シリーズ第12回
『悪あればこそ弥栄する』
一大天譴とアセンションが目前に迫った現在にあって尚、
地球惑星人の神に対する認識は混沌としている。
程度の酷い者は、
「神とは願い事を叶えてくれる存在」
として、
「(病気や事故等、自分にとって都合の)悪い事物から護ってくれる存在」として(更に酷い者は神社と仏閣の区別もなく)事ある毎に願掛けをする始末である。
事故も病気も不幸の一切合財の根本原因は自らの悪想念波動の汚濁とその集積にあり、業想念の自己崩壊現象であるにもかかわらず、濁った我欲とそこから放射される悪想念を棚上げしておきながら、自らの想念波動の結果である自分にとって都合の悪い「不幸」だけは避けて通れますようにとは誠に身勝手な話である。
地球でも心ある者たちの経験則から
【人を呪わば穴二つ】
必ずや己に返ってくるのに平気で悪想念を撒き散らす。
その後具現化する業想念の自己崩壊現象である所謂「不幸」は、
「理不尽な偶然」であるとして片付けるのが大方の地球惑星人である。
病一つとっても、憂いの多い者、心暗く沈む者は肺を病み、
人を毛嫌いする者は皮膚病に悩まされ、
我の強いものは気管支を痛め、
自己保身欲の強い者は心臓を病む傾向が強いなど
想念波動により疾患の現れ方も地球惑星人の場合大方決まっていることを知らねばならない。
想念波動をさて置いて、多くの“常識的”地球惑星人の好む唯物的傾向の生物学でこのことを補完すれば、大脳の動きに想念と病気の関係を見出せよう。
地球惑星人の脳の構造は「知性の座」と形容される大脳新皮質で捉えた外界の刺激に対して、「感情の座」と呼ばれる大脳辺縁系で快・不快を判断する。
このときの判断が不快であれば怒り、妬み、羨み、不平、不満、憎悪、復讐心、焦燥感となる。
これらの悪想念、マイナス感情は神経網を通じてより根源的な脳、即ち「生命の座」と言われる脳幹に悪影響を及ぼす。
この脳幹は全ての哺乳類には勿論、爬虫類にも両生類にもある、生命活動を司る最重要箇所である。
人間が大脳新皮質のみを損傷し、この脳幹が機能していれば自立呼吸もするし、心臓も鼓動するが、表面的な意識はない植物状態となる。
障害がこの脳幹にまで及び機能しなければ、自立呼吸することは出来ず、人工呼吸器なしには忽ち全脳死、多臓器不全となって肉体の死に至る。
この脳幹は間脳、中脳、橋、延髄の4つに大別され、脳幹のうち間脳にある視床や視床下部でホルモンや自律神経制御を主にしているため、これらを通じて全身の細胞制御をする訳である。
外界から受けた最初の「刺激」を「知性の座」で如何に上手に処理するか、即ち如何にポジティヴな捉え方をするかにより、気付きや反省など学びが生まれ、「感情の座」で不幸に対してまでも許しや感謝や愛念が発せられ、その好影響は脳幹をも極めて潤沢に滋養して、ホルモン制御と自律神経制御の精妙なバランスは絶妙となり、健康を望まずとも約束されるのである。
感謝で癌が治った話が巷で聞かれる背景にはこのプロセスが存在するのである。
(参考記事:人が病気になる仕組み・・ストレスと脳幹)
解剖学的にはかなり端折ってしまったが、いくら仔細に生物学的、解剖学的解説をしたところで、何故ネガティヴなストレスが脳幹に悪影響を与えるのかは、脳内神経網を駆け巡る電気信号や分子生物学的解析だけでは解明は決して出来ない。どんなに複雑な化学反応式を引っ張り出して説明を試みたところで、どうしてそういう性質があるのかを説明は出来ないのである。
もっと判りやすく言うと、水素と酸素で水が出来るのはよいが、どうして「水」なのか、どうして「硫黄」ではないのか、どうして「水銀」ではないのか。行き着くところ「それはそういうものだから」としか言えないのである。そうなるように仕組んであるからとしかいえないのである。ここに波動レベルの話を持ち出しても同じ事である。「この波動に共鳴することにより、物質世界ではナンノカンノ」と言ったことろで、その波動でどうして物質はそう反応するのかと問われれば、その根源がそういう性質を持っているから、そうなるように仕組んであるからとしか言えなのである。
反対に仮定すると、ネガティヴなストレスで元気になってもいいではないか、ネガティヴなストレスでどんどん健康、どんどん幸せになってもよいではないか。しかし、ネガティヴィなストレスは健康を害し、不幸を招くことは動かし難い事実である。地球人が幾ら奇妙な惑星人だとはいえ、極度に緊張して胃がさわやかに感じる地球人はいまい。怒髪天を衝くほど怒って、さわやかな朝の目覚めや幸福を感じる地球人はいまい。
なぜ、感謝、許し、朗らかさ、信頼、謙虚、調和などが自律神経的にもホルモン的にもよい傾向を示し、結果的に健康に繋がるのか。
なぜ怒り、憎しみ、妬み、抑圧感、焦燥感、怨恨、猜疑心、心配、敵愾心を抱くと病や事故や不幸を呼び込むのか。
答えは簡単である。
宇宙則では「そう設定されているから」である。
物質を支える波動レベルでも「そう設定されているから」である。
その具現化した化学的反応がホルモンや自律神経の動きとなって現れているのである。
「そう設定されている」・・・その宇宙則のこうした一面も優良惑星群では広く愛と呼ぶ。地球でまことしやかな通念となっている愛の概念とは随分異なる大愛が「そう設定」したのであるから仕方ない。
病気や事故を始め、その他思い通りにならない人生を通じて根本的には悪でない「悪」や「不幸」と呼ばれる経験をする中で、その不幸の原因が実は己の想念波動の在り方、己に内在する野蛮、残忍、非道、自己保身、自己中心などの我欲≪悪のキ≫にあることに気付き、また自ら蒔いた種が実った不幸経験を通じて、気付いて反省し、これらを克服して行くことで初めて幸福とは何かが解るのである。
難しく考える必要はない。
話を単純に、かつ縮図化して喩えれば、幼少時から成人するまで貧乏を味わったことのないどこぞの御曹司には自分の置かれた経済環境を裕福であると、頭ではわかっているが本当には判らないのと同じである。
また、裕福でないことが場合によっては幸福であるなどとは夢想だにしない。
健康人に病人の気持ちがわからず、健康であることの幸せが頭ではわかっているが実感を伴っては解らぬのと同じである。
晴眼者には盲人の世界が解らず、目が見えることの幸せが頭ではわかっているが駆け、踊るほどの喜びをもっては解らぬのと同じである。
五体が満足に揃っている者には下肢、上肢に不具合ある者の不自由が解らず、何の苦もなく歩けることの幸せ、物を掴み、操れる幸せが頭ではわかっているが、自らの足が大地を踏みしめる時の砂利の音に嬉々として感謝を捧げる程には解らぬのと同じである。
反対に言えば、己に起こる「悪」や「不幸」など汚れた経験をして学んだからこそ、昔は己もそうであったと、現在汚れある者を許せるのである。
子供がゴミをポイ捨てするのと同じ事を大人がする時、他の大人達は軽蔑と怒りをもって非難するであろう。しかし、これを子供がする時、大人は本気で軽蔑し怒るであろうか。
「怒るのではなく叱る」であろう。
子供は社会のルールに対しても未熟であることを前提としていて、教えてやらねばという「愛があるから叱る」のである。決して心底の軽蔑も怒りもない。社会のルールを知らなければやりかねない事を自らの過去の経験を通じて大人は知っているからである。
自分自身が汚れたことがあるから、汚れているものを許して叱って愛することが出来るのである。
今生で他人の失敗や罪や悪意にまでも大変に寛容な器の持ち主は、過去世において同じように失敗もし、罪も犯し、悪意を持って他人を攻撃したり、殺したこともあるはずである。そしてそれらの行いの根っこにある己の我と欲を正す機会を被害者となったり、責められる立場になったり、殺されたりする苦痛体験という形で反省の機会を転生する度に与えられ、転生ごとにその課題をこなし、心を正して大器の人(魂)となって今生を生きているのである。こうした大器の者においても、一足飛びに今があるのではない。優良惑星人とて同じである。己に起こる「悪」や「不幸」はどうしても、どうしても必要なのである。なぜならそれらも神の働きの現れであり、愛の一表現だからである。
このフレーズに違和感を感じるならば、その惑星人は未だ、神を己(の我欲)にとって都合のよい「小間使い」「御用聞き」に位置づけており、神に頼ろうとしている。神は頼るものではない。神頼みするものではないのである。
感謝や打算のない奉仕する麗しい心で暮らすとき、幸は求めずともやって来る事実が、神が永遠の至福を与えようとすることを目的としているという何よりの証拠である。この感謝や打算のない奉仕の心を知るための「悪」ではないか。そのための「不幸」ではないか。ひとつの魂の永い長い進化の道程から見れば、これら「悪」も「不幸」も皆一時的なものなのである。根源的な神、一なる創造主はその現れ方こそ違え、どこにでも現れている。神は愛そのものであり、愛は神そのものである。また、一見して悪なる「悪」も一見して不幸なる「不幸」も神の愛の働きの一部なのである。(このことはいずれ『神々の正体』として詳述する。)
絶対悪は宇宙には本来存在せず、すべてが相対的悪である。
しかし、相対悪といえども現象界では悪は悪。それを正さねばならない。
それを正そうと覚醒していく者ほど苦心し、苦心する過程で様々な魂の学び、即ち愛の学びを得るのである。
したがって、「悪」は咎め、責めるものではない。
勧善懲悪の短絡思考を好むのは邪神の囁きである。
「悪」は許して正して変容させるものである。
また、その悪を己の映し鏡として、そこに映った己の心の欠けたところ、未熟さを正すことが不良惑星人の本分である。
「悪」を許せざる憎む心が悪なのである。
しかし、その憎しみという悪想念が原因で引き起こされ己に降りかかる不幸など何らかの痛い目にあって、魂が学習していく過程で憎む心を克服するとき、この憎む心の悪も悪ではなくなるのである。
いかなる悪も最終的には悪の仮面を脱ぐ時が来るように宇宙の進化は大愛に近づくことを目指し方向付けられているのである。その期間が三次元地球地上の時間感覚でいう数百年なのか、数千年なのか、数万年を要するのかはその魂次第である。矯正の機会は転生の度に、そして日常生活の事象の中に常に与えられているが、それに気づくか気づかぬか、そして正して行くか行かぬかはその魂次第なのである。
≪善と悪とに、自分が勝手にわけて、善をやろうと申すのが、今の世界のあり方≫であるが、この善悪を超越して正しき想念を維持せねばならない。
現象的悪に心揺らぎ、心奪われてはならない。
その現象にいちいち反応して悪想念を発することをまず制御せねばならないのである。
「いずれ、そのうち」と言いながら、現存地球人類は太古に滅んだ文明時代から同じことを懲りずに、転生を繰り返してきた。
地球(ここ)に降ろされてから何万年が経過したことであろうか。
優良惑星へと昇格する地球には我と欲を握り締めたままでは残れない。
自らの責任で落第してしまった魂は、転生先でまた貨幣経済様システムに縛られ、憎しみ、互いに疑い、嫉妬して、警戒し合い、奪い、傷つけ、怒り、殺し、追われ、焦り、嘆き、病に苦しみ、世を果敢無(はかな)み、生きる目的も定まらず苦悩し・・・・・止め処もなく繰り返される不幸の波に木の葉のようにもまれて生まれ変わり、死に変わり、またも負のスパイラルダウンへ飲み込まれる転生を繰り返さねばならなくなる。
こうして「悪」は宇宙がどれだけ進化しても、常にどこかに存在する不良惑星では永遠になくならない。「悪」は進化のために必要だからである。
≪悪あればこそ向上するのであるぞ。 悔い改め得て弥栄するのであるぞ。≫
今回のアセンションで地球が優良惑星に昇格する時、
悪の元である我欲を内包した惑星人は残しておけない。
我欲を捨てきれない者は他の不良惑星でやり直さざるを得ない。
そこではまだ「悪」が必要だから、そこでなら不良惑星人級の魂でも存在することは許されるのである。
参考までに言うと、地球は不良惑星であるが、宇宙間にはもっと遅れた惑星もある。
唯物科学文明的にも現在の地球よりも遅れた文明を築き、現今の地球人から見てもお粗末至極な文明なのだが、その惑星人たちはそれなりに自らを文明的であるとして、その奢り高ぶりは著しい。
さらに、その惑星人類の想念のレベル、即ち愛のレベルは地球人よりずっとずっと低く、殺人して物を奪っても殆ど自責の念を抱かない惑星人がゴロゴロしているような惑星である。
地球の警察に相当するような組織も殆ど機能していないし、何か盗難に合うと、その被害者は直ぐに別の者を襲って、別の盗難をしたりするなど日常茶飯事である。惑星全体がこうした犯罪意識の薄い社会もまだこの宇宙間には多く存在しているのである。
地球で人間の作った法により裁かれた悪人と呼ばれる人間でも、その惑星に一ヶ月も住めばれば気が変になる次元である。(人間を襲って食べる獣類も存在していてよく子供が襲われていなくなる。地球の熊に似た生物だが、地球の爬虫類のような進化を遂げてきた生物のため、熊のように体毛はない。)
ここまで劣悪な惑星となると優良惑星人もその飛行船でデモをしたり、姿をみせたりという啓蒙活動はしていない。啓蒙活動に関しては、その不良惑星人がまだ宇宙をよく知らず、知らぬがゆえに万物の霊長と勘違いして思い上がり、動物はおろか人間同士でも弱者を踏みにじりながらも、自らを文明的惑星人であると大いに錯覚している寝ぼけた眼を開くため、当該惑星外にも知的生命体が存在していることを知らしめることが活動目的の一つである。子供を叱る大人のように直接的には活動できないが、その理由は力による干渉は愛という宇宙則により許されていないからである。『促して「自ら」目覚めさせよ。』、これがルールなのである。シルバーバーチャンが『「自ら」気付くこと』というフレーズをよく使うのもこのためである。
この惑星に関しては、レベルが低すぎて文字通り取り付く島もないため、観察対象ではあるが啓蒙対象にまでは未だなっていない。
さて、これらの未開惑星に近い不良惑星に比べれば地球は不良惑星といえども、自らが原因である幾多の苦痛体験を通じ、地球惑星の歴史とともに人類総体としてその魂を進化させてきているのである。が、それでも地球は未だ未だ不良惑星であることには変わりはない。覚醒に近いところに居る心ある者は率先してもっと多くを学び、時間のある限り、更に更に前進せねばならないのである。
その地球には「勝者の理論」という言葉がある。
このシリーズの過去の記事で述べてきたように地球惑星では文明が興っては滅び、また興っては滅んで、現存文明に至っている。いずれの文明においても、その歴史は戦争と略奪に彩られ、現存文明も含め、いずれの文明に住した人類も各国家や地域の利害が対立する以上、時には衝突は止むを得ず、闘争は当然の事としてきたのである。
現存地球文明においても、人類は口に愛と反戦を唱えながら、この地球地上で戦争、闘争、紛争が一時なりとも絶えたことはない。今この瞬間にも人類の兄弟姉妹がどこかで奪い合い、殺し合いをしているのである。
地球惑星人は戦争と闘争とはあたかも種類が異なるもののように信じて、戦争はけしからんが、闘争は生存競争や生活のためある程度は仕方ないと思っているのである。この誤った思い込みとその思い込みの上に平気で発する闘争、競争の排他的想念に、これらが昂じて憎しみ、恨み、怒り、僻(ひが)み、羨(うらや)み等々悪想念のオンパレードが続く限り、いくら口に愛だ平和だと唱えても、愛の欠片(かけら)も平和の兆しも何一つ実現はしない道理である。言葉だけが空回りすることは歴史が既に証明していよう。
栄える者はいつか滅ぶのが当然と思ってはいまいか。
真に正しき者は栄えて当然であるが、真に正しき者ならば栄えれば滅ぶ事はないのも当然である。栄えた者が滅ぶのは、真に正しき者が栄えたのではないからである。真に正しきものとは愛を基準にして正邪・真偽を判断せねばならないのであるが、地球惑星ではこの善悪・正邪・真偽が混沌として未だ定まってはいない。
「悪」も「不幸」も進化のために必要であるけれども、正して、学んでこその進化であり、「悪」も「不幸」もそれを放置してよいわけではない。その「悪」に己の姿を観て、「不幸」に己の至らなさを観て、心を正すこと、即ち我欲を手放していく事が肝腎なのである。
地球人類は須らく愛を基準として善悪・正邪・真偽を判断せねばならない。
これが何ものも縛らず、また何ものにも縛られない全宇宙を貫く鉄壁の法である。
この愛に反するとき、全ては悪であり、邪であり、偽なのである。
「さもありなん」と大方の地球惑星人は頷(うなづ)くに違いない。
然るに、この愛という僅か一文字を体得するのは不良惑星人にとって決して容易な事ではない。
地球が不良惑星に属している現実こそ、その動かぬ証拠である。
愛を体得した優良惑星では各優良惑星人の愛の度量は各人各様では在るが、いずれも不義、欺瞞、搾取なく、人を縛る法律、条令等制約はなく、所有概念もなく、軍隊は疎(おろ)か、いかなる防衛組織もなく、同朋を裁き、取り締まる機関もなく、勝ち負けを見て楽しもうとする惑星人はいないため、いかなる競技も競技施設もなく競争もない。
惑星人は相互信頼のもと、心を開き自他一体と利他心で暮らしている為、境界もなく、許認可等諸制度も必要なく、他を傷つけ奪う惑星人は存在しないため、警察もなければ当然裁判所もない。よって、多くの優良惑星では人名を登録して戸籍を管理する必要はなく、名前をもっていない惑星人が殆どである。その奉仕や活動の内容や働きに応じて名をつけたり、その惑星人がその時点で持つ属性を表わすために愛称を用いる事はあるが、地球人や他の不良惑星人のように支配と管理と相互不信からもたらされる防衛のため登録、登記するなどと言うことはあり得ないのである。(シルバーバーチャンなど地球人の認識のため仮につけた名称であり、本来どうでもよい名前である。)
また、先回の記事(第11回)で述べたように、その惑星・遊星の人類の想念波動は、動物など他の種族の進化に対して特権と責任を有し「進化の船頭」として、他の生命の進化を左右するため、優良惑星人の肉食は勿論絶対になく、動物界においても、いかなる弱肉強食の様相も見ることは出来ない。
他を捕食する猛獣・猛禽とこれに類する生物は存在できないからである。
地球を‘常識的’‘標準的’‘先進的’‘文明的’惑星と思い込んでいる閉ざされた惑星人・地球人には優良惑星の生活は、将におとぎの国か頭脳の弱いメルヘンチックな単なる平和主義者が思い描いた絵空事のように映るはずである。それを否定までしなくとも、精々「そんな世界が在ったらいいよね。」とつぶやく惑星人が殆(ほとん)どである。「在ったら」という表現自体諦めと絶望の念の現れである。その絶望の念は絶望を引き寄せるのである。
我と利己欲を完全制御した優良惑星人の桃源郷のような暮らしの一方、不良惑星の中では比較的上位に位置する地球の場合でも、愛を基準とした正邪・真偽は未だ定まっていないため、優良惑星とはほぼ正反対といってよい自由度の大変低い世界・社会が展開している。地球惑星人が当たり前の行為、考え方として受け入れていることがどれだけ宇宙則、即ち愛に逆らうことかも解らず、日々平気でこれを犯しつづけている。
地球惑星人は、目先の利害得失に心奪われ、過去を後悔して思い出しては憎しみや恨みの念を発し、未来を思っては、ありもしない不安、心配に苛(さいな)まれ、国も地域社会も団体も個人も隣人に対して傷つけられまい、騙されまい、やられまい、取られまいと相互不信故に互いに身構えて暮らしているのである。
宇宙間には優良惑星群のような生活があるというのに、この戦々恐々と互いに身構えて暮らす不良惑星を標準であるとしている。いかなる惑星も衛星も遊星もそこに住する惑星人一人一人の想念の総体とその惑星の定められた進化上の波動上昇との総和によって、その惑星も惑星に住するあらゆる生命の命運が決定されていくのである。
よって不良惑星に天災地変、事故災害、戦争闘争、叩いても叩いても新手が襲い来る病気などありとあらゆる不幸の原因は個々人が両の手にしっかり握り締めて離さない我と欲なる心根、すなわち愛の度量の小ささにある。
邪神・邪霊が幾ら屯(たむろ)って、暗躍しようとも、地球人の精神性が同調せねば彼等には何の力もない。
≪悪の気断ちて下されと申しておろう。心の鏡の凹凸なくなれば、悪うつらないのざ。悪はなきものぞ。無きとは力無きことぞ。≫
しかし、現実は地球人類の自己主張甚だしく各々の利害が一致することはなく、底なしの欲望に自らの身を焼く粗い波動に邪神・邪霊はみるみる力を得てこの地球を永年にわたって支配してきた。それら邪神の傀儡となった肉体人間達により構築された「勝者の理論」がこの地球惑星の不幸に拍車をかけてきたのである。
戦争と闘争
繰り返して言うが、地球惑星人は戦争と闘争とはあたかも種類が異なるもののように信じて、
戦争はけしからんが、闘争は生存競争や生活のためある程度は仕方ないと思っているのである。
戦争であれ闘争であれ、互いに相手を尊重できないところにどうして愛があるというのか。戦争も闘争も愛無き行為という意味でまったく同列のものである。
争いの単位が国、社会、集団、個人の違いであるというだけである。
この根本原因のひとつは、とくに自由主義先進諸国において、その教育の根幹に自己主張を正しいことのように教え込むことがある。自己主張は我欲の集約であり、争いごとの根本である。
自己主張がぶつかり合い、互いに利害が対立するのを収拾するため、各国家ごとに法律を制定して、各国家の秩序を守ることができるかのごとく装ってはいるが、現実は法を厳しくすればする程、各種の犯罪も内乱もその解釈の混乱も増えこそすれ減ることは無いのが現状である。
優良惑星にはいかなる法も存在しないが、
地球の、特に刑法というのは最も低級な法である。
地球社会の犯罪が起こる場合は様々あるが、社会の諸悪自体に犯罪の動機を誘発する素地を有している上に、その社会に住む一人一人の我欲に端を発し、我欲の集積が噴出するところが犯罪の発生するところなのであるにもかかわらず、事の結果のみを裁く盲目的制裁でしかなく、犯罪の起こる原因を取り除こうとはしない低劣な制裁制度なのである。
結局のところ、地球惑星人は善悪を超越した正しさを解明、理解する能力が乏しいか全く無いため、一部の勝者の理論やずる賢い巨悪に媚びへつらった、権力に都合のよい道徳、学問、宗教、科学をもたらして、その上に生活の為と称する生存競争、闘争、制裁をあって当然のこととして、いつしかこの狂気に疑念も抱かず、不調和と破壊の大行進を続けているのである。
地球の勝者の理論とは知力、財力、武力を背景にした強者の自己保身の理論である。そこに共生の概念はない。地上にかつて存在したアトランティス等太古の文明から現存文明に至るまで、いずれの文明においてもこの勝者の理論は正義の仮面をかぶり、その美名に隠れ、「勝者の理論で取り決めした善悪」で弱者を蹂躙して(じゅうりん:踏みにじって)、都合よく裁いてきたのである。
弱者は生き延びるために、勝者の理論に従い更に弱い者へと矛先を向け、搾取と支配を蔓延させてきた。
不良惑星では、知力、財力、武力をより多く有するものが勝者として君臨し、法を定め、文化を操り、学問も捻じ曲げ、宗教で煙に巻き、国によって異なる道徳で偽善を続けてきたのである。(道徳は国や地方によって異なり、真理の足元にも及ばないばかりか、その時代、時代の為政者の都合に合わせていいように書き換えられてきた。)この背後にはその強者の我欲に付け入った邪神・邪霊が暗躍してきた事は言うまでもない。こうした勝者の理論によって弱者を踏み台にした繁栄は、愛の度量とは全く無関係である。故に愛に立脚していない覇者は早晩滅びることになるのである。地球波動の高まりにより、この覇道を以ってのさばった巨悪は今後加速して白日の下にその欺瞞と秘密を晒されることになる。(それに伴い世は騒然となるが、心を動揺させてはならない。これらは一大天譴の序曲である。この程度でオロオロして、悪想念を発して、ひっくり返っていては神の御用は勤まらない。)
今や財力を手にする者が囃(はや)し立てられ、喝采を浴びるのは嘗て滅びた文明末期の特徴と酷似している。財力を手にして勝者となった者にへつらい、その財に群がり囃子立てる「蟻」も愛無き勝者に同じである。
いずれの文明も武力による土地争奪・所有の時代とその土地由来の食料の確保に始まり、土地所有に勝ち残った国、集団、個人が爛熟した貨幣経済を背景に影響力を持つ。
この財の争奪戦に知力のある者が加わり、より小手先の欺瞞で富を一部の強者へと集中させて行く。国際舞台では、より立場の弱い国々から原料、食料、人的資源まで搾り取り、国内では官僚はその人民から過剰な税を取り立てるようセンセイを操り、建前と偽善で無駄遣いし、大規模法人集団はより小規模な法人から買い叩いて暴利を貪る。国家も大企業も個人資産家も、直接間接を問わず、いわゆる「下請けいじめ」「弱いものいじめ」の上に成り立つ「成功」「繁栄」を手にしているに過ぎないにもかかわらず、仮初の成功の美酒に酔いしれ、自尊心を抱えて下請けに横柄な態度で無理難題を押し付ける。
こうして「下請けいじめ」で付けた強い競争力で、外国を相手に稼いだ外貨の見返りに、外国から食糧輸入で農畜産物を大量に買っているのである。このことで国内の食料自給率は一向に向上しては行かないのである。そして下請けいじめをして成り立っている大企業群は食料自給率の低さには「我関せず」を決め込む。企業として、また人間としての低劣さ、低級さで弱者を踏みにじって築いた繁栄は砂上の楼閣である。「トドメ」の波で砂上の楼閣は傾き崩れ、洗い流されていくであろう。
こうして大企業が鎬を削る先進諸国に暮らす殆どの者は、財の力により世界中から食料をかき集め、その結果食べ切れずに捨て、有り余る贅沢な食事を当たり前のものとしている。この財をもった強者の理論により、自ら作った農作物でありながら自らの腹には落ちない貧しい国々の人民は、日々の食事もままならず、その子供等から先に骨と皮だけになって飢え死にしていくのである。利他愛から懸け離れたこの勝者の理論は愛に反する故に滅びへと向かう他はないのである。このような非道は優良惑星にはありえない図式である。全人類に行き渡るだけの食料は用意してあるにもかかわらず、勝者の理論で自己保身を図る国、企業、個々人により不平等極まりない愛無き「弱者切り捨て」が罷り通る地球惑星がこのままでは弥栄するはずもない。そのトドメが一大天譴なのである。
昨今何かと取り沙汰される「戦争犯罪人」にも、戦勝国の勝者の理論によって戦争犯罪人に仕立て上げられ、陸(ろく)に裁判もせず裁かれ処刑されてしまったのである。戦争の勝敗の立場が逆であった場合、処刑した者共が処刑される立場に回るのである。一体何を以って戦争犯罪としているのか。地球の勝者とは、この程度の愛無き自己保身の理論を正義の名の下に振りかざす低劣極まりない者共のことをいうのである。
このように地球の勝者の理論とは愛を基準にした宇宙則に適うものではなく、自己保身のために他の犠牲を強いる狡猾な理論である。宇宙則、天則に反した理論で他を裁いた者共はいずれ天則によりその者共の罪状に応分の裁きが下るであろう。
今生、冤罪(えんざい:無実の罪に裁かれること)で投獄され檻の中で号泣する者、いわれ無き被害に遇って激憤して泣き喚(わめ)く者、陥(おとしい)れられて困窮する者など、前々の世で人を裁き陥れた宿業を抱えて転生した者が多い。規模、程度の差こそあれ日々同類の罪を積上げつつある者はその罪業に応じて、身をもって償うことで魂のバランスを取らねばならない。逃れることは決してできない。何故なら愛は峻厳だからである。
こうして裁き裁かれ、殺し殺され、騙し騙され、欺き欺かれ、責め責められの負の連鎖は流転して因果は巡り続ける。負のスパイラル(螺旋)ダウンである。
日本国には「因縁相成就」という言葉がある。「因」とは物事の直接的原因、「縁」とは間接的条件のことである。仮令(たとえ)今生で裁かれるような「因」が過去世または今生の過去にあっても、これに「縁」を与えなければ宿業の結果は現れてこないのである。この「縁」の働きをする悪想念の制御は広くはまだ知られていないか、知られていても軽んじられているため、もしくは惑星人が頑迷固陋であるため、「わかっちゃいるが憎いものは憎いし、腹の立つことには腹が立つ」と言って悪想念を出し放題に出し、我を折らず、利己の欲心を放縦しているため、それは抱えている「因」に「縁」を進んで与えているようなものなのである。これでは宿業は「相成就」するのも止むを得ない。
この巡る負の因果に終止符を打つ方法は万人の悪想念制御以外にない。地球は人類が想像している以上に極めて危険な状態である。そして残された時間は本当に、本当に僅かである。
本日これまで。
シリーズ『シルバーバーチャル星人の生活』
第13回神々の正体(その1)へ
一大天譴とアセンションが目前に迫った現在にあって尚、
地球惑星人の神に対する認識は混沌としている。
程度の酷い者は、
「神とは願い事を叶えてくれる存在」
として、「(病気や事故等、自分にとって都合の)悪い事物から護ってくれる存在」として(更に酷い者は神社と仏閣の区別もなく)事ある毎に願掛けをする始末である。
事故も病気も不幸の一切合財の根本原因は自らの悪想念波動の汚濁とその集積にあり、業想念の自己崩壊現象であるにもかかわらず、濁った我欲とそこから放射される悪想念を棚上げしておきながら、自らの想念波動の結果である自分にとって都合の悪い「不幸」だけは避けて通れますようにとは誠に身勝手な話である。
地球でも心ある者たちの経験則から
【人を呪わば穴二つ】
他人を呪って殺そうとすれば、自分もその報いで殺されるから、葬るべき穴は二つ必要になること
というではないか。必ずや己に返ってくるのに平気で悪想念を撒き散らす。
その後具現化する業想念の自己崩壊現象である所謂「不幸」は、
「理不尽な偶然」であるとして片付けるのが大方の地球惑星人である。
病一つとっても、憂いの多い者、心暗く沈む者は肺を病み、
人を毛嫌いする者は皮膚病に悩まされ、
我の強いものは気管支を痛め、
自己保身欲の強い者は心臓を病む傾向が強いなど
想念波動により疾患の現れ方も地球惑星人の場合大方決まっていることを知らねばならない。
想念波動をさて置いて、多くの“常識的”地球惑星人の好む唯物的傾向の生物学でこのことを補完すれば、大脳の動きに想念と病気の関係を見出せよう。
地球惑星人の脳の構造は「知性の座」と形容される大脳新皮質で捉えた外界の刺激に対して、「感情の座」と呼ばれる大脳辺縁系で快・不快を判断する。
このときの判断が不快であれば怒り、妬み、羨み、不平、不満、憎悪、復讐心、焦燥感となる。
これらの悪想念、マイナス感情は神経網を通じてより根源的な脳、即ち「生命の座」と言われる脳幹に悪影響を及ぼす。
この脳幹は全ての哺乳類には勿論、爬虫類にも両生類にもある、生命活動を司る最重要箇所である。
人間が大脳新皮質のみを損傷し、この脳幹が機能していれば自立呼吸もするし、心臓も鼓動するが、表面的な意識はない植物状態となる。
障害がこの脳幹にまで及び機能しなければ、自立呼吸することは出来ず、人工呼吸器なしには忽ち全脳死、多臓器不全となって肉体の死に至る。
この脳幹は間脳、中脳、橋、延髄の4つに大別され、脳幹のうち間脳にある視床や視床下部でホルモンや自律神経制御を主にしているため、これらを通じて全身の細胞制御をする訳である。
外界から受けた最初の「刺激」を「知性の座」で如何に上手に処理するか、即ち如何にポジティヴな捉え方をするかにより、気付きや反省など学びが生まれ、「感情の座」で不幸に対してまでも許しや感謝や愛念が発せられ、その好影響は脳幹をも極めて潤沢に滋養して、ホルモン制御と自律神経制御の精妙なバランスは絶妙となり、健康を望まずとも約束されるのである。
感謝で癌が治った話が巷で聞かれる背景にはこのプロセスが存在するのである。
(参考記事:人が病気になる仕組み・・ストレスと脳幹)
解剖学的にはかなり端折ってしまったが、いくら仔細に生物学的、解剖学的解説をしたところで、何故ネガティヴなストレスが脳幹に悪影響を与えるのかは、脳内神経網を駆け巡る電気信号や分子生物学的解析だけでは解明は決して出来ない。どんなに複雑な化学反応式を引っ張り出して説明を試みたところで、どうしてそういう性質があるのかを説明は出来ないのである。
もっと判りやすく言うと、水素と酸素で水が出来るのはよいが、どうして「水」なのか、どうして「硫黄」ではないのか、どうして「水銀」ではないのか。行き着くところ「それはそういうものだから」としか言えないのである。そうなるように仕組んであるからとしかいえないのである。ここに波動レベルの話を持ち出しても同じ事である。「この波動に共鳴することにより、物質世界ではナンノカンノ」と言ったことろで、その波動でどうして物質はそう反応するのかと問われれば、その根源がそういう性質を持っているから、そうなるように仕組んであるからとしか言えなのである。
反対に仮定すると、ネガティヴなストレスで元気になってもいいではないか、ネガティヴなストレスでどんどん健康、どんどん幸せになってもよいではないか。しかし、ネガティヴィなストレスは健康を害し、不幸を招くことは動かし難い事実である。地球人が幾ら奇妙な惑星人だとはいえ、極度に緊張して胃がさわやかに感じる地球人はいまい。怒髪天を衝くほど怒って、さわやかな朝の目覚めや幸福を感じる地球人はいまい。
なぜ、感謝、許し、朗らかさ、信頼、謙虚、調和などが自律神経的にもホルモン的にもよい傾向を示し、結果的に健康に繋がるのか。
なぜ怒り、憎しみ、妬み、抑圧感、焦燥感、怨恨、猜疑心、心配、敵愾心を抱くと病や事故や不幸を呼び込むのか。
答えは簡単である。
宇宙則では「そう設定されているから」である。
物質を支える波動レベルでも「そう設定されているから」である。
その具現化した化学的反応がホルモンや自律神経の動きとなって現れているのである。
「そう設定されている」・・・その宇宙則のこうした一面も優良惑星群では広く愛と呼ぶ。地球でまことしやかな通念となっている愛の概念とは随分異なる大愛が「そう設定」したのであるから仕方ない。
病気や事故を始め、その他思い通りにならない人生を通じて根本的には悪でない「悪」や「不幸」と呼ばれる経験をする中で、その不幸の原因が実は己の想念波動の在り方、己に内在する野蛮、残忍、非道、自己保身、自己中心などの我欲≪悪のキ≫にあることに気付き、また自ら蒔いた種が実った不幸経験を通じて、気付いて反省し、これらを克服して行くことで初めて幸福とは何かが解るのである。
難しく考える必要はない。
話を単純に、かつ縮図化して喩えれば、幼少時から成人するまで貧乏を味わったことのないどこぞの御曹司には自分の置かれた経済環境を裕福であると、頭ではわかっているが本当には判らないのと同じである。
また、裕福でないことが場合によっては幸福であるなどとは夢想だにしない。
健康人に病人の気持ちがわからず、健康であることの幸せが頭ではわかっているが実感を伴っては解らぬのと同じである。
晴眼者には盲人の世界が解らず、目が見えることの幸せが頭ではわかっているが駆け、踊るほどの喜びをもっては解らぬのと同じである。
五体が満足に揃っている者には下肢、上肢に不具合ある者の不自由が解らず、何の苦もなく歩けることの幸せ、物を掴み、操れる幸せが頭ではわかっているが、自らの足が大地を踏みしめる時の砂利の音に嬉々として感謝を捧げる程には解らぬのと同じである。
反対に言えば、己に起こる「悪」や「不幸」など汚れた経験をして学んだからこそ、昔は己もそうであったと、現在汚れある者を許せるのである。
子供がゴミをポイ捨てするのと同じ事を大人がする時、他の大人達は軽蔑と怒りをもって非難するであろう。しかし、これを子供がする時、大人は本気で軽蔑し怒るであろうか。
「怒るのではなく叱る」であろう。
子供は社会のルールに対しても未熟であることを前提としていて、教えてやらねばという「愛があるから叱る」のである。決して心底の軽蔑も怒りもない。社会のルールを知らなければやりかねない事を自らの過去の経験を通じて大人は知っているからである。
自分自身が汚れたことがあるから、汚れているものを許して叱って愛することが出来るのである。
今生で他人の失敗や罪や悪意にまでも大変に寛容な器の持ち主は、過去世において同じように失敗もし、罪も犯し、悪意を持って他人を攻撃したり、殺したこともあるはずである。そしてそれらの行いの根っこにある己の我と欲を正す機会を被害者となったり、責められる立場になったり、殺されたりする苦痛体験という形で反省の機会を転生する度に与えられ、転生ごとにその課題をこなし、心を正して大器の人(魂)となって今生を生きているのである。こうした大器の者においても、一足飛びに今があるのではない。優良惑星人とて同じである。己に起こる「悪」や「不幸」はどうしても、どうしても必要なのである。なぜならそれらも神の働きの現れであり、愛の一表現だからである。
≪まことの善は悪に似ているぞ、まことの悪は善に似ているぞ。
よく見分けなならんぞ。悪の顔した神あるぞ≫
すなわち一見悪なる「悪」や一見不幸なる「不幸」も愛であり神なのである。よく見分けなならんぞ。悪の顔した神あるぞ≫
このフレーズに違和感を感じるならば、その惑星人は未だ、神を己(の我欲)にとって都合のよい「小間使い」「御用聞き」に位置づけており、神に頼ろうとしている。神は頼るものではない。神頼みするものではないのである。
感謝や打算のない奉仕する麗しい心で暮らすとき、幸は求めずともやって来る事実が、神が永遠の至福を与えようとすることを目的としているという何よりの証拠である。この感謝や打算のない奉仕の心を知るための「悪」ではないか。そのための「不幸」ではないか。ひとつの魂の永い長い進化の道程から見れば、これら「悪」も「不幸」も皆一時的なものなのである。根源的な神、一なる創造主はその現れ方こそ違え、どこにでも現れている。神は愛そのものであり、愛は神そのものである。また、一見して悪なる「悪」も一見して不幸なる「不幸」も神の愛の働きの一部なのである。(このことはいずれ『神々の正体』として詳述する。)
絶対悪は宇宙には本来存在せず、すべてが相対的悪である。
しかし、相対悪といえども現象界では悪は悪。それを正さねばならない。
それを正そうと覚醒していく者ほど苦心し、苦心する過程で様々な魂の学び、即ち愛の学びを得るのである。
したがって、「悪」は咎め、責めるものではない。
勧善懲悪の短絡思考を好むのは邪神の囁きである。
「悪」は許して正して変容させるものである。
≪悪を殺すと云う教や、やり方ではならんぞ。悪を抱き参らせて下されよ。≫
また、その悪を己の映し鏡として、そこに映った己の心の欠けたところ、未熟さを正すことが不良惑星人の本分である。
「悪」を許せざる憎む心が悪なのである。
しかし、その憎しみという悪想念が原因で引き起こされ己に降りかかる不幸など何らかの痛い目にあって、魂が学習していく過程で憎む心を克服するとき、この憎む心の悪も悪ではなくなるのである。
いかなる悪も最終的には悪の仮面を脱ぐ時が来るように宇宙の進化は大愛に近づくことを目指し方向付けられているのである。その期間が三次元地球地上の時間感覚でいう数百年なのか、数千年なのか、数万年を要するのかはその魂次第である。矯正の機会は転生の度に、そして日常生活の事象の中に常に与えられているが、それに気づくか気づかぬか、そして正して行くか行かぬかはその魂次第なのである。
≪善と悪とに、自分が勝手にわけて、善をやろうと申すのが、今の世界のあり方≫であるが、この善悪を超越して正しき想念を維持せねばならない。
現象的悪に心揺らぎ、心奪われてはならない。
その現象にいちいち反応して悪想念を発することをまず制御せねばならないのである。
「いずれ、そのうち」と言いながら、現存地球人類は太古に滅んだ文明時代から同じことを懲りずに、転生を繰り返してきた。
地球(ここ)に降ろされてから何万年が経過したことであろうか。優良惑星へと昇格する地球には我と欲を握り締めたままでは残れない。
自らの責任で落第してしまった魂は、転生先でまた貨幣経済様システムに縛られ、憎しみ、互いに疑い、嫉妬して、警戒し合い、奪い、傷つけ、怒り、殺し、追われ、焦り、嘆き、病に苦しみ、世を果敢無(はかな)み、生きる目的も定まらず苦悩し・・・・・止め処もなく繰り返される不幸の波に木の葉のようにもまれて生まれ変わり、死に変わり、またも負のスパイラルダウンへ飲み込まれる転生を繰り返さねばならなくなる。
こうして「悪」は宇宙がどれだけ進化しても、常にどこかに存在する不良惑星では永遠になくならない。「悪」は進化のために必要だからである。
≪悪あればこそ向上するのであるぞ。 悔い改め得て弥栄するのであるぞ。≫
今回のアセンションで地球が優良惑星に昇格する時、
悪の元である我欲を内包した惑星人は残しておけない。
我欲を捨てきれない者は他の不良惑星でやり直さざるを得ない。
そこではまだ「悪」が必要だから、そこでなら不良惑星人級の魂でも存在することは許されるのである。
参考までに言うと、地球は不良惑星であるが、宇宙間にはもっと遅れた惑星もある。唯物科学文明的にも現在の地球よりも遅れた文明を築き、現今の地球人から見てもお粗末至極な文明なのだが、その惑星人たちはそれなりに自らを文明的であるとして、その奢り高ぶりは著しい。
さらに、その惑星人類の想念のレベル、即ち愛のレベルは地球人よりずっとずっと低く、殺人して物を奪っても殆ど自責の念を抱かない惑星人がゴロゴロしているような惑星である。
地球の警察に相当するような組織も殆ど機能していないし、何か盗難に合うと、その被害者は直ぐに別の者を襲って、別の盗難をしたりするなど日常茶飯事である。惑星全体がこうした犯罪意識の薄い社会もまだこの宇宙間には多く存在しているのである。
地球で人間の作った法により裁かれた悪人と呼ばれる人間でも、その惑星に一ヶ月も住めばれば気が変になる次元である。(人間を襲って食べる獣類も存在していてよく子供が襲われていなくなる。地球の熊に似た生物だが、地球の爬虫類のような進化を遂げてきた生物のため、熊のように体毛はない。)
ここまで劣悪な惑星となると優良惑星人もその飛行船でデモをしたり、姿をみせたりという啓蒙活動はしていない。啓蒙活動に関しては、その不良惑星人がまだ宇宙をよく知らず、知らぬがゆえに万物の霊長と勘違いして思い上がり、動物はおろか人間同士でも弱者を踏みにじりながらも、自らを文明的惑星人であると大いに錯覚している寝ぼけた眼を開くため、当該惑星外にも知的生命体が存在していることを知らしめることが活動目的の一つである。子供を叱る大人のように直接的には活動できないが、その理由は力による干渉は愛という宇宙則により許されていないからである。『促して「自ら」目覚めさせよ。』、これがルールなのである。シルバーバーチャンが『「自ら」気付くこと』というフレーズをよく使うのもこのためである。
この惑星に関しては、レベルが低すぎて文字通り取り付く島もないため、観察対象ではあるが啓蒙対象にまでは未だなっていない。
さて、これらの未開惑星に近い不良惑星に比べれば地球は不良惑星といえども、自らが原因である幾多の苦痛体験を通じ、地球惑星の歴史とともに人類総体としてその魂を進化させてきているのである。が、それでも地球は未だ未だ不良惑星であることには変わりはない。覚醒に近いところに居る心ある者は率先してもっと多くを学び、時間のある限り、更に更に前進せねばならないのである。
その地球には「勝者の理論」という言葉がある。
このシリーズの過去の記事で述べてきたように地球惑星では文明が興っては滅び、また興っては滅んで、現存文明に至っている。いずれの文明においても、その歴史は戦争と略奪に彩られ、現存文明も含め、いずれの文明に住した人類も各国家や地域の利害が対立する以上、時には衝突は止むを得ず、闘争は当然の事としてきたのである。
現存地球文明においても、人類は口に愛と反戦を唱えながら、この地球地上で戦争、闘争、紛争が一時なりとも絶えたことはない。今この瞬間にも人類の兄弟姉妹がどこかで奪い合い、殺し合いをしているのである。
地球惑星人は戦争と闘争とはあたかも種類が異なるもののように信じて、戦争はけしからんが、闘争は生存競争や生活のためある程度は仕方ないと思っているのである。この誤った思い込みとその思い込みの上に平気で発する闘争、競争の排他的想念に、これらが昂じて憎しみ、恨み、怒り、僻(ひが)み、羨(うらや)み等々悪想念のオンパレードが続く限り、いくら口に愛だ平和だと唱えても、愛の欠片(かけら)も平和の兆しも何一つ実現はしない道理である。言葉だけが空回りすることは歴史が既に証明していよう。
栄える者はいつか滅ぶのが当然と思ってはいまいか。
真に正しき者は栄えて当然であるが、真に正しき者ならば栄えれば滅ぶ事はないのも当然である。栄えた者が滅ぶのは、真に正しき者が栄えたのではないからである。真に正しきものとは愛を基準にして正邪・真偽を判断せねばならないのであるが、地球惑星ではこの善悪・正邪・真偽が混沌として未だ定まってはいない。
「悪」も「不幸」も進化のために必要であるけれども、正して、学んでこその進化であり、「悪」も「不幸」もそれを放置してよいわけではない。その「悪」に己の姿を観て、「不幸」に己の至らなさを観て、心を正すこと、即ち我欲を手放していく事が肝腎なのである。
地球人類は須らく愛を基準として善悪・正邪・真偽を判断せねばならない。
これが何ものも縛らず、また何ものにも縛られない全宇宙を貫く鉄壁の法である。
この愛に反するとき、全ては悪であり、邪であり、偽なのである。
「さもありなん」と大方の地球惑星人は頷(うなづ)くに違いない。
然るに、この愛という僅か一文字を体得するのは不良惑星人にとって決して容易な事ではない。
地球が不良惑星に属している現実こそ、その動かぬ証拠である。
愛を体得した優良惑星では各優良惑星人の愛の度量は各人各様では在るが、いずれも不義、欺瞞、搾取なく、人を縛る法律、条令等制約はなく、所有概念もなく、軍隊は疎(おろ)か、いかなる防衛組織もなく、同朋を裁き、取り締まる機関もなく、勝ち負けを見て楽しもうとする惑星人はいないため、いかなる競技も競技施設もなく競争もない。惑星人は相互信頼のもと、心を開き自他一体と利他心で暮らしている為、境界もなく、許認可等諸制度も必要なく、他を傷つけ奪う惑星人は存在しないため、警察もなければ当然裁判所もない。よって、多くの優良惑星では人名を登録して戸籍を管理する必要はなく、名前をもっていない惑星人が殆どである。その奉仕や活動の内容や働きに応じて名をつけたり、その惑星人がその時点で持つ属性を表わすために愛称を用いる事はあるが、地球人や他の不良惑星人のように支配と管理と相互不信からもたらされる防衛のため登録、登記するなどと言うことはあり得ないのである。(シルバーバーチャンなど地球人の認識のため仮につけた名称であり、本来どうでもよい名前である。)
また、先回の記事(第11回)で述べたように、その惑星・遊星の人類の想念波動は、動物など他の種族の進化に対して特権と責任を有し「進化の船頭」として、他の生命の進化を左右するため、優良惑星人の肉食は勿論絶対になく、動物界においても、いかなる弱肉強食の様相も見ることは出来ない。
他を捕食する猛獣・猛禽とこれに類する生物は存在できないからである。
地球を‘常識的’‘標準的’‘先進的’‘文明的’惑星と思い込んでいる閉ざされた惑星人・地球人には優良惑星の生活は、将におとぎの国か頭脳の弱いメルヘンチックな単なる平和主義者が思い描いた絵空事のように映るはずである。それを否定までしなくとも、精々「そんな世界が在ったらいいよね。」とつぶやく惑星人が殆(ほとん)どである。「在ったら」という表現自体諦めと絶望の念の現れである。その絶望の念は絶望を引き寄せるのである。
自ら絶望を引き寄せる惑星人には優良惑星人も手を差し伸べることは出来ない。その絶望は大難を大難のままにして一大天譴はより一層激しいものとしてしまうし、暗躍する邪神の思う壺となり、いつ大きく傾くか知れない全面核大戦の可能性から遠ざかることを困難にしていく。一大天譴は避けられない必要な「大洗濯」であるが、全面核大戦だけは何としても回避せねばならないのである。【第7回『アセンションを阻むもの』で述べた核の炸裂の波動で地軸を傾けて砕け散った第五番惑星の轍を絶対に踏んではならない。】
地球惑星人には俄(にわか)かには信じ難いことであろうが、この銀河系だけでも、どの不良惑星も唯物科学の行き着く共通点として手に入れる核の力とその誤用で地軸を傾け流星化、小惑星化する惑星・遊星が地球時間の一年にして、1,000星前後にも上るのである。勿論、この数は銀河系内の惑星・遊星の総数においては僅かな数字だが、そこで失われる生命進化上の犠牲は膨大な数に及ぶ。地球惑星の場合63億人の人類に加え、その数万倍の各意識段階にある肉体生命種とその実数分の命が犠牲になる。このような最悪の事態に至った場合、他の数え切れぬ種族に対して、愛無き人類はその愚行を一体どうやって償うつもりか。地球と太陽系が属する銀河系のような島宇宙が宇宙間には無数にあり、それぞれの島宇宙内で惑星爆発等により膨大な進化の遅滞がもたらされているのである。地球もアセンションを目前にまで迎えながら、そこへたどり着けず、「最悪の事態」を迎える危険は未だ去ってはいない。)我と利己欲を完全制御した優良惑星人の桃源郷のような暮らしの一方、不良惑星の中では比較的上位に位置する地球の場合でも、愛を基準とした正邪・真偽は未だ定まっていないため、優良惑星とはほぼ正反対といってよい自由度の大変低い世界・社会が展開している。地球惑星人が当たり前の行為、考え方として受け入れていることがどれだけ宇宙則、即ち愛に逆らうことかも解らず、日々平気でこれを犯しつづけている。
地球惑星人は、目先の利害得失に心奪われ、過去を後悔して思い出しては憎しみや恨みの念を発し、未来を思っては、ありもしない不安、心配に苛(さいな)まれ、国も地域社会も団体も個人も隣人に対して傷つけられまい、騙されまい、やられまい、取られまいと相互不信故に互いに身構えて暮らしているのである。
宇宙間には優良惑星群のような生活があるというのに、この戦々恐々と互いに身構えて暮らす不良惑星を標準であるとしている。いかなる惑星も衛星も遊星もそこに住する惑星人一人一人の想念の総体とその惑星の定められた進化上の波動上昇との総和によって、その惑星も惑星に住するあらゆる生命の命運が決定されていくのである。
よって不良惑星に天災地変、事故災害、戦争闘争、叩いても叩いても新手が襲い来る病気などありとあらゆる不幸の原因は個々人が両の手にしっかり握り締めて離さない我と欲なる心根、すなわち愛の度量の小ささにある。
邪神・邪霊が幾ら屯(たむろ)って、暗躍しようとも、地球人の精神性が同調せねば彼等には何の力もない。
≪悪の気断ちて下されと申しておろう。心の鏡の凹凸なくなれば、悪うつらないのざ。悪はなきものぞ。無きとは力無きことぞ。≫
しかし、現実は地球人類の自己主張甚だしく各々の利害が一致することはなく、底なしの欲望に自らの身を焼く粗い波動に邪神・邪霊はみるみる力を得てこの地球を永年にわたって支配してきた。それら邪神の傀儡となった肉体人間達により構築された「勝者の理論」がこの地球惑星の不幸に拍車をかけてきたのである。
戦争と闘争
繰り返して言うが、地球惑星人は戦争と闘争とはあたかも種類が異なるもののように信じて、戦争はけしからんが、闘争は生存競争や生活のためある程度は仕方ないと思っているのである。
戦争であれ闘争であれ、互いに相手を尊重できないところにどうして愛があるというのか。戦争も闘争も愛無き行為という意味でまったく同列のものである。
争いの単位が国、社会、集団、個人の違いであるというだけである。
この根本原因のひとつは、とくに自由主義先進諸国において、その教育の根幹に自己主張を正しいことのように教え込むことがある。自己主張は我欲の集約であり、争いごとの根本である。
自己主張がぶつかり合い、互いに利害が対立するのを収拾するため、各国家ごとに法律を制定して、各国家の秩序を守ることができるかのごとく装ってはいるが、現実は法を厳しくすればする程、各種の犯罪も内乱もその解釈の混乱も増えこそすれ減ることは無いのが現状である。優良惑星にはいかなる法も存在しないが、
地球の、特に刑法というのは最も低級な法である。
地球社会の犯罪が起こる場合は様々あるが、社会の諸悪自体に犯罪の動機を誘発する素地を有している上に、その社会に住む一人一人の我欲に端を発し、我欲の集積が噴出するところが犯罪の発生するところなのであるにもかかわらず、事の結果のみを裁く盲目的制裁でしかなく、犯罪の起こる原因を取り除こうとはしない低劣な制裁制度なのである。
結局のところ、地球惑星人は善悪を超越した正しさを解明、理解する能力が乏しいか全く無いため、一部の勝者の理論やずる賢い巨悪に媚びへつらった、権力に都合のよい道徳、学問、宗教、科学をもたらして、その上に生活の為と称する生存競争、闘争、制裁をあって当然のこととして、いつしかこの狂気に疑念も抱かず、不調和と破壊の大行進を続けているのである。
地球の勝者の理論とは知力、財力、武力を背景にした強者の自己保身の理論である。そこに共生の概念はない。地上にかつて存在したアトランティス等太古の文明から現存文明に至るまで、いずれの文明においてもこの勝者の理論は正義の仮面をかぶり、その美名に隠れ、「勝者の理論で取り決めした善悪」で弱者を蹂躙して(じゅうりん:踏みにじって)、都合よく裁いてきたのである。
弱者は生き延びるために、勝者の理論に従い更に弱い者へと矛先を向け、搾取と支配を蔓延させてきた。
不良惑星では、知力、財力、武力をより多く有するものが勝者として君臨し、法を定め、文化を操り、学問も捻じ曲げ、宗教で煙に巻き、国によって異なる道徳で偽善を続けてきたのである。(道徳は国や地方によって異なり、真理の足元にも及ばないばかりか、その時代、時代の為政者の都合に合わせていいように書き換えられてきた。)この背後にはその強者の我欲に付け入った邪神・邪霊が暗躍してきた事は言うまでもない。こうした勝者の理論によって弱者を踏み台にした繁栄は、愛の度量とは全く無関係である。故に愛に立脚していない覇者は早晩滅びることになるのである。地球波動の高まりにより、この覇道を以ってのさばった巨悪は今後加速して白日の下にその欺瞞と秘密を晒されることになる。(それに伴い世は騒然となるが、心を動揺させてはならない。これらは一大天譴の序曲である。この程度でオロオロして、悪想念を発して、ひっくり返っていては神の御用は勤まらない。)
今や財力を手にする者が囃(はや)し立てられ、喝采を浴びるのは嘗て滅びた文明末期の特徴と酷似している。財力を手にして勝者となった者にへつらい、その財に群がり囃子立てる「蟻」も愛無き勝者に同じである。
いずれの文明も武力による土地争奪・所有の時代とその土地由来の食料の確保に始まり、土地所有に勝ち残った国、集団、個人が爛熟した貨幣経済を背景に影響力を持つ。
この財の争奪戦に知力のある者が加わり、より小手先の欺瞞で富を一部の強者へと集中させて行く。国際舞台では、より立場の弱い国々から原料、食料、人的資源まで搾り取り、国内では官僚はその人民から過剰な税を取り立てるようセンセイを操り、建前と偽善で無駄遣いし、大規模法人集団はより小規模な法人から買い叩いて暴利を貪る。国家も大企業も個人資産家も、直接間接を問わず、いわゆる「下請けいじめ」「弱いものいじめ」の上に成り立つ「成功」「繁栄」を手にしているに過ぎないにもかかわらず、仮初の成功の美酒に酔いしれ、自尊心を抱えて下請けに横柄な態度で無理難題を押し付ける。
こうして「下請けいじめ」で付けた強い競争力で、外国を相手に稼いだ外貨の見返りに、外国から食糧輸入で農畜産物を大量に買っているのである。このことで国内の食料自給率は一向に向上しては行かないのである。そして下請けいじめをして成り立っている大企業群は食料自給率の低さには「我関せず」を決め込む。企業として、また人間としての低劣さ、低級さで弱者を踏みにじって築いた繁栄は砂上の楼閣である。「トドメ」の波で砂上の楼閣は傾き崩れ、洗い流されていくであろう。
こうして大企業が鎬を削る先進諸国に暮らす殆どの者は、財の力により世界中から食料をかき集め、その結果食べ切れずに捨て、有り余る贅沢な食事を当たり前のものとしている。この財をもった強者の理論により、自ら作った農作物でありながら自らの腹には落ちない貧しい国々の人民は、日々の食事もままならず、その子供等から先に骨と皮だけになって飢え死にしていくのである。利他愛から懸け離れたこの勝者の理論は愛に反する故に滅びへと向かう他はないのである。このような非道は優良惑星にはありえない図式である。全人類に行き渡るだけの食料は用意してあるにもかかわらず、勝者の理論で自己保身を図る国、企業、個々人により不平等極まりない愛無き「弱者切り捨て」が罷り通る地球惑星がこのままでは弥栄するはずもない。そのトドメが一大天譴なのである。
昨今何かと取り沙汰される「戦争犯罪人」にも、戦勝国の勝者の理論によって戦争犯罪人に仕立て上げられ、陸(ろく)に裁判もせず裁かれ処刑されてしまったのである。戦争の勝敗の立場が逆であった場合、処刑した者共が処刑される立場に回るのである。一体何を以って戦争犯罪としているのか。地球の勝者とは、この程度の愛無き自己保身の理論を正義の名の下に振りかざす低劣極まりない者共のことをいうのである。
このように地球の勝者の理論とは愛を基準にした宇宙則に適うものではなく、自己保身のために他の犠牲を強いる狡猾な理論である。宇宙則、天則に反した理論で他を裁いた者共はいずれ天則によりその者共の罪状に応分の裁きが下るであろう。
今生、冤罪(えんざい:無実の罪に裁かれること)で投獄され檻の中で号泣する者、いわれ無き被害に遇って激憤して泣き喚(わめ)く者、陥(おとしい)れられて困窮する者など、前々の世で人を裁き陥れた宿業を抱えて転生した者が多い。規模、程度の差こそあれ日々同類の罪を積上げつつある者はその罪業に応じて、身をもって償うことで魂のバランスを取らねばならない。逃れることは決してできない。何故なら愛は峻厳だからである。
こうして裁き裁かれ、殺し殺され、騙し騙され、欺き欺かれ、責め責められの負の連鎖は流転して因果は巡り続ける。負のスパイラル(螺旋)ダウンである。
日本国には「因縁相成就」という言葉がある。「因」とは物事の直接的原因、「縁」とは間接的条件のことである。仮令(たとえ)今生で裁かれるような「因」が過去世または今生の過去にあっても、これに「縁」を与えなければ宿業の結果は現れてこないのである。この「縁」の働きをする悪想念の制御は広くはまだ知られていないか、知られていても軽んじられているため、もしくは惑星人が頑迷固陋であるため、「わかっちゃいるが憎いものは憎いし、腹の立つことには腹が立つ」と言って悪想念を出し放題に出し、我を折らず、利己の欲心を放縦しているため、それは抱えている「因」に「縁」を進んで与えているようなものなのである。これでは宿業は「相成就」するのも止むを得ない。
この巡る負の因果に終止符を打つ方法は万人の悪想念制御以外にない。地球は人類が想像している以上に極めて危険な状態である。そして残された時間は本当に、本当に僅かである。
善と悪と二道かけてならんぞ。理は一本と申してあらう。
悪は悪として御役あるぞ。 悪と偽りの中に悪の喜びあるぞ。
善と悪の二道の中には、二道かけては喜びないぞ。
喜びないもの亡びるのざ。御役の悪とは悪と偽りの悪であるぞ。
悪と善との二道かけての悪でないぞ。
心せよ。悪は悪にのみ働きかけ得るのであるぞ。
善に向つて働いても、善はビクともせんのぢや。
ビクつくのは、悪に引込まれるのは、己に悪あるからぞ。
合せ鏡と申してあろうが。悪の気断ちて下されと申しておろう。
心の鏡の凸凹なくなれぱ悪うつらないのざ。悪はなきものぞ。
無きとは力無きことぞ。悪あればこそ向上するのであるぞ。
悔い改め得て弥栄するのであるぞ。
少し位は人民つらいであろうなれど勇んでやりて下されよ、大弥栄の仕組
人民一度死んで下されよ、死なねば甦られん時となったのぞ、
今迄の衣をぬいで下されと申してあろう、世がかわると申してあろう、
地上界の総てが変るのぞ、人民のみこのままと言うわけには参らぬ、
死んで生きて下されよ、タテカヘ、タテナホシ、
過去と未来と同時に来て、同じところで一先づ交り合うのであるから、
人民にはガテンゆかん、新しき世となる終りのギリギリの仕上げの様相であるぞ
悪は悪として御役あるぞ。 悪と偽りの中に悪の喜びあるぞ。
善と悪の二道の中には、二道かけては喜びないぞ。
喜びないもの亡びるのざ。御役の悪とは悪と偽りの悪であるぞ。
悪と善との二道かけての悪でないぞ。
心せよ。悪は悪にのみ働きかけ得るのであるぞ。
善に向つて働いても、善はビクともせんのぢや。
ビクつくのは、悪に引込まれるのは、己に悪あるからぞ。
合せ鏡と申してあろうが。悪の気断ちて下されと申しておろう。
心の鏡の凸凹なくなれぱ悪うつらないのざ。悪はなきものぞ。
無きとは力無きことぞ。悪あればこそ向上するのであるぞ。
悔い改め得て弥栄するのであるぞ。
少し位は人民つらいであろうなれど勇んでやりて下されよ、大弥栄の仕組
人民一度死んで下されよ、死なねば甦られん時となったのぞ、
今迄の衣をぬいで下されと申してあろう、世がかわると申してあろう、
地上界の総てが変るのぞ、人民のみこのままと言うわけには参らぬ、
死んで生きて下されよ、タテカヘ、タテナホシ、
過去と未来と同時に来て、同じところで一先づ交り合うのであるから、
人民にはガテンゆかん、新しき世となる終りのギリギリの仕上げの様相であるぞ
本日これまで。
シリーズ『シルバーバーチャル星人の生活』
第13回神々の正体(その1)へ
main
この改行は必要→
main_box
