スピリチュアルとベジタリアンの世界へシルバーバーチャンがあなたをいざないます。ちょっと辛口ですんでお怪我などなさらないよう、包帯をご用意下さいませ。
*
info_page
シリーズ第13回
『神々の正体(その1)』

先回(第12回)では冒頭に
『地球惑星人の神に対する認識は混沌としている』として少しだけ今回の主題に言及した。
 また、『根源的な神、一なる創造主はその現れ方こそ違え、どこにでも現れている。神は愛そのものであり、愛は神そのものである。また、一見して悪なる「悪」も一見して不幸なる「不幸」も神の愛の働きの一部なのである。』として後に『神々の正体』と題して詳述するとも記した。

 神、神々といえば地球惑星人の場合、直ちに宗教と関連付けるのが常套である。地球惑星人は宗教と言うフィルターを通してしか神を見ていない場合が殆どである。世間一般で神の名を口にすれば「何かの宗教ですか?」と聞かれるではないか。

 少し考えれば解ることだが、宇宙に話を広げるまでもなく、地球惑星一つとっても、その運行やそこに棲息する生物・生命の進化の促進やその下地となるあらゆる諸法則は人類が宗教を作り出す遥か以前から厳として存在していたのであり、大小新旧各宗教が誕生し、各宗教の神などを定義して、大伽藍や大聖堂など建立せずとも、諸法則に従いながら、惑星は運行され、そこに棲息する生物・生命も進化を続けてきたのである。宗教と神は本来全く無関係であり、宗教は所詮不良惑星人の作ったモノに過ぎない。神は人間の作り上げた宗教ごときに規定されるような矮小な存在ではない。故に宇宙の諸法則に合致して生きる優良惑星人の住む各惑星・遊星には宗教は不要につき存在しない訳である。

 宗教などなくても、神は全宇宙に偏在し、三次元の物理法則も、四次元が関わる精神の法則も、いかなる次元をも貫く波動の諸法則も経綸下に治める根源的存在なのである。地球人が漠然とでも想起する人の形をしたような存在であったり、どこかある一点にぼんやりとまたはベールのように存在しているようなことは有り得ないのは言うまでもないが、精神体のように次元を限定して在るような存在でもない。

 神はいかなる次元においても「現れ」や「働き」としてしか見えないのであり、三次元の存在には精々感じることしか出来ない存在である。また、その「現れ」は神の働きであり神そのものではない。

 卑近な例で敢えて喩えれば、鳥が空を飛ぶその力が神の「働き」である。石が水中に沈む重力が神の「働き」である。石が石であること自体も神の「働き」である。水が水素と酸素で水たることも神の「働き」であり、雨として降るのも神の「働き」である。が、これらは神の「働き」であり、神そのものではない。神とは叡智そのものであり、愛そのものである。叡智と愛は神そのものである。神の「働き」を通じで神を見出ださねばならない。

 例えとして雨を挙げれば、雨として植物はじめ大地の諸々のものを育む性質が雨、水に備わっていることが叡智であり愛なのであり、「現れ」としての雨そのものやその「働き」自体は神ではない。三次元の物理現象としての雨はあくまで現象であり、神の働きとしての現れであるが、(物質世界から見れば)雨には叡智と愛が属性として備わっているように見え、(本来的実相は)叡智と愛に水という属性が備わっているのである。雨水のみならず、全て、全てにおいて、叡智と愛はいかなる形にもなって現れるのである。

 全ては愛と叡智から発せられた波動が具現化して、それぞれの次元にてそれぞれの実質となって現れる。その現れ方を規定するのが各次元を構成する様式である各次元の諸法則である。三次元の現象界になら(物理法則が様式の一つとして有り)物質として、四次元の霊界なら霊質として、愛と叡智を内包したまま(まず波動の形を取り)その次元、世界として具現化しているのである。

 愛と叡智が様々に変化して万物として現れ、万物はその根源を愛と叡智として同じくするが故に「全てはひとつながり」と表現されるのである。このような意味においては、岩は雲であり、雲は土であり、土は列車であり、列車は硫酸であり、硫酸はヒマワリである。愛と叡智が諸法則を通して、岩にも水にも雲にも金属にも化学物質にも細胞にもなって現れているのである。愛と叡智が波動として、次元を問わず宇宙間に充満し、各次元の諸法則を通じて、三次元なら時間と空間という現われの中に物質も現れる。物質のひとつである「生物」に乗った愛と叡智の分け御魂である「生命」は「生物」という生存体験と幾多の転生経験を通じ、根源的愛と叡智へ近づく進化を繰り返すのである。


 このシリーズの過去の記事(第3回『想念作用(その2)』)で、実在とは愛と叡智である根源神の御存在とその分け御霊である生命(生物ではない)のみであり、如何なる次元も世界もホログラフィックな現象界(現われ)であると既に記したとおりである。愛と叡智はいかようにも変化(へぐ)るのである。
 また、人類の無知蒙昧とその暴挙で、生命と愛に反する間違った行為をすれば、例えば雨は時に酸性雨として、集中豪雨として、洪水として「悪」の働きをも演ずる。が、先回(シリーズ第12回)の主題とした『悪あればこそ弥栄する』に既述した通り、「悪」として現れることも出来る愛であり叡智なのである。

 不良惑星人は神を「悟る」ことは至難の業であるため、「悟」ではなく、「知」を以って地球惑星人に噛み砕いて喩えて、ある惑星人が夢を見ているとする。その夢の中の要素は波動であれ、法則であれ、物質であれ、霊質であれ、全てその惑星人の想念が夢という形で作り出した世界であるとする。夢の主が想念して生み出した世界の中に存在する住人が、その世界の中に夢の主の姿をどんなに求めて探そうとも、その姿は決して見つけることは出来ない道理である。夢の主の姿は見えねど、その想念するところを「現れ」を通じて感じ取った住人は、そこに夢の主の想念の「働き」を知り、その「働き」の意義を見出し、かつ体得した時、夢の主の大いなる愛念を悟り行く事ができるのであり、これが正道である。

 その悟り行く過程で我と欲という己の心に内包する悪の気を克服して行くのである。その克服の過程に「悪」となって具現化し、その者が我と欲を堅持している愚かさを知らしめるのである。この悪の気を断つ道程である自分発見は、心をえぐる衝撃的で実に辛い作業である。己のエゴを目の当たりにし、己の心の汚濁の程度に愕然として初めて謙虚さを学ぶのである。高まるほどに「我こそは」という思いは最早、鳴りをひそめ、そうして謙虚さを学んだ者は自ずと他を許す寛容の心が拡大して行く。許しは愛の表出の一表現であり、神の大愛へと近づく進化である。≪悪は悪ならず。悪憎むが悪ぢゃ≫

 しかし、その夢の中で、「物知り顔をした物知らず」の「我こそは」が宗教などという欺瞞のシステムで「夢の主」を我田引水なる教義の枠にはめ込み規定して神と呼び、この「神」を利用して己の自己保身と我欲の充足を計るその姿を見るにつけ、またその行く末を思うと哀れである。また、理念発動させ得ずして、これを鵜呑みにし、欲心を満足させ得る時のみ有難がって御利益を求める衆人の姿も哀れで、時に滑稽ですらある。

 以上は相当に乱暴な例えではあるが、神とは優良惑星人は勿論、相当に進化した高次元神霊ですら、計り知れない全宇宙を経綸する根源的存在なのである。また、いかなる高次元の御神霊といえども、全てはこの根源神の経綸下に存在するのであり、根源神を越えることはできないのは言うまでもない。先の「夢の主」の例で言えば、いかなる高次の存在も夢の主の「想念のスープ」の中の存在なのである。この根源的な神を絶対神、創造主、創造神、宇宙創造神と、その御働きを冠して称慕申し上げているのである。日月神示では≪元の元の元の神≫と表現することもある。

 この根源的神の大想念世界の中の存在として、各次元に、また複数次元を超越して様々な進化段階にある「宇宙の神々」と仮に呼び申し上げる御神霊が在らせられるのである。以下三次元宇宙空間に住する優良惑星人まで下ってくるのである。

 この様子はシリーズ第9回に「さて、こうした生命進化の・・・」で始まる第4段落目に示したとおりである。が、こうした分類は地球惑星人の理解のための便宜上の区分であることを念を押しておく次第である。このシリーズの第1回記事から神として表現してきた存在は、この根源的神であり、時に高次元の御神霊のことをいう。

 では、地球惑星人が神、神々として、宗教というフィルターを通して見ているものは一体何なのか。これを仮に「宗教の神々」とか「地球の神々」と呼び、宇宙一切の根源神であらせられる創造神へと繋がる高次元の神々を「宇宙の神々」と仮に呼ぶことにして先に進むこととする。

 本シリーズ第1回から一貫して、「宇宙一切創造主の律動であり、想念波動とその作用に対する理解と惑星人ひとり一人の悪想念波動の制御が地球惑星の命運を決め、一大天譴は必要あって避けて通ることはできないが、地球惑星の優良惑星群参入までの道のりを大難とするか小難とするか、はたまた負の勢力に弄ばれて惑星地球の小惑星化、流星化へと引き込まれ、三次元宇宙の塵と成り果てる大罪を犯すか、一にかかって地球惑星人の想念波動次第である」と述べてきた。地球惑星人の肉食によって、否応無く無慈悲に大量に屠殺された動物らの怨恨、憤怒と悲哀の念が地球惑星の業想念の総体を汚濁し許容の限界を超えつつある旨も述べた。また、宇宙の神々から優良惑星人まで、有形無形の存在が人類を(またその魂を)一人でも多く救済へと自ら向かわせるべく尽力していることも述べてきた。

 この想念波動と作用を覆い隠し、暗躍してきた者こそ、「シリーズ第9回『邪神・邪霊』夜明け前、いよいよ激しく巧妙に」において、その発生から実体まで詳述した邪なる勢力である。破壊的想念を抱き、否定的負の想念波動を「糧」とする生命進化のサイクルに逆行する勢力である。この邪神共が想念波動とその作用を隠蔽するのに最も功を奏した手段が宗教であった。

 どの宗教も道徳も善を勧めて、悪を行ってはいけないと訴える事は決して悪いことではない。しかし、想念波動の作用を説かずに善を勧める時、何が起こるか邪神らはよく知っている。即ち宗教信者のみならず、一般の地球惑星人は人々に善であることを望むものの、実際に善を行わない人々を見て、咎め、怒りの心を起こして非難するなど排他的想念を放射するのである。また、悪を行う者を見て、憎しみ、咎め、果ては「殺してしまえ」と攻撃的、排他的想念、他を否定する想念を放射するのである。勧善懲悪を強く推進しようとするほどに、これらの悪想念を起こす衆人が多く出る結果を生むのである。「まず波動在りき」とシリーズを通じて述べてきた理由は偏(ひとえ)にここにある。

 本シリーズではないが、スピリチュアルページの「ベジ&スピリチュアル雑記帳」の中に『正しい事でも争う時は既に誤り』(肉食と戦争:番外編)を記した狙いは、同朋である動物達に溢れる慈愛の心を向けられる発達段階に既に達したベジタリアンらが、動物達を愛するが余りに、その「愛が執着へと変容」し、「正義の心が驕(おご)りへと変容」し、想念波動世界では取り返しのつかぬ罪を築き上げ兼ねない危険性を訴えることにあったのである。
 善を望み、善に憧れ、善を勧め、悪を否定しようとするほどに却(かえ)って破壊の原因である悪想念を累積するとは、これ程愚かで哀しい事はないのである。

 この無明に人類を導いたのが邪神・邪霊とその傀儡となって操作された肉体人間達であり、宗教や道徳を利用し、如何にも善を世に勧めるかのごとく装って、実は想念波動、念波、霊波の作用を隠蔽して却って悪を行わせてきたのである。「愛と正義と善を強力に勧め、人類を救済する為に組織された団体が宗教団体」。この文言の背後のどこに底知れぬ罠が大きな口をポッカリ空けて善男善女を待ち構えているのか、何も知らぬ者にはとんと見当もつかぬのである。
 想念波動とその作用を知る者、そして「大峠」を越える為、未来へ向かって人類が何をすべきか得心の行った者は、この欺瞞と罠をよくよく銘肝すべし。

 宗教の神々と呼ぼうが、地球の神々と言おうが、その実態は邪神・邪霊なのである。何度も言及するが、これらの手管(てくだ)の要諦(ようてい)は想念波動とその作用を覆い隠し、極めて狡猾(こうかつ)に真理めいた言葉を散りばめ、愛と正義に満ち満ちた教義を展開するかの様にみせかけ、その実、人類の欲心をあおり、自己主張を助長する破滅の方向へと導くという一点に尽きる。その最終目的は地球の小惑星化、流星化なのである。不良惑星人の我欲の想念波動に吸い寄せられるかのように地球に参集した邪神・邪霊が数万年に渡って「悲願」としてきた地球の流星化である。
 理念の眠った宗教的人格者やカリスマ的存在や霊感的教祖の背後で宗教を起こし、これを利用して、平和、愛、正義、真、善、美、誠などまことしやかに謳い上げ、「欲心を捨てましょう」「隣人を愛しましょう」と一方で正しいことを言いながら、また一方では、我欲ある信者の心の隙に付け入って無限供給などと称し、信者に気付かれぬように欲心を煽り続けるのである。

 「シリーズ第9回『邪神・邪霊』夜明け前、いよいよ激しく巧妙に」の一部をそまま転記すれば、「邪神ですら真理を説くのである。九割は正神の言葉を盗んで真理を説き、安心させ、残り一割で見事に騙す。邪神ほどの老獪な存在であるが故に出来ることである。平等を説き、平和を語り、人心を美辞麗句に酔わせ、「いざ、いざ行かむ」と神の顔をして、人を獣へと導くのである。」邪神が邪神の顔をして現われるはずがないではないか。むしろ燦然と神々しい光を放ち現われるのである。いわゆる霊能者にかかるのは神々しいまでにその姿を幻視させる邪神から邪霊、果ては低い背後霊まで「ピンからキリ」である。往々にしていずれの霊能者も「神」を説くものである。

 肉体人間は、三次元の肉体とその複体である四次元の霊体を持ち、三次元に生活しながら、同時に四次元にも繋(つな)がっているのは最早常識であろう。顕在意識とも呼ばれる表面意識は通常三次元での活動にのみ関与し、無意識とも呼ばれる潜在意識は四次元にもそれ以上の次元にも作用するように組成されている。所謂虫の知らせや夢や第六感はこの一部である。

 通常の生活における意識状態では、意識による無意識の捕捉、即ち表面意識で潜在意識の動きを捉えることは極めて稀であるため、四次元に関与する潜在意識で得た印象や心象が三次元用のモニターである肉体の脳を再生機とする表面意識に浮かび上がることは意識的にはできない。できるとすれば無意識に意識を投じた時(瞑想などによる変性意識状態)などであり、通常の生活における意識状態では無意識層の情報をはっきりと意識的に感じ取る事は困難である。特に表面意識が生存競争に奔走する時には決して潜在意識から表面意識へ四次元の印象、心象が浮かび上がることはない。

 しかし、霊能者と呼ばれる者たちの背後霊の波動変換能(または波動干渉能)とでもいうべき能力により、四次元の印象や心象を即座に表面意識へ言わば‘ショートさせる’ことで導入せしめる能力が霊能力である。よって、その背後霊の正邪、真偽、高低の度合いにより、入れ物である霊能者の程度も百人百様となる。そこに肉体人間としての霊能者自身の耐久力、知識、人格、霊位の影響が加わり、更に霊能者の潜在願望にその背後霊がある程度呼応して、現われる霊能は千差万別となる。

 遺失物(うせもの)判断や方角占いの如きものから、シャーマニズムのような呪術的なもの、奇跡的な詐術で世間の瞠目を集めるもの、心霊手術や治療を施すものや死者の霊を憑依させる口寄せ的なもの、そして稀代の予言者まで様々であるが、低い背後霊の支配する者ほど即物的で、高い者は啓示的となっていく。しかし、高い者とは言っても、この背後霊は所詮四次元の範囲を出ることは決してない。なぜなら宇宙の神は肉体人間に霊能力は決して与えないからである。

 肉体人間に(悪想念の制御という条件付で)自ずと賦与されるように仕組まれているのは、精神感応力を基礎とした様々な(地球人のいう)超能力である。悪想念制御ができぬうちはこの超能力も決して開かれない。それは精神異常者に刃物を持たせるのと同じだからである。超能力は不良惑星人がそう呼ぶのであって、生命進化上、優良惑星人のようにエゴを放擲(ほうてき:打ち捨てること)した段階に精神性が到達した時、自ずと発現する能力であり、それを‘超’ 能力などと呼ぶ必要はない。

 不良惑星人には抽象的概念を理解する能力は今となっては当たり前の能力であるが、初発の人類や類人猿からすればその能力は将に超能力に匹敵する摩訶不思議な力なのである。それと同じように、地球人の言う超能力は生命の進化に伴って賦与されるよう仕組まれ、約束された当たり前の能力なのである。霊能力のように背後霊の霊位の高低とその感応度により結果を左右される不安定な能力とは異なり、エゴを放擲した時に自ずと開く能力なのである。この能力はエゴ、我欲を捨て切れない地球惑星人には未だ‘超’能力という手の届かない領域にある能力だが、優良惑星では(敢えて言えば)‘常’能力である。よって正神と繋ぐ優良惑星人に、四次元の様々な低き者がかかることもなく、霊能力と称する‘混線’や憑依もない道理である。

八百万の神々の誕生
 霊能力の発現は地球惑星始め他の不良惑星特有の現象なのである。
優良惑星に霊能者は存在しない。全ての優良惑星人は我欲の制御を成し遂げているため、波動同調性により邪神と繋ぐことはなく、宇宙の神々と繋がり、創造神には全幅の信頼を置くため、常に正神に‘神憑って’(かみがかって)いるのである。惑星人ひとり一人が正神と繋ぐ至福の中にある優良惑星社会に、何ぞ宗教、社殿、仏閣、聖堂の必要あらんや。我欲の制御、エゴの放擲を為し得た結果、幸福は望まずとも享受できるものなのである。

 地球惑星人は地球科学的常識で解き明かされないからといって、不可思議な状況を直ちに神、または神々と判断して呼ぶような古典的信仰に近い思考に走ってはいけない。古代神道は随神(かんながら)の道を説き、宗祖・教祖も存在せず、思想、哲学的に神の道を説くもので地球発祥のものにしては比較的高い次元を示す道であった。

 しかし、時代が下るに従い、我欲の者共に汚濁され、邪神・邪霊に踏み荒らされる様相へと変質してしまった。いつしか原始宗教のごときアニミズム的傾向を示し、高き神々に通じていた往時の影もなく、完全に形骸化して今日に至っている。八百万(やおよろず)の神の発想は既述のごとく、愛と叡智が様々に変化して万物として現れる様子を捉えて生まれたものであるが、鳥が空を飛ぶその力は神の「働き」であるのに、これを神とし、石が水中に沈む重力は神の「働き」であるのに、これを神とし、石が石であること自体は神の「働き」であるのにこれを神とし、水が水素と酸素で水たることは神の「働き」であるのにこれを神としてしまったのである。古神道時代の惑星人は神とは叡智そのものであり、愛そのものであると直感していたため、石や鳥や水は根源的神ではなく、働きであると知っていたが、時代が下るにつれて根源的神の「働き」までも神々とするような愚昧に成り果ててしまったのである。これも我欲に付け入った邪神の支配下に入って、理念を眠らされた結果である。こうして石にも雨にも土にも神々が宿るとされた。(「神が宿る」とするのは一面的には正しいのであるが、それは根源的神の現れであり、働きであって、神そのものではない。)こうして八百万の神々の‘誕生’となっていった。

 更に時代は下り、ついには『唯一絶対神の存在を八百万の神々の中に埋没させてしまった』のである。日本古来の‘宇宙科学’の黎明はこうして潰えてしまったのである。ここに多神教的古典信仰が成立し、国中に五穀豊穣の神やら鎮守の神やら水の神、山の神、火の神やらが各地で祀(まつ)られ始めた。

 村落の住人達は、不作を憂えて五穀豊穣の神を、洪水が起きれば水の神を、土砂が崩れれば山の神を、火災が起きれば火の神を、地震が起きれば地の神をと、それぞれの神を引っ張り出して祀って祈りを捧げてきた。しかし、村落住人の作物の豊作不作も災害も、偏にその村落住人の想念波動の良し悪しにかかっていることを、時代が下ったこの時、最早知る由もなくなっていたのである。

 村落とその隣の村落が相克し、年中悪想念を撒き散らしておきながら、その村落の豊作や無災害は望むべくもないのである。その村落の収穫と加護は火の神、山の神、鎮守の神や水の神を祀って信仰するかどうかによるのではなく、想念波動の制御に掛かっているのである。

 こうしてここでも邪神・邪霊は、実在である一なる創造主、絶対神の存在を八百万の神という実在しない抽象概念的神の中に埋没させ、人民に絶対神の存在を忘却させることに成功し、その上に想念波動とその作用の隠蔽工作にも成功を収め、抽象概念的八百万の神をせっせと祀らせ、我欲の放擲という魂の転生の目的から人民を遠ざけてきたのである。

 唯物科学が発達した現代にあって、このような多神教的古典信仰を真顔でしていた村落住民を現代惑星人は嘲笑するであろうが、想念波動とその作用による人類の禍福に対し盲目同然であるという点において、往時の村落住民を笑う資格などどこにもないのである。否、現在も相も変わらず邪神の画策にまんまと嵌まり、尚、我欲をほしいままにしているばかりか、往時の村落住民の神に対する感謝の念と比較して、現代人は感謝の念を忘却してしまったかのような驕った姿勢で、どうして往時の惑星人を笑うことができようか。村落住民の信仰は、火の神や水の神といった抽象概念的神を祀って祈れば福来たると思わされるなど、邪神に操られていたのではあるが、豊作の際には衷心より感謝の念を捧げ奉ったのである。仮令(たとえ)実在しない抽象的、概念的神に手を合わせていても、感謝の念は正神と繋ぐ波動であるが故に宇宙則に適った波動なのである。この感謝さえ薄れ行く現今地球惑星人がどうして往時の無知なる村落住民を笑うことができようか。

 山崩れが起こる原因を往時の村落民が山の神の怒りとして恐れたのとは異なり、現代人は災害の発生する原因を地質構造や気象条件に求め、山崩れが起こったのは地盤が軟質なところへ集中豪雨が降って起こったとする。が、優良惑星には集中豪雨が発生しない。集中豪雨が発生しない以上、地盤が軟質であっても何ら不都合は起きないのである。不良惑星の場合、その集中豪雨は如何にして齎されるのか考えて見られよ。業想念の自壊作用である。地球惑星人は洪水を見て荒れ狂うが如しというが、その様子はその惑星に住む惑星人の意識が荒れ狂う、その心の姿の映しなのである。

 これを比喩表現であると思う者が在れば、それは誤りである。比喩などではなく、想念波動の作用の具現化である。悪想念の放散と自壊が病や障りになって現れる事には得心が行くが、気象条件だけは例外ということはなかろう。現れである万物を支持する波動により様々に変化(へぐ)る天則を忘れてはならない。波動が良くも悪くも変化すれば現れも変化するのである。住人の想念波動次第で、悪にも変化り、善にも変化る。悪に変化れば反省と我欲の制御に精進し、善に変化れば尚一層の感謝を捧げ、悪も善も進化に必要な現われなのだから、善きにつけ悪しきにつけ感謝の念を起こすべきなのである。
宇宙間に根源的悪はない。

 (尚、記紀神話には様々な神々が登場する。根源の神の記述もあるし、観念的神の記述もあるが、登場するほとんどの神々は、架空や喩えやアニミズム的な神々ではなく、実際に肉体をもって三次元地球地上に存在した肉体人間であった。シリーズ第8回『現存地球惑星人の来歴』でも少し触れた天津神、国津神を参照されたし。また、今に伝わる天津神、国津神の伝承は、歴史の中で邪神邪霊の画策に操られた往時の地上権力者とその配下の者共によって改竄され、天津神と国津神が入れ替わっていたり、平定する側が平定された側になって記述されていたり、夫婦であったものが姉弟の関係に記述されていたりして、正邪混沌とした内容になってしまっている。むしろ正統と見なされない、古史・古伝と呼ばれる記録にこそ、真実の片鱗が残されていることが多い。こうした改竄は神道に限らず、仏教、回教、基督教など長い歴史を有するもの程その傾向が顕著である。いずれも時の政治や権力によって書き換えられる道を辿るのである。)

 さて、奇跡を起こして、口に愛だ平和だ慈悲だと唱えれば理念の眠った惑星人を騙して心酔させる事など邪神には赤子の手を捻るより容易であると過去の記事に残した通りである。
 邪神である宗教の神々、地球の神々は、その老練さを以って、霊界上層の善霊たちの説く真理の言葉の破片を盗み、人間の我欲を煽る美辞麗句を散りばめて、真理の言葉を巧妙に捻じ曲げ、すり替え、神の啓示と言っては霊能者や宗教教祖やカリスマ的存在を通じて世に広めて、世の混乱、攪乱を謀(はか)ってきたのである。

 この邪神の傀儡となった宗教教祖や霊能者に吸い寄せられた信者の中には、当然ながら真に神を求め、道を求め、惑星地球の平和を願い、隣人を愛そうと努力するなど殊勝な者も散見されるのではあるが、如何せん、我欲強く、地球に降ろされた優良惑星不適格者であるがため、我欲は未だその両の手に確りと握り締めたままである。この我欲に巧みに付け入るのが、母星の時代から数十万年に渡って、不良惑星人から不良惑星人の肉体に憑依して渡り歩き老獪さを身に付けた狡猾な邪神である。この老獪さと狡猾さにより練られた姦計の前には、善男善女も我欲ある限り一溜まりもない。

 まずは悪想念を制御して、我欲を打ち捨てることこそが一大天譴を目前にした地球惑星人に課せられた人生の意義の中心中の中心である。この想念波動とその作用を覆い隠して愛、平和、正義、真、善、美を如何に美しく飾り立てて説こうとも、その背後はおぞましい邪神・邪霊の世界がぽっかりと口を開いて善男善女を追い落とすべく巧みに罠を張っているのである。

 こうして愛、平和、正義、真、善、美を口にすることで、またそれらしき活動をすることで、信者と役員など取り巻きに祭り上げられる教祖はもとより、嘗ては純粋であった信者の心にもいつしか選民思想が忍び込み、自と他を分け隔てる観念が知らず知らずに育っていくのである。己の属する宗教、宗派、主義、信条に合致しない他者の考えを聞き、行いを見るにつけ「フン、○○の神様の世界もわからないくせに、知らないくせに、お前たちときたら・・・。」と。

 自他分離は、自他一体感と利他に生きる優良惑星人には皆無の想念波動である。宗教の神々、地球の神々、即ち邪神・邪霊が衆人を導こうとするその目的は、選民思想を植え付け自他分離を謀(はか)り、想念波動の作用を隠蔽して、欲を巧みに煽る美辞麗句で衆人の理念を眠らせ、悪想念を発するよう仕向けることである。想念波動とその作用を隠蔽したまま、衆人を導く宗教も主義も道徳もいかなる信条も、優良惑星人の自他一体、利他愛とその表出である奉仕とは、「似て、全く非なるもの」であることを知らねばならない。

 地球惑星人は宗教の背後も知らず、教団に入信して信者となったり、そうでなくとも、社殿、仏閣、聖堂に参拝しては、その我欲の心で願掛けをする。勿論その中には物見遊山で、自ら信じてもいない神仏の前で賽銭を放り投げる者も多いが、これらの者とて商売繁盛、家内安全、安産、合格祈願などの札を買い求める際には、内心半信半疑ながら些かでも御利益を求める気持ちを働かせている。これらの者は、その社殿に何が祀られていようとも、その意義など何ら意に介することもない。

 しかし、寺社の中には封建制や武家政治の時代に、弱者を巻き込み踏みにじり、武力によって天下を取った我欲の権化である武将の霊魂を祀っているものなどがある。神としてその社殿に今日まで祀られているのが、我欲の権化であることに何の疑問も抱かず、「歴史上の有名人」程度の思いで、物見遊山の衆人は年中行事的慣習として参拝しているのである。地球惑星人は、唯物主義者ですら大方においてこの様な意識である。しかし、武力と政治の力で、実権を掌握し、身分制度を造り同朋を上中下と分離して、弱者から搾取し他を脅かし、他を蔑んで、思い上がった権力者は宇宙則に反するが故に地獄とでも呼ぶべき次元に転落することは自明の理である。これを神として祀るように唆(そそのか)したのは何者であるか言うまでもなかろう。唆される三次元の肉体人間である愚か者共も、地獄行きの武将を神として祭り上げ、時の権力者に媚び諂う低劣極まりない者共である。

 時代が下り、この穢れた社殿に参拝し、況(ま)してこの地獄に落ちた愚昧の魂に願掛けをするなど愚の骨頂である。考えもなく理念も眠らせた善男善女老若男女が後を絶たぬが故に一大天譴を小難に変え得る事も困難なのである。

 人類は転生を繰り返し、数多の人生を体験することで、宇宙則に適った部分は調和の結果をもたらすが、経験不十分で未学習の部分はしばしば宇宙則に適わぬ故に不調和であり、誤った思考、行動となって表現してしまい、その当然の結果として苦痛体験を自らに反映して、自己反省の材料としているのである。幸も不幸も宇宙則を踏まえて映し出される自らの心の鏡なのである。これを弁(わきま)えず、汚濁の社殿に願掛けをして、我れ善しの幸福や御利益を求めても、自ら地獄へ落ちたその社殿・仏閣の「神」には何ら幸福をもたらす力などある筈もないのである。

 そんな事なら、例えば机の上に鉛筆を三本立てて、携帯電話の着信音を鳴らして拝んでも同じ事である。そこには何の意義も加護もなかろう。惑星人は寺社・仏閣・聖堂の「形」、すなわち虚仮威し(こけおどし)に惑わされてはならない。

 現存文明圏に住む人類は、「たかが神社・仏閣への形ばかりの参詣に、何を大袈裟な・・。」と思うであろうが、実際に参詣する者の心中は、例えそれが物見遊山の参詣にしろ、ここぞとばかりに地位、名誉、金銭を求めて願掛けしたり、我欲を放擲する努力もせずして病気や障り事から逃れて、ただただ幸福を手に入れたいなどの、宇宙則を無視した利己的願望に支配されているのである。有り得ない事だが、百万が一にも、ひとり一人のこの我がまま勝手、自己中心の願いを「いずこかの神」が叶えたとすれば衆人は忽(たちまち)「神とは人の願いを叶えるために存在するもの」と定義するであろう。  

 現実はそのように救い様も無いほど勘違いした意識の極めて低い者達の数は思いのほか多いのである。こうして欲深い善男善女が発する自己中心、我善し、身勝手な願掛けの想念波動に嬉々として「糧」を得て、人から人へ‘感染’する邪霊が初詣などの寺社にウヨウヨと屯っている。その様は将に身の毛も弥立つ様相である。

 宇宙の神々は一なる創造神を「信仰しろ」とは決して言わない。人類に対し、ただ「その我欲を打ち捨てよ」と諌め、守護進化を司るのみである。我欲を放擲する時、‘超’能力はひとり一人に開き、この地上に桃源郷が展開するのである。邪神の齎(もたら)した宗教に縋(すが)り、神社・仏閣・聖堂に参詣して祈りを捧げても、その参詣者の我欲による想念波動が汚濁したままで、どうして桃源郷が現れるというのか。優良惑星に社殿・仏閣・聖堂は存在しないのである。敢えて存在するという言うなら、優良惑星人ひとり一人が正神の宿る社殿なのである。

 地球惑星の唯物科学の発達に伴って、昨今の僧侶も尼僧も司祭も司教も自らも信じてもいない神仏をその信徒・信者に説法して、神仏をダシにして生活の手段とし、ともすれば低俗な風潮に迎合して、真理をいいように改竄して伝える「体(てい)たらく」である。その悟りもない僧侶・尼僧・司祭の読み上げる経文のどこに価値があるというのか。

 「先ず波動有き」である。もしここに我欲を打ち捨て去り、正しい悟りに到達した僧侶・尼僧・司祭が一斉に経文を唱えれば、その正しい想念波動が忽ち天地万物の波動に鳴り響いて三次元地上も四次元霊界も共に浄化されるのである。しかし、上述のような悟りのない僧侶らが何千万人集まったところで、我欲を確りと抱いていれば、その想念波動でどんなに高尚な経文を唱えても、万物の波動に共鳴して瞬く間に汚濁は放散されるのである。極端な喩え話だが、我欲がなく放散する想念波動が充分に清まった高次のものならば、その経文を「ハラホレヒレハ、ヘベレケレ、ンナワケネーダロ、ヘッポコキターッ」と、机の上に鉛筆を三本立てて携帯電話の着信音を流しながら唱えても桃源郷を実現為し得るのである。創造神と繋がる高い想念波動を有すれば、やる事為す事全てが理に適うのである。高みに上るほど形式や儀式は必要なく、何事も真の自由の中に執り行われるのである。次元が上がるほど制約が外れて自由度が上がって行く道理である。次元が上がるほど調和が進むため、高い調和を以って存在する世界に制約や規制は不要なのである。

 
 繰り返す。地球惑星人にとっては夢のような桃源郷である優良惑星には、神社も仏閣も聖堂も宗教もいかなる経文も存在はしないということを知らねばならない。一なる創造主であらせられる絶対神を抽象的多神教的神々の中に埋没させ、その御存在を覆い隠した上に、想念波動とその作用をも隠蔽させた邪神の齎した宗教も宗教が言う「神」も欺瞞以外の何ものでもないのである。

 既成大宗教も新興宗教と呼ばれる教団も、我と欲の放擲、想念波動の是正、優良惑星群入りの重要性を隠蔽し、美辞麗句で耳障りのよい真理めいた言葉を並べ立て、信仰する者たちにも気付かれぬように欲を静かに煽り、酔わす、酔わす、酔わす。酔わせて選民思想を植え付ける。邪神・邪霊は宗教内部を分裂させ、多くの宗派・分派に分離させることで、入信者の‘窓口’を増やす。各種用意された(ように見える)多くの‘窓口’から善男善女は‘ご入信’してくるのである。互いに自己主張して分裂した宗教・宗派同士が相克し合うように仕向けて悪想念を益々放散させる。

 信者は信者で、平和、愛、正義、神を口にしながら、現実は心を正すことを棚上げし、一心熱心に経文を唱え、家事もそぞろに教団に通って奉仕三昧し、生活のためと言っては競争、闘争、排他的想念を撒き散らし、我善しの心と縋る想いで熱心に信仰する。我欲の放擲を置き去りにしている限り、神を信仰するからといってそれで魂が高邁(こうまい)であるとは言えないのである。何をするにつけ最後は人類に悪想念を撒き散らさせることが宗教背後邪神の目的である。

 何度も言うが、根源神である絶対神に繋ぐ宇宙の神々は人間に対して、信仰せよとは言わない。我欲を打ち捨てよというのである。不良惑星人という進化段階にある場合、その人生の目的は我欲の放擲にある。そのための転生経験である。時を変え、人を変え、立場を変えて学ぶために転生するのである。人類が為すべき事は集約すれば我欲の放擲、この一点に尽きるのである。そこに信仰は必要ない。そこに宗教は必要ない。そこに経文は必要ない。そこに社殿は必要ない。そこに教祖は必要ない。そこに幹部は必要ない。我欲の放擲は日々の体験を通じて、己の心の動きをよく観察し、我欲、エゴに気付いて、これをえぐり出して学ぶ「個々人ひとり一人の」反省と悟りの行だからである。他人が代わって学ぶことはできない極めて個別的学習課題なのである。

 さて、こうして地球惑星人の我欲に付け入り、最早、収集がつかないまでに世の攪乱を謀って来た宗教ではあるが、歴史を有する宗教もその初発はいずれも純真なものであった。ゴータマもムハンマドもイエズスも更に遡ってモイゼもその教説を施したのは街路や野原や住居が集合する中の広場であった。

 彼等の教説が何万巻もの経典に膨れ上がり、大伽藍や大聖堂や大社殿や大仏閣を建立し、多くの宗派・宗門に分派して、互いに排斥し合い、憎みあい、殺し合いの歴史を通じて、最後は営利団体と成り果てて尚、我欲の放擲を説かず、真の神を岩戸の中に閉じ込めて、信者共々驕傲慢心の姿に成り果てても、その己の姿に気付かず、そうとは知らずに天に唾して歩くとは、釈迦もマホメットもイエスもモーセのうち誰も夢想だに思わなかったであろう。

 その時代の人類意識の総体の程度に合わせて、宇宙の神々や優良惑星人の精神感応による啓示や示唆が下ったことは事実である。また、初発は彼等の誰一人大きく誤った教えを説くことはなかったのである。
 しかし、後々の学問僧達や神学者達が、威厳を付けるため厳しい戒律を設け、人気商売の如く教勢を張るため、衆生の欲心を煽って、願望充足を説き加え、更に信者・宗徒以外をも広く威服するため大伽藍・大聖堂・大仏閣・大社殿の建立へと暴走していったのである。貨幣経済の悪弊と相まって、教勢の増強とともに金銭の獲得も暴走を始める。こうして政治と結びつき、政教共に癒着して互いに捻じ曲げあいながら現在に至ったのである。この背後には常に邪神の姦計、画策が張り巡らされたことは言うまでもない。宗教が真に正神と繋ぐものであるならば、人類を真に正しき方向へ導く素地を有しているならば、地球惑星には疾(と)うの昔に地上天国が展開していてもおかしくはない。その地上天国が一体この地球惑星のどこにあるというのか。

 この様子を‘発展’と捉えることがあるなら斯(か)くも愚かな事はない。例えば、日本国民に馴染みある仏教を取り上げれば、釈迦が生前に野原で説いて残した講和を聞いた多くの弟子達は、その聴聞した内容を釈迦の死後、更にその弟子達に語り継ぎ、言い伝えて、年月と共に講和が説話に変化し、やがて語部(かたりべ)達に言い継がれて、語部を家業とする者達が代々子孫や弟子に語り継いで言い継いで数百年が経過した。この段階で既に大昔の物語と化した釈迦の説話を、更に数百十年かかって文字に表わしたのである。

 そんな一書一書が手書きされた「釈迦物語」が数百巻も各地に現れた。その釈迦物語は更に更に何度も書き換え、書き加え、書き直されて、約千年かかって現在のインドである当時の天竺から支那(中国)大陸へ移動していった。

 この原型を殆ど留めない物語と化した釈迦伝説は当時儒教に不満をもつ衆生の間で盛んに読まれるようになった。この梵語(古代インド語)の釈迦伝説物語を漢文に翻訳することを生活手段にする仏教学問僧が各地で、生活のため翻訳業に従事するようになった。後から後から持ち込まれる梵語の釈迦物語を次々に尾鰭を付けて数千巻の経典を作り上げてしまったのである。これを集大成した首謀者は未だに地獄の次元でもがき苦しむ天台である。

 梵語から漢文へと組織的に翻訳されたこの一大作業の中、翻訳者の技量と知識とによって同じ原書を訳してもその結果に差が出ることは避けられず、完全を期すことなど辞書が世界的に発達した現代にあっても不可能である。原意を保って翻訳することはただでさえ難しいのに、定まった国語もない二千年以前の大昔において、口伝され、謬伝(びゅうでん:誤って伝わる)され、膨れ上がって、翻訳され、尾鰭背鰭がついた釈迦伝説謬伝物語になど、一体どれだけの信用があるであろうか。

 古代インド語である梵語に豊かな表現は出来ず、限られた原義をラクダの背に括り付けて、インドから遥々中国まで一書、一書、また一書と数百巻の釈迦物語が二千年もかかって移動したのである。

 その数百巻の釈迦物語が中国大陸で数千巻に膨れ上がったのである。紙一枚に書かれた文書を紙十枚にするのにどれだけの捏造、作話が必要であろうか。九枚分はそこらの町のどこぞの学問僧の‘作品’なのである。そのうえ自らの作品が原書と懸け離れれば離れるほどに学問僧は生活の手段を失うまいと、原書を焼き捨てる念の入り様であった。

 宗派・宗門を問わず、今日現存の仏典は、往時の学問僧の「生活の手段の足跡」であると定義しても過言ではない。最早、完全なフィクションである。  

 この編纂の由来は仏教も基督教も、回教も似たり寄ったりである。
故に今日の仏教も回教も基督教もゴータマ、ムハンマド、イエズスの真に説いた内容は殆ど消滅して、後の世の学問僧や神学者らによる捏造、作話、創作、小説と成り果てたフィクションである。

 肝腎な想念波動とその作用を隠蔽したまま、愚にもつかぬ美辞麗句で膨れあがった謬伝物語を信仰しては高い霊界に往くことがない訳である。またこれを指導した者が、多くの衆生を迷わせた大罪を償うため地獄の次元で猛省を強いられるのも天則の定めるところである。
 因みに、釈迦は折角、因果応報を説き、八正道を説いておきながら、生老病死を四苦として逃れようとしたことが、釈迦の最大の誤りであった。生老病死の意義を悟れなかったのが釈迦の落とし穴だったのである。

 生老病死は魂の進化のためのものであり、このシリーズで述べてきた「悪」である。悪ならぬ「悪」である。「悪憎むが悪ぢゃ」の悪は不正のみを意味するのではなく、身から出た錆とでもいう転生世代間を股にかけた不幸現象も含む。この生老病死を滅ぼそうとするのは、必要な体験から逃避しようとする思想である。

 大愛は、その者が己の力で必ず立ち上がり乗り越えられるだけの試練を課している。簡単すぎる課題も難しすぎる課題もなく、一切の偶然なく絶妙に仕組まれた魂の学習環境、魂の学習教材である。この必要な体験を通じで進化せずに、観念や知識だけで何がどう進化するというのか。

 結局、仏教は地球的視野には立っていたものの、宇宙的視野には立てず、次元上昇を目前にした地球惑星の転換期の中にある今日、最早過去の遺物に過ぎない。基督教も回教も然りである。

 イエスは別格であった。イエスは釈迦やモハメットのように不良惑星人として身を起こした者ではないからである。イエスは五次元霊界から転生した魂である。

 戒律による宗教ではなく、神の愛を説いた高級霊人であった。シリーズ第9回の記事中、便宜的に分類した魂の進化段階において、「人類の導きのため三次元に転生することもある高級霊人」であった。愛を説いたのはイエスが初めてであった訳である。イエスに内在した魂は将に天国から地獄へ降りて愛を説いたのであった。

 (その肉体的特長は、実際は白人ではなく寧ろアジア人に近い小柄で少し猫背の男性だった。古代のユダヤ人の先祖は浅黒い皮膚をしたアジア人に似た種族だったのである。)

 しかし、後の神学者や為政者により、基督教として‘再利用’され、捏造、作話の小説作品化は母マリアの処女懐妊に始まり、果ては当時の教会権力維持のため輪廻転生の否定を会議で人間が決めるなどという愚行(西暦553年にコンスタンチノープルで開催された宗教会議で、それまであった輪廻転生の記述の削除が正式認定され、以後基督教では輪廻転生の概念は異端であるとされた。)等々に至るまで地に落ちた経緯は他宗教と大同小異である。

 (処女懐妊などとこれほど肉体人間を神聖化し、神を冒涜することはない。やる事をやらずして、イエスは試験管で作られたとでも言うのか。)現在、基督教の多くの分派では輪廻転生はないことに‘決めて’いる。

 一大天譴とアセンションの迫った今日、宗教的信仰とその‘後遺症’である勧善懲悪の短絡思考は既に過去の遺物である。善悪を超越しなければいつまでも宗教的善悪論の呪縛から解き放たれることなく、「悪」をみて咎め、責め、滅しようと悪想念を放散する愚を続けることになる。

 邪神は地球人の我欲に付け入って、精神世界に対する惑星人の認識を混乱、攪乱させ、混沌なるものにしてしまったが、彼等の功績が一つだけあるとすれば、唯物科学と唯物思想の蔓延(はびこ)る世の一方で、人間には正邪の判断はつかぬものの、神と呼ばれる偉大なる「何か」の存在に思いを馳せ、唯物思想に抗して神の存在を意識に留めさせた事と言えるであろう。神の社の唯一の存在意義である。

 しかし、地球の次元上昇を目前に控えた今となっては、優良惑星社会の如く、社殿も仏閣も聖堂ももはや不必要である。

 地球人が超能力と呼ぶ、生命進化上賦与される順当な能力、エゴを放擲して初めて自ずと開く次なる能力の獲得をエゴ放擲のバロメータとすべし。この能力の獲得を目的としてはならない。飽く迄、己のエゴ・我欲を打ち捨てるバロメータである。この能力が開顕する暁には、日本神道の天照大神も、仏教の阿弥陀如来も、回教のアッラーの神も、イエスの言う天なる父も、その正体、位置が白日の下に晒され、全てが明かされるであろう。

 宇宙一切偶然はない。善きにつけ悪しきにつけ感謝すべし。全てが己の学習である。不良惑星人の場合、殆どが己の業の償還と心底巣食ったエゴを掘り出すための教材である。辛い作業なるも、明るい気持ちで自己反省と体験を繰り返して向上するより他はない。残された時間は少ないが、短い期間なら尚のこと頑張れもするであろう。前へ、前へ・・・。

≪悪を殺すと云う教や、やり方ではならんぞ。悪を抱き参らせて下されよ。≫

本日これまで。




シリーズ『シルバーバーチャル星人の生活』 
第14回神々の正体(その2)へ


Page Top


main

この改行は必要→
main_box