。
因みに、特に米国では2005年現在で国民の70%弱が代替医療(カイロプラクティックやアキュパンクチャー(針治療)は勿論ホメオパシー、オス テオパシー、アロマセラピー、足ツボから気功まで近代西洋医学以外の様々な治療法)を選択したことがあると答えている。
近代西洋医学のメッカである筈の米 国や欧州から近代西洋医学に対する‘迷信’‘盲信’は崩壊してきている。
この潮流は地球惑星全土に今後も拡大していくであろう。
近代西洋医学は大病院に高額な検査機器等を配備して進化してきたように見えるが、その歴史の中で進化したのは、患者に負担の少ない新しい術式の開 発、危険な術式の廃止、検査機器、診断機器のテクノロジーであり、唯物論的、近視眼的、部分的、分割的、攻撃的理論は旧態依然としたままである。
相も変わ らず切る、焼く、潰す、散らす、症状を消す(誤魔化す)発想の延長にある。ここにも利権に群がる蟻や「寄らば大樹の蔭」の如き姑息な鼠が自己保身に奔走し て巨視的生命医学の発展を阻んできたことも近代西洋医学が今日まで主流として、また正統であるかの如き錯覚を伴って生き残った原因である。
しかし、地球の有する惑星波動が高まりつつある中、根本的には治らない近代西洋医学に愛想を尽かし、近代西洋医学膝元の国々の国民の中から神話が崩れ、その国民らは自らの自然治癒力を信じて、自律神経の調整を以って自然治癒力を引き出す代替医療に向かうのである。
食のあり方においても、肉食中心の西洋的食事のあり方が崩壊し、菜食が健康法として既に揺るぎない市民権を得ているのは、元来菜食傾向の強かった 日本国においてではなく、肉食を中心としてきた欧米においてであるのは、近代西洋医学神話の崩壊と同じ潮流の中に起こっているからである。
「医」と「食」は切り離して考えられないのだから、近代西洋医学神話の崩壊の後を追うように肉食否定の潮流が起こることは不思議ではない。
特に戦後の日本国は欧米の機械論的文明の模倣が先進的であると精神まで骨抜きにされ、日本古来の食文化も破壊され、弟妹らの死肉を貪る誇りなき外 道に堕してしまった。爾来、欧米で起こる潮流が遅れて日本に到達する構図の中、欧米で既に起こった代替療法を見直す認識は日本国にも今後波状的に拡大して いくことは間違いない。
現に日本国内でも機械論的唯物的近代西洋医学の牙城であるはずの大学病院のいくつかが代替療法を治療方針の柱に据えるほど‘大胆な’転換を始めているのである。
近代西洋医学の誤謬を突いた『千島学説』の内の一つ、「腸造血説」はこの潮流の中で徐々にそして見事に証明されるであろう。腸造血説の一般認識が進むことにより、その元となる食のあり方が根本から見直され、肉食の完全否定と菜食が当たり前の世となるであろう。 従来のように「食を見直す」と言いながら、結局のところ「肉も野菜も何でもバランスよく食さねばならない」に終始するバランス論(弟妹らの悲痛な 叫びにも「仕方ない」の一言で耳を塞ぎ、惨殺してまでその死肉を貪りたいという賤しきエゴを聞こえよく表現したバランス論)ではなく、人間の身体の機構と 精神の滋養も含め、人間にとって相応しい食材とは何かもはっきりと示されよう。「何でも食べて」いては病気になるのである。
そして単に医学的見地からの肉食の非ではなく、種を超えた生命倫理上の、また想念波動の理解を得た利他愛に基づく肉食の廃絶へと発展していくであろう。 ただし、『間に合えば』の話である。その惑星人が共に進化の道程を歩むべき弟妹らの他殺死体を貪り食っている限り、優良惑星化を果たす地球に残る ことも、そこに再び転生することも決してない。そして、その惑星人がどこに転生しようとも、我欲の我善しである限り、その転生先惑星は不良惑星に他なら ず、その身に病苦の絶えることも断じてない。
一二三(ひふみ)の食べ方に病気無いと申してあろうがな、一二三の食べ方は、一二三(ひふみ)唱えながら噛むのざぞ。四十七回噛んでから呑むのざぞ。これが一二三の食べ方、頂き方ぞ。
(咀嚼の回数は47回に指定したものでなく、100回、150回とトロトロになるまでと理解すべし。)
日本には五穀、野菜、海、川、いくらも弥栄の食べ物あるぞ。人民の食べ物間違えるでないぞ。
食べるには噛むことぞ。噛むとはかみざぞ。
神に供えてから噛むのざぞ。噛めば噛むほど神となるぞ。
食べ物頂く時はよく噛めと申してあろが。上の歯は火(カ)ざぞ。下の歯は水(ミ)ざぞ。火と水を合わすのざぞ。カムロギ、カムロミぞ。噛むと力生まれるぞ。血となるぞ。肉となるぞ。
一二三の食べ方心得たら、今度は気分ゆるやかに嬉し嬉しで食べよ。天国の食べ方ぞ。
ただ喜びに向かってひたすらに進んでいけばよいのであるぞ。正しき喜びをまず見極めよ。
見極めて、ひたすらに進めば良いのぢゃ。食べ物を食べるのも喜びで あるぞ。
正しき食べ物、正しく食べよ。更に喜び増えて弥栄えるのぢゃ。
悪い食べ物、悪く食べるから悪くなるのぢゃ。目に見える食べ物ばかりでないぞ。
人民 は喜びの子と申してあろう。罪の子でないぞ。嬉し嬉しの道あるに、何故歩まんのぢゃ。
『千島学説』 紹介記事へ (咀嚼の回数は47回に指定したものでなく、100回、150回とトロトロになるまでと理解すべし。)
日本には五穀、野菜、海、川、いくらも弥栄の食べ物あるぞ。人民の食べ物間違えるでないぞ。
食べるには噛むことぞ。噛むとはかみざぞ。
神に供えてから噛むのざぞ。噛めば噛むほど神となるぞ。
食べ物頂く時はよく噛めと申してあろが。上の歯は火(カ)ざぞ。下の歯は水(ミ)ざぞ。火と水を合わすのざぞ。カムロギ、カムロミぞ。噛むと力生まれるぞ。血となるぞ。肉となるぞ。
一二三の食べ方心得たら、今度は気分ゆるやかに嬉し嬉しで食べよ。天国の食べ方ぞ。
ただ喜びに向かってひたすらに進んでいけばよいのであるぞ。正しき喜びをまず見極めよ。
見極めて、ひたすらに進めば良いのぢゃ。食べ物を食べるのも喜びで あるぞ。
正しき食べ物、正しく食べよ。更に喜び増えて弥栄えるのぢゃ。
悪い食べ物、悪く食べるから悪くなるのぢゃ。目に見える食べ物ばかりでないぞ。
人民 は喜びの子と申してあろう。罪の子でないぞ。嬉し嬉しの道あるに、何故歩まんのぢゃ。
さて、宗教や地球の神々、神仏とは何の関わりも無く正義感強く、肉体人間の幸福のために癒しを行なおうとする善霊達の中には、憑かる肉体人間を通じて、世に言う奇跡的治療を施す存在もある。
真偽、正邪はあるものの、心霊手術と称するものもその一つである。
九割以上が「手品」「詐術」による‘インチキ’であるが、元となった真の奇跡的心霊手術 を模倣した自己顕示欲の強い者や詐欺的金儲けの為のものである。
模倣の元となった奇跡的心霊手術の背後は四次元の高い位置にはないが、正義感の強い背後善霊であった。
正神に奇跡はなく、高き存在ほど啓示的となっていくことからも判断できるとおり、奇跡的心霊手術は大宇宙の順当な運行法則を捻じ曲げた波動により齎されるものである。
本来の「病気治し」、癒しの道の施与は、その患者なり病者の病が如何なる心の誤った性癖から生じたものかを説き分け、その者の心を正させることによって病気の平癒、治癒に導こうとする事こそ最上の方法なのである。病の根本原因が我と利己欲から惹起する道理と病の存在意義を≪御用の悪≫と知るなら ば、その病を‘頂いた’者に我欲の放擲の道を示すのは当然である。これは正義と愛をその人格に内包した施術者とその援護を為す背後善霊でなければ出来ない ことである。
大愛、大霊の順当な波動を捻じ曲げて、心霊的手術で患部を治癒する行為は最上の方法ではないが、そこに愛があるかどうかで判断は変わる。正義感だけでは世は乱れるのである。
また、この見分けはその見事な術の割には、施術者の要求する報酬が極めて少ないことが特徴である。(だからといって、施術者の寡欲(欲が少ないこと)や背後善霊の無私をいいことに報酬を値切るような事をしてはならない。)
その他、こうした奇跡的に映る霊力による治療は心霊手術と同じく確かに存在するが、既述の如く背後に邪なものを抱えた者も多く、また真偽も定かでない便乗ビジネスが多いので注意が必要である。
霊力による病気治しは、そこに些かなりとも「心を正せ」「我欲を捨てよ」に相当する我欲放擲により病者を癒そうとする諌めや戒めがあるならば、最上の方法ではなくとも四次元の存在にしては比較的高いものである。
そして、往々にしてこの傾向の施術者の諌めや戒めや諭しの言は病者にとって耳に痛いものである。我欲あるが故に症状を呈しているのであるから、己も気付き 得なかった驕りや心の誤った性癖やエゴをポキンと折られてムッとするのである。その心こそ「我」である。その我が病へと導いたのである。
ここで注意しておきたいのが、こうした病気治しもあるという事実とその背後の存在に関して言及したのであり、霊力による治療を奨励するわけでは決してない。本来、奇跡や神頼みで病気を治療しようとしないことである。
死後の生活知らすことはよいなれど、それのみによって改心せよと迫まるのは悪のやり方。
奇跡見せ、病気を治してやるのもよいのぢゃが、それのみに よって改心を迫ってはならん。
それのみで道を説いてはならんぞ。
そんなことくらいでマコトのホッコン改心が出来るならば、人間は遠の昔に改心して御座るぞ。
人間の言う神憑(が)かりとは幽界の神憑かりぢゃ。ろくなことないのぢゃ。
お蔭は、すぐにはないものと思え。すぐのお蔭は下級霊。眉にツバせよ、考えよ。
まかせ切らねばマコトの安心立命ないぞ。まかせ切るには、まかせ切って安心出来る神をつかまねばならん。お蔭信心や病気治しの神ではまかせ切れまいがな。早う合点結構ぞ。
気の付いた人からマコトの神の容れ物(いれもの)になりてくれよ。
悪の楽しみは先に行くほど苦しくなる。
神のやり方は先に行くほど段々良くなるから、始めはつらいなれど、先を楽しみに、辛抱してくれよ。
心の入れ替えせよとは新しき神界との霊線をつなぐことぞ。
そなたは我が強いから、 我の強い霊界との交流が段々と強くなり、我の虫が生れてくるぞ。
我の病になって来るぞ。
その病は自分では判らんぞ。
わけの判らん虫わくぞ。
わけの判らん病流行るぞと申してあるが、そのことぞ。
肉体の病ばかりでないぞ。心の病激しくなっている から気付けてくれよ。
人々にもそのことを知らせて共に栄えてくれよ。
この病を治すのは、今日までの教では治らん。
病を殺して了ふて、病をなくしようとて病はなくならんぞ。
病を浄化しなければならん。
悪を殺すと云う教や、やり方ではならんぞ。悪を抱き参らせて下され よ。
食物、食べ過ぎるから病になるのぢゃ。不運となるのぢゃ。
口から出るもの、入るもの気つけよ。
いくさ(戦)起るのぢゃ。
人間の病や、いくさばかりでない、国は国の、世界は世界の、山も川も海も、みな病となり、不運となってくるぞ。
食 べないで死ぬことないぞ。
食べるから死ぬのぢゃぞ。
一椀をとって先づ神に供へよ。親にささげよ。子にささげよ。
腹八分の二分はささげよ。
食物こそは神か ら、親から与へられたものであるぞ。
神にささげずにむさぶるからメグリ積むのぢゃ。
メグリが不運となり、病となるのぢゃぞ。
運開くのも食物つつしめばよい。言つつしめばよい。
腹十分食べてはこぼれる。
運はつまって開けん。
この判りきったこと、何故に判らんのぢゃ。
ささげるからこそ頂けるのぢゃ。
頂けたらささげると今の人民申しているが、それがウラハラと申すもの。
衣類も家も土地も、みな神から頂いたのでないぞ。
預けられているのであるぞ。
人民に 与へられているものは食物だけぢゃ。
日のめぐみ、月のめぐみ、地のめぐみだけぢゃぞ。
その食物節してこそ、ささげてこそ、運ひらけるのぢゃ。
病治るの ぢゃ。人民ひぼしにはならん。
心配無用。食物、今の半分で足りると申してあろうが。
遠くて近いものヒフミの食べ方して見なされよ。
運ひらけ、病 治って嬉し嬉しと輝くぞ。
そんなこと位で、病治ったり、運開ける位なら、人民はこんなに苦しまんと申すが、それが理窟と申すもの。理屈悪と申してあるも の。低い学に囚われたメクラ、ツンボと申すものぞ。
理屈捨てよ。捨ててやって見なされ。
みなみな気付かん理、気付かん病になっているぞ。
ツキモノ (霊)がたらふく食べていることに気付かんのか。
食物節すればツキモノ改心するぞ。
先づ百日をめあてに、百日過ぎたら一年を、三年つづけたら開運間違ひなし。
病もなくなって嬉し嬉しとなるぞ。三年目、五年目、七年目ぞ、めでたいナア、めでたいナア
奇跡見せ、病気を治してやるのもよいのぢゃが、それのみに よって改心を迫ってはならん。
それのみで道を説いてはならんぞ。
そんなことくらいでマコトのホッコン改心が出来るならば、人間は遠の昔に改心して御座るぞ。
人間の言う神憑(が)かりとは幽界の神憑かりぢゃ。ろくなことないのぢゃ。
お蔭は、すぐにはないものと思え。すぐのお蔭は下級霊。眉にツバせよ、考えよ。
まかせ切らねばマコトの安心立命ないぞ。まかせ切るには、まかせ切って安心出来る神をつかまねばならん。お蔭信心や病気治しの神ではまかせ切れまいがな。早う合点結構ぞ。
気の付いた人からマコトの神の容れ物(いれもの)になりてくれよ。
悪の楽しみは先に行くほど苦しくなる。
神のやり方は先に行くほど段々良くなるから、始めはつらいなれど、先を楽しみに、辛抱してくれよ。
心の入れ替えせよとは新しき神界との霊線をつなぐことぞ。
そなたは我が強いから、 我の強い霊界との交流が段々と強くなり、我の虫が生れてくるぞ。
我の病になって来るぞ。
その病は自分では判らんぞ。
わけの判らん虫わくぞ。
わけの判らん病流行るぞと申してあるが、そのことぞ。
肉体の病ばかりでないぞ。心の病激しくなっている から気付けてくれよ。
人々にもそのことを知らせて共に栄えてくれよ。
この病を治すのは、今日までの教では治らん。
病を殺して了ふて、病をなくしようとて病はなくならんぞ。
病を浄化しなければならん。
悪を殺すと云う教や、やり方ではならんぞ。悪を抱き参らせて下され よ。
食物、食べ過ぎるから病になるのぢゃ。不運となるのぢゃ。
口から出るもの、入るもの気つけよ。
いくさ(戦)起るのぢゃ。
人間の病や、いくさばかりでない、国は国の、世界は世界の、山も川も海も、みな病となり、不運となってくるぞ。
食 べないで死ぬことないぞ。
食べるから死ぬのぢゃぞ。
一椀をとって先づ神に供へよ。親にささげよ。子にささげよ。
腹八分の二分はささげよ。
食物こそは神か ら、親から与へられたものであるぞ。
神にささげずにむさぶるからメグリ積むのぢゃ。
メグリが不運となり、病となるのぢゃぞ。
運開くのも食物つつしめばよい。言つつしめばよい。
腹十分食べてはこぼれる。
運はつまって開けん。
この判りきったこと、何故に判らんのぢゃ。
ささげるからこそ頂けるのぢゃ。
頂けたらささげると今の人民申しているが、それがウラハラと申すもの。
衣類も家も土地も、みな神から頂いたのでないぞ。
預けられているのであるぞ。
人民に 与へられているものは食物だけぢゃ。
日のめぐみ、月のめぐみ、地のめぐみだけぢゃぞ。
その食物節してこそ、ささげてこそ、運ひらけるのぢゃ。
病治るの ぢゃ。人民ひぼしにはならん。
心配無用。食物、今の半分で足りると申してあろうが。
遠くて近いものヒフミの食べ方して見なされよ。
運ひらけ、病 治って嬉し嬉しと輝くぞ。
そんなこと位で、病治ったり、運開ける位なら、人民はこんなに苦しまんと申すが、それが理窟と申すもの。理屈悪と申してあるも の。低い学に囚われたメクラ、ツンボと申すものぞ。
理屈捨てよ。捨ててやって見なされ。
みなみな気付かん理、気付かん病になっているぞ。
ツキモノ (霊)がたらふく食べていることに気付かんのか。
食物節すればツキモノ改心するぞ。
先づ百日をめあてに、百日過ぎたら一年を、三年つづけたら開運間違ひなし。
病もなくなって嬉し嬉しとなるぞ。三年目、五年目、七年目ぞ、めでたいナア、めでたいナア
本日これまで。
シリーズ『シルバーバーチャル星人の生活』
第16回吾、吾にして既に吾に非ずへ
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