シリーズ 第3回
『想念作用(その2)』
想念とは何か
2005年現在ここ数年の「成功法則」絡みの書籍はちょっとネット検索するだけでもウンザリするほどヒットしてくる。
大多数は技術論と精神論のカクテルだ。
精神分野に関しては単なる心構えから自己催眠、他者催眠、イメージトレーニングなどの願望達成方まで様々語られているが、どれも昔からある潜在意識活用法の焼き直しだ。
潜在意識には善悪の判断はつかず、強くイメージして描いたものは必ず実現するという誠に都合のいい話だ。
一部は正しいが一部は正しくない。
全面的に正しいなら、この世は成功者ばかりとなる。
ご都合主義で自分勝手な成功者ばかりになり、物欲、所有欲の権化(ごんげ)が幸福と自己満足を履き違えて闊歩するはずだが・・・。
まあ、その効果はさておき、想いが潜在意識層に蓄積されるという側面は事実である。過去のトラウマが原因で慢性的に病状を呈していたものが、催眠療法などで自分でも忘れていた過去を思い出し、号泣したり、納得したりすると何十年来の病苦からあっさり解放されてしまったりするのは今時流行りの「癒し」の世界ではもはや常識となった。
精神的病苦のみならず、肉体の症状も雲、霧のごとく消散する。
「想念」が心と体を支持する元の要素なのである。
退行催眠中に語られる内容が真実であるか否かは別として、潜在意識層に巣食っていた抑圧された感情を爆発、崩壊、解放させると何故か病気が治る。
物凄く強い信念は思い描いた現実を引き寄せることが出来る。
物凄く強い信念でなければならない。
若しくは一人一人は弱くても、大勢集まると集合体として想念が強化される。
「百匹目の猿」や「形態形成場理論」と根底を同じくする。
問題はその想念を発する集団の心の清まりの程度である。
心の清まりが足らない者が集団にて一斉に想念を発すると、それは悪想念の塊であるため、気象は勿論、戦争惹起まで影響する。
ジハード(聖戦)を旨とする国や地域では殺し合い、戦争の絶え間がない。
単に宗教や文化の問題だけではないのである。
そして蓄積された想念が臨界点に達すると何らかの形で崩壊せざるを得なくなる。
現象界(形而下)に具現化してくるのである。
地球人の祈りが、特に大集団によって一斉になされる祈りが危険なのはこれが理由である。
条件さえ揃えばいつでも怒り、恨み、妬み、責め、攻撃し、焦燥感に揺らぐ心を持つ地球人が、そうしたネガティヴな素地を内包したままでは、仮令(たとえ)それが「平和の祈り」であっても、集団で想念を発することは惑星地球にとって大変危険なことなのである。
想念波動に清まりの足りない者が、想念を発すれば平和の祈りであっても、業想念層に負のエネルギーを蓄積することになる。
平和の祈りや宗教で有史以来人類が平和になった試しがない。
平和を願い、平和を声高に一心に唱えながら知らぬ事とはいえ負の想念波動を発しているのだから、むしろ世界は一層の混迷へ向かって加速していくのも不思議ではない。
一心不乱に祈ることは大変危険なことなのであるが
地球人の多くはこのことにまだ気付いていない。
個人的治病のための祈りにおいても、肉親の祈りは治ることを祈りながらも、最悪の事態も想起して祈ることが多い。
肉親だからこそ特に心配する心が強く働くため、(その心中を察しはするが)却(かえ)ってその心配どおりに事が運んだり、思わぬ悪しき結果を招いたりする。
祈りに関する実験では遠く離れた地で、その患者とは全く面識もない試験グループに治病の祈りを一定期間させた方が統計的に好ましい結果を生むという。
血縁関係にもなく面識もないため、その祈りには要らぬ欲が混載されていないからであろう。
肉親だからこそ心配してしまうのは、厳しい言い方だが
「自分か自分の家族さえ良ければ・・」
の我欲の心の表出である。
しかし人には同朋を愛したい心も、
一なる創造主の一部(分け御魂)である以上、心の奥の奥には必ずある。
他人の誰であれ治ることを祈る気持ちに愛念が宿るのも自然なことである。
これが肉親となると我欲ゆえに途端に心配心が強く働き、
却って悪しき結果をもたらす。地球人の弱さの所以である。
これが想念と呼ばれるものである。
潜在意識層、ユング的に言えば集合無意識層に蓄積された特に負の想いを業想念という。
では、想念や記憶はどこに蓄えられるのか。
潜在記憶にしろ、顕在記憶にしろ、脳細胞一つ一つに対応して格納されているわけではない。
3Dなど光の照射で立体像を浮かび上がらせる技術やそれを転用してエンタテイメント、アミューズメント装置・施設は一般にもよく知られるようになったが、このホログラフ技術は、直交変換の一つで(直交変換は数学が得意な方ならよく解ると思います)、物体にレーザー光線を当てて反射した光とレーザー光線との干渉縞をある種のフィルムに記録して規則性のある模様を作る。
このフィルムにレーザー光線を当てると元の物体の立体像が浮かび上がるのだ。
このフィルムを半分の大きさに切っても、
5分の1の大きさに切っても、
100分の1でも、
レーザー光線を当てると立体像が一部も欠けることなく完全な形で浮かび上がるのである。
もちろん小さくしただけその立体像は不鮮明になっていく。
フィルムのこの部分の情報を失ったので立体像のこの部分がごっそり欠けたというものではない。
脳の記憶とはこれに似ていて、ある細胞が死んだので、
そこに記憶していた情報がなくなったというものではない。
もしそうなら自分の名前が記憶されている一個の細胞が死ぬと、
自分の名前は永遠に思い出せないことになる。
病院のリハビリなど全く意味がないことにもなる。脳細胞は一日に10万個死滅するといわれている。とすれば一日10万個の情報を忘れていくことになるはずだがそんなことはない。たった1日で10万個忘れるとするなら、その10万個の中には、歯ブラシという単語、妹の顔、ボールペンの使い方、信号機の色の意味などが含まれる可能性は相当に高い。
例えば信号機の色の意味を保持している細胞が、さっき信号を渡った時には生きていたが、今死んでしまったので次の信号が赤なのに渡ってしまうなど危険極まりない世界で生きていかなければならなくなる。しかし、現実は不鮮明だったり、おぼろげ、曖昧な記憶になることはあっても、痴呆などの明らかな疾患でなければこのようなことはない。記憶の本質は脳細胞に保持されているのではないのだ。
喩(たと)えだが、DVDのデータディスク(記憶そのもの)に問題がなくても、再生機器(脳)に故障など問題があれば何も再生できないように、脳は記憶を記録、再生するマシーン(レコーダ、プレーヤー)であり、記憶自体はその記憶に付随する「感情や想い」をも伴って「別の場」(DVDディスク)に保持されている。
ここでは、これを顕在・潜在両意識層という記録層だとしておこう。
意識層であるため、脳細胞をふくめ肉体を失っても(死んでも)その記録は消えることはないのである。
脳障害で記憶を失うのは、記憶そのものを失うのではなく、
記憶を「再生する機能」を失ったということなのだ。
記憶内容が脳内にではなく意識層にあるなら、この世に強い執着を残した者がいわゆる成仏できない理由は、記憶と共に強い想い・感情を意識層に抱えたまま肉体を失い、意識層は残るので強い執着を持ち越してしまうからである。
(だからこそ記憶の記録・再生機能である脳がある内に、つまり肉体をもって生きているうちに学び、気付くことが重要なのである。ネガティブな想いを意識層から出来る限り解消しておかなければならないと広く言われている訳である。そのための日常生活であり、自己分析であり、内省であり、修練なのである。
その条件として用意された環境と日々の出来事なのである。)
波動とは何か
冒頭から業想念というキーワードを使用してきたが、想念という言葉を聞くと、急に玉石混淆の精神世界論の響きを連想してしまうが、それが嫌なら波動と言い換えることが出来る。
大宇宙に存在する全ては有形・無形問わず全て波動である。
振動といってもハズレではない。波動で「出来ている」と表現する者もあるが、これはおかしな表現である。
原子や分子などの極微の物質が寄り集まって、肉眼で認識できる物体がそこに存在するように、波動で「出来ている」というと、波動という極微の物質のようなモノだと感覚的に勘違いされそうである。
波動はモノではないバイブレーション、振動、周波であり、エネルギーそのものだ。
地球人が可視光線と呼ぶ光も、不可視光線である赤外線も紫外線も、そこの椅子も机もボールペンも扇風機も、地球という惑星もそして「あなた」も波動である。
「私が波動?
波動ねぇ。
解ったような解らないような・・。」
ではあなたは何だろうか?
細分化していけば、自分が各種元素の分子・原子となることぐらいは現代地球人なら誰でも知っている。
では原子までバラした後はどうなるのか。
ただの原子の塊がどうして「あなた」という形を保ち、動くばかりか、泣き、笑い、怒り、恐怖し、記憶するのか。あなたとは誰である以前に何なのか?
あなたの肉体は究極的には物質の性質を持ってはいるが物質ではないのである。
量子論(りょうしろん)を少しかじったことがあるなら直ぐにピンと来るであろう。
「物質は粒(つぶ:原子)の性質と波(なみ:波動)の性質を持っている。」
としている。(本当は物質は粒である筈がないのだが、地球の量子論を引き合いに出して記述を続けるので、ここでは粒ということにしておく。)
そして物質の究極は物質ではない」これが現代地球の最先端物理学が解き明かした成果である。
(量子論は、実は確立解釈、不確定性原理や波動力学などの物理学理論を一つにまとめた理論である。
「理系」の学生でも量子論は大変難しいが、もしあなたがどちらかというと「文系」タイプであったとしたら、むしろそれは朗報である。
量子論を肴に口角泡を飛ばして議論する立場にない文系のあなたは、理屈ではなくイメージと感覚でそのエッセンスだけを頂戴すればいいのである。
現にその恩恵は大きい。
今や地球人の必需品となった携帯電話も、この量子論がなければこの世には存在していないのだから。
尚、地球では量子ジャンプが量子論最大の謎とされる。
原子核の周りに数個の軌道を持って電子はその軌道上を回転しつづける。
電子が外側から内側の軌道に移ると、電子はエネルギー(=光)を放ち、内側から外側の軌道に移る時はエネルギーを吸収する。
地球の量子論では電子が遷移(軌道を移動してエネルギーを放出、吸収すること)したことをまだ捉えることが出来ず、軌道間を電子が瞬間移動したことが理解できていない。実はこれそこが物体の瞬間移動を可能にする大いなるヒントだというと地球では未科学の部類で、「トンデモ科学」と揶揄されるにちがいない。
(因みに戦艦エルドリッジの瞬間移動実験として知られ、アインシュタインも現場に居合わせたとされるフィラデルフィア実験は、全くのデッチ上げである。)
有形・無形問わずエネルギーであり、
波動である
・・・つまり無形の想念はエネルギー、波動そのものなのである。
以後想念波動として表記する。
さて、この個々人とその総体である想念波動の在り方によって、
今後惑星規模で地球人が体験する一大天譴とアセンションの様相が
随分と異なってくる。
次回は一大天譴を大難から小難へと緩和し、アセンションをより穏やかに迎える本題に入りたい。前後するかもしれないが、予言と未来確定のメカニズムにも触れるつもりである。これらのいずれも、想念の作用抜きには語れないのである。
ここで少し寄り道をしていこう。
「根本的悪は存在しない。現象界は相対的に仕組まれている。」
という話である。
突然だが色とは何だろうか?
赤色とはどんな色だろう?
白色とはどんな色だろうか?
今ここに赤と白とチョコレート色のパッケージをしたアーモンドチョコレートの箱があるとしよう。あなたはそれを車に乗せて未明からスキーに出かける。ダッシュボードに置かれたアーモンドチョコレートの箱はやっと昇ってきた朝日に照らされ、赤と白の基調色に写真のチョコレート色を鮮やかに浮かび上がらせた。
山間を縫うように走るあなたの車はやがてトンネルに差し掛かった。
トンネルの中の照明は、その透過度を上げるためオレンジ色の光線を放っていた。
そのオレンジ色の光線を浴びてチョコレートの箱の赤色、白色、チョコ色はそれぞれ極めて濃いグレー、オレンジ色、黒色に見えている。助手席に座っている友人が「トンネルの中って、なんか別世界だよねぇ。」と言った。
明るいメタリックシルバーの車体のボンネットはオレンジ色の光線を受けて、何とも形容しがたい奇妙な色に輝いている。車体に映るオレンジ色の照明は飛ぶようにボンネットを後方へ流れていく。あなたはそれを視野の端で捉えながら言った。
「そうだな。別世界だな。照射する光、つまり条件が変われば見えているものまで変わっちまうんだからなぁ。」
すると友人がこう続ける。
「じゃあ、本当の色はどっちなんだろうなぁ。」と。
あなたは友人のその一言にハッとする。
「本当の色?…そりゃぁ、赤…ん?本当の色かぁ?何だ?」
2秒ほどとまどった後、あなたは友人に洪水のように説明し始める。
「お前、今本当の色って言ったよな。本当の色なんかないんだよ。
条件が変われば色なんてどうにでも変わるじゃないか!
青の光ならどうだ?ピンクの光なら赤色はどう見えるんだ?チョコ色は?
…そう考えると俺たちが見ている世界は条件さえ変わればどうにでも変わってしまう世界なんだよ!
この太陽光の下では赤色と俺たちが呼んでいるあの色に見えているだけで、
それは表現のほんの一例って事になる。
《赤色なんて絶対色》は存在しないんだよ!
全て条件によって変わる相対的な色しか存在しないって事だ!」
あなたは少し興奮気味だ。
友人は「だからどうしたの?そんなことでそんなに鼻の穴膨らますなよ。お前、鼻毛見えてるぞ。」と、トンネルを抜けた明るい車内であくびをしながら素っ気ない反応をする。本当にはみ出しているかもしれない鼻毛を無意識に抜きながら、あなたの思考は回転を続ける。
「条件が変われば…か。今は色の話だが、そもそも俺の目が違う組織でできていたらどうなる?そうだ、犬はどうだ?犬にはどう見えてるんだ?他の動物はどうなんだ。昆虫なんか複眼だぞ。魚は魚眼と…どんな世界じゃ!まあ、何にしろ「絶対色」なんか存在しないって事だよな。待てよ。色だけじゃない。他の感覚だってそうじゃないか!硬い柔らかい、冷たい熱い 重い軽い…何かを基準にしてそう感じているだけで基準が変われば1グラムだって超重いし、地球だって超軽い。摂氏100度も冷たく、富士山だって低いって事になる。この世は相対的に仕組まれているんだなぁ。じゃあ、こう仮定できないか。現象は全てホログラフィックに存在している。感覚が条件で変わったりするだけじゃなくて、存在そのものが本当は虚構であり実在じゃないのかもしれないぞ。ちょっと行き過ぎか?まあ、いいや。」
助手席で寝てしまった友人に一瞥をくれて、
あなたはどんどんと思索の世界に分け入っていく。
「絶対って何だ?実在って何だ?」
量子論では物質の究極はもはや物質ではなく、波であり、振動であり、エネルギーである。また水素と酸素が結合すると水になる。
酢酸になったり、ポリエチレンになったりすることはない。
なぜだ?
そこには法則があるからである。
しかし水素も酸素も所詮究極は振動であり、エネルギーなのだから、物質としてそこにはないかも知れない。
確かに粒としての属性と振動としての属性を兼ね備えてはいる。
これらをまとめてみると、水素も酸素も究極は振動、エネルギーであり実在ではなく、動かし難く実在しているのは水素と酸素が結合すると水になるという法則そのものであるという事にならないだろうか。
水素、酸素に限らずこの現象界にあるありとあらゆる物質と現象は五感で感じられるもの「そこに在るじゃないか」といえるものは実像ではなく全て精巧に仕組まれたホログラフィックな虚像であり、それを支持する不可視のありとあらゆる法則こそが実在ではないのか。
数学を持ち出すまでもなく、算数で言えば足し算という目に見えない「決め事」が実在で、その「決め事」の結果どんな数字の組み合わせでも計算でき、目に見える結果は様々に変化する、と喩えられるかも知れない。
地球人類の歴史も法則発見の歴史であった。
地球人類がある法則を発見したからその法則が存在するのではなく、発見する遥か以前から、人類が存在しようが存在しまいがその法則は実在したはずである。
今後、特に量子論やまだ確立されていない超ひも理論の延長上にとてつもない法則の発見があると、従来不可能だった科学技術が実用される事は容易に予想がつく。単に地球人類が未だ発見できていないだけの法則、即ち実在が山ほど在るに違いない。その実在の応用により、それまではこの現象界に無かった現象、即ち虚像を生み出すこともできるのであろう。
ところでいわゆる「この世」が虚構で、「あの世」が実在界だとする考え方があるらしいが、これは誤りである。「この世」には物質、「あの世」には霊質とでもいうべき要素があり、共に物質、霊質を規定する法則が物質、霊質を支持しているのである。
あの世もこの世もどこの世においても、実在は法則と全宇宙、全次元に偏在する大いなる思惟だけである。(その分け御魂である「あなた」の魂も実在であるのだ。)その分け御魂の進化・向上の為に用意された物質世界であり、霊質世界なのである。
現界の住人にはこの物質界が実在のように感じ霊界をつかみ所のない世界と捉え、霊界の住人にはその霊質界とでもいう世界を実在のように感じ、現界をつかみ所のない世界と捉えているが、現界も霊界も(時間や空間までも)実在ではなくホログラフィックに存在している虚像の世界なのである。
実在は一なる創造主とその分け御魂であるあなた自身(肉体ではない)であり、霊界も現界も含めいかなる次元時空間もそれを支える法則が実在なのである。そうした実在であるかのように感じる虚像の世界の中で、存在は肉体かそれに相当するものに宿り、それぞれの次元にてそれぞれの条件下で、魂の進化・向上の道を、生成流転、輪廻転生しながら進んでいくのである。
実在は魂であり、現界も霊界も虚像なのである。
これを般若心経的に言えば「色即是空、空即是色」となろう。
「色」とは現界や霊界の物質や霊質であり、「即是空」(すなわちこれ空である)の「空」は法則と喩えられる。
すなわち物質、霊質を支える法則という見えないものだといっているのだ。
また反対に法則があっての物質、霊質の現界、霊界であるのだと言っているのである。
この色即是空を、「色」は現界、「空」を霊界とする喩えを見かけることがあるが、何度も言うように現界も霊界も共に「色」即ち現象界であり実在界ではない。
「空」即ち実在は一なる創造主とその分け御魂であるあなた自身と宇宙一切を創造主の経綸下に治める法則なのである。
下はシルバーバーチャンが高校生の時、現代国語の先生に笑われた図である。
これを aが実在、実像、魂。
bがそれぞれの世、次元を規定する条件、法則。
cを現象界と読み替える。
あなたはいま全てを超越して外からこの様子を見ていると想像して欲しい。
cの世界の住人を含むありとあらゆる存在は自分の身体すらそこに実在すると思い込む。
万人が万人同じ条件下、法則下に置かれるのだから、全員同じように「錯覚」するのである。
長方形が膨らんでいると誰もが信じて疑わない。
唯物主義者などはこの範囲の中で唯物論を展開する訳である。
例えば
「本当はまっすぐだって?馬鹿なことを言うんじゃない。この図形は『科学的に考えて』膨らんでいるんだよ!誰がやっても同じ結果になる再現性のある科学なんだよ。しっかりしてくれよ。」と。
しかし、長方形が本当は膨らんでいないと、外から見ているあなただけは知っている。
aという進化する実在、cを支え、規定するbという実在、
そしてcという進化を実践、促進する場、実在ではないホログラフィックな仮の場、「修行の場」である。
相対世界なのだから当然、善と悪、陰と陽など対極を為す基本モデルで構成される。
善と比べるから悪があり、悪と比べるから善がある。
陰と比べるから陽があり、陽と比べるから陰がある。
光が当たればそこに必ず影ができ、光が消えれば影も消えるではないか。
善が強さを増せば、悪もそれだけ強くなる。この善と悪は一体何なのだろうか。
昔、良寛和尚が足を洗った鉢で顔を洗い、水を飲み、食事をしたりするのを見て、衆生は汚くないのかと尋ねた。
良寛和尚は
「どこからが汚くてどこからが汚くないのか?」
と問い返したという。
どれが悪どれが善、どこからが悪どこからが善、
どこまでは許せるどこからは許せない・・・人はどこかで線引きをする。
日月神示にも
「悪抱き参らせて進むところにマコトの弥栄あるのざぞ。」
「悪は悪ならず、悪憎むが悪ぢゃ」などとある。
シルバーバーチャンなりに解釈すれば、何かしら「善」らしいものとの比較において「相対的に悪」でしかないのに、「絶対的に悪」であると烙印を勝手に捺し、これを憎み、責め、咎(とが)める時、そこにあるのは烙印を捺された「絶対的な悪」ではなく、憎む、責める、咎めるというネガティヴな悪想念であり、それが悪なのであるといような意味になろう。
相対世界では「絶対」は何もない。
相対世界には存在しない絶対的善、絶対的悪を勝手に定義し、またその定義に自ら惑わされ悪想念を出すこと自体が悪だというのだ。
この道理をしかと覚れば、例えば病気は根本的に悪ではなく、病の本当の意味も理解できるように仕組まれているのである。
これが解る時、本稿の冒頭に述べた何十年来の慢性の病もあっけなく、または徐々に消えていくのである。
のじま医院院長野島政男院長の著作「意識が病気を治す」で言われている事も根本は全く同じである。
シルバーバーチャンが過去ログに
「どんなに正しい事でも、それを主張するために攻撃的想念を抱いた時には既に誤り」と書いたことと同義である。
端的に言えば『相対的でしかない善も悪も超越して正しく生きよ。』となる。
『正しく生きよ』とは、悪想念を発するなということである。
この悪想念の制御が不良惑星人と優良惑星人との決定的差異であると、このシリーズ第2回の冒頭に書いたはずである。
だが、現実はなかなか一筋縄ではいかない。
例えば「争わなければ今、目の前で命を落としそうになっている友を見殺しにすることになる」ような状況で、どんなに正しいことでも・・と涼しい顔をしているわけには行くまい。力に力で立ち向かう事は愚かなことだ。しかし、力に花(理想論)で立ち向かうのはもっと愚かな事だ。そういう事態も起こりうる事も念頭に置いておかねばなるまい。一進一退しながら、思い悩みながら、進むが学びの道であるのだ。
「どんなに正しい事でも、それを主張するために攻撃的想念を抱いた時には既に誤り」は単に文字で表された情報であり、知識でしかない。
「知っている」と「出来る」は似て非なるものである。
事に中(あた)って、ケースバイケースで「出来る」を自らつかみ取って行くしか自らの学びはない。他人が代わりに学ぶわけにはいかないのである。
シルバーバーチャル星人もベガ星人もプレアデス星人もどの優良惑星人においても、その高度な精神文明構築までの長い永い戦いの歴史は他でもない己の否定的想念との戦いの歴史だったのである。
この己との戦いに勝利した時、少なくとも精神感応力は必然の能力としてその惑星人万民の属性となるのである。
その後の精神文明、科学文明の発達とそれらの自由度の劇的な向上は加速度的に進むことを約束されるのである。
本日、これまで。
シリーズ『シルバーバーチャル星人の生活』
第4回予言のメカニズムへ
地球人類(その魂)の進化・向上のため避けて通れない清算である一大天譴と、
存在するかも知れない(としか今は言えない。存在しないかも知れない)フォトンベルトとの関連を取りざたされるアセンション(次元上昇)の頁に入る前に、想念波動の整理をしてみたい。
〔話は彼方此方に飛ぶが、全ては何もかもつながっているのでどうしてもこういう傾向になってしまう。ご海容の程。〕
存在するかも知れない(としか今は言えない。存在しないかも知れない)フォトンベルトとの関連を取りざたされるアセンション(次元上昇)の頁に入る前に、想念波動の整理をしてみたい。
〔話は彼方此方に飛ぶが、全ては何もかもつながっているのでどうしてもこういう傾向になってしまう。ご海容の程。〕
想念とは何か
2005年現在ここ数年の「成功法則」絡みの書籍はちょっとネット検索するだけでもウンザリするほどヒットしてくる。

大多数は技術論と精神論のカクテルだ。
精神分野に関しては単なる心構えから自己催眠、他者催眠、イメージトレーニングなどの願望達成方まで様々語られているが、どれも昔からある潜在意識活用法の焼き直しだ。
潜在意識には善悪の判断はつかず、強くイメージして描いたものは必ず実現するという誠に都合のいい話だ。
一部は正しいが一部は正しくない。
全面的に正しいなら、この世は成功者ばかりとなる。
ご都合主義で自分勝手な成功者ばかりになり、物欲、所有欲の権化(ごんげ)が幸福と自己満足を履き違えて闊歩するはずだが・・・。
まあ、その効果はさておき、想いが潜在意識層に蓄積されるという側面は事実である。過去のトラウマが原因で慢性的に病状を呈していたものが、催眠療法などで自分でも忘れていた過去を思い出し、号泣したり、納得したりすると何十年来の病苦からあっさり解放されてしまったりするのは今時流行りの「癒し」の世界ではもはや常識となった。
精神的病苦のみならず、肉体の症状も雲、霧のごとく消散する。
「想念」が心と体を支持する元の要素なのである。
退行催眠中に語られる内容が真実であるか否かは別として、潜在意識層に巣食っていた抑圧された感情を爆発、崩壊、解放させると何故か病気が治る。
物凄く強い信念は思い描いた現実を引き寄せることが出来る。
物凄く強い信念でなければならない。
若しくは一人一人は弱くても、大勢集まると集合体として想念が強化される。
「百匹目の猿」や「形態形成場理論」と根底を同じくする。
問題はその想念を発する集団の心の清まりの程度である。
心の清まりが足らない者が集団にて一斉に想念を発すると、それは悪想念の塊であるため、気象は勿論、戦争惹起まで影響する。
ジハード(聖戦)を旨とする国や地域では殺し合い、戦争の絶え間がない。単に宗教や文化の問題だけではないのである。
そして蓄積された想念が臨界点に達すると何らかの形で崩壊せざるを得なくなる。
現象界(形而下)に具現化してくるのである。
地球人の祈りが、特に大集団によって一斉になされる祈りが危険なのはこれが理由である。
条件さえ揃えばいつでも怒り、恨み、妬み、責め、攻撃し、焦燥感に揺らぐ心を持つ地球人が、そうしたネガティヴな素地を内包したままでは、仮令(たとえ)それが「平和の祈り」であっても、集団で想念を発することは惑星地球にとって大変危険なことなのである。
想念波動に清まりの足りない者が、想念を発すれば平和の祈りであっても、業想念層に負のエネルギーを蓄積することになる。
平和の祈りや宗教で有史以来人類が平和になった試しがない。
平和を願い、平和を声高に一心に唱えながら知らぬ事とはいえ負の想念波動を発しているのだから、むしろ世界は一層の混迷へ向かって加速していくのも不思議ではない。
一心不乱に祈ることは大変危険なことなのであるが
地球人の多くはこのことにまだ気付いていない。
個人的治病のための祈りにおいても、肉親の祈りは治ることを祈りながらも、最悪の事態も想起して祈ることが多い。肉親だからこそ特に心配する心が強く働くため、(その心中を察しはするが)却(かえ)ってその心配どおりに事が運んだり、思わぬ悪しき結果を招いたりする。
祈りに関する実験では遠く離れた地で、その患者とは全く面識もない試験グループに治病の祈りを一定期間させた方が統計的に好ましい結果を生むという。
血縁関係にもなく面識もないため、その祈りには要らぬ欲が混載されていないからであろう。
肉親だからこそ心配してしまうのは、厳しい言い方だが

「自分か自分の家族さえ良ければ・・」
の我欲の心の表出である。
しかし人には同朋を愛したい心も、
一なる創造主の一部(分け御魂)である以上、心の奥の奥には必ずある。
他人の誰であれ治ることを祈る気持ちに愛念が宿るのも自然なことである。
これが肉親となると我欲ゆえに途端に心配心が強く働き、
却って悪しき結果をもたらす。地球人の弱さの所以である。
これが想念と呼ばれるものである。
潜在意識層、ユング的に言えば集合無意識層に蓄積された特に負の想いを業想念という。
では、想念や記憶はどこに蓄えられるのか。
潜在記憶にしろ、顕在記憶にしろ、脳細胞一つ一つに対応して格納されているわけではない。
3Dなど光の照射で立体像を浮かび上がらせる技術やそれを転用してエンタテイメント、アミューズメント装置・施設は一般にもよく知られるようになったが、このホログラフ技術は、直交変換の一つで(直交変換は数学が得意な方ならよく解ると思います)、物体にレーザー光線を当てて反射した光とレーザー光線との干渉縞をある種のフィルムに記録して規則性のある模様を作る。
このフィルムにレーザー光線を当てると元の物体の立体像が浮かび上がるのだ。
このフィルムを半分の大きさに切っても、
5分の1の大きさに切っても、
100分の1でも、
レーザー光線を当てると立体像が一部も欠けることなく完全な形で浮かび上がるのである。
もちろん小さくしただけその立体像は不鮮明になっていく。
フィルムのこの部分の情報を失ったので立体像のこの部分がごっそり欠けたというものではない。
脳の記憶とはこれに似ていて、ある細胞が死んだので、
そこに記憶していた情報がなくなったというものではない。
もしそうなら自分の名前が記憶されている一個の細胞が死ぬと、
自分の名前は永遠に思い出せないことになる。
病院のリハビリなど全く意味がないことにもなる。脳細胞は一日に10万個死滅するといわれている。とすれば一日10万個の情報を忘れていくことになるはずだがそんなことはない。たった1日で10万個忘れるとするなら、その10万個の中には、歯ブラシという単語、妹の顔、ボールペンの使い方、信号機の色の意味などが含まれる可能性は相当に高い。
例えば信号機の色の意味を保持している細胞が、さっき信号を渡った時には生きていたが、今死んでしまったので次の信号が赤なのに渡ってしまうなど危険極まりない世界で生きていかなければならなくなる。しかし、現実は不鮮明だったり、おぼろげ、曖昧な記憶になることはあっても、痴呆などの明らかな疾患でなければこのようなことはない。記憶の本質は脳細胞に保持されているのではないのだ。
喩(たと)えだが、DVDのデータディスク(記憶そのもの)に問題がなくても、再生機器(脳)に故障など問題があれば何も再生できないように、脳は記憶を記録、再生するマシーン(レコーダ、プレーヤー)であり、記憶自体はその記憶に付随する「感情や想い」をも伴って「別の場」(DVDディスク)に保持されている。ここでは、これを顕在・潜在両意識層という記録層だとしておこう。
意識層であるため、脳細胞をふくめ肉体を失っても(死んでも)その記録は消えることはないのである。
脳障害で記憶を失うのは、記憶そのものを失うのではなく、

記憶を「再生する機能」を失ったということなのだ。
記憶内容が脳内にではなく意識層にあるなら、この世に強い執着を残した者がいわゆる成仏できない理由は、記憶と共に強い想い・感情を意識層に抱えたまま肉体を失い、意識層は残るので強い執着を持ち越してしまうからである。
(だからこそ記憶の記録・再生機能である脳がある内に、つまり肉体をもって生きているうちに学び、気付くことが重要なのである。ネガティブな想いを意識層から出来る限り解消しておかなければならないと広く言われている訳である。そのための日常生活であり、自己分析であり、内省であり、修練なのである。
その条件として用意された環境と日々の出来事なのである。)
波動とは何か
冒頭から業想念というキーワードを使用してきたが、想念という言葉を聞くと、急に玉石混淆の精神世界論の響きを連想してしまうが、それが嫌なら波動と言い換えることが出来る。
玉石混淆(ぎょくせきこんこう):玉と石、本物と偽物が混在していること。広辞苑によれば〔優れたものとつまらないものとが入り混じって区別がないこと〕。
大宇宙に存在する全ては有形・無形問わず全て波動である。
振動といってもハズレではない。波動で「出来ている」と表現する者もあるが、これはおかしな表現である。
原子や分子などの極微の物質が寄り集まって、肉眼で認識できる物体がそこに存在するように、波動で「出来ている」というと、波動という極微の物質のようなモノだと感覚的に勘違いされそうである。
波動はモノではないバイブレーション、振動、周波であり、エネルギーそのものだ。
地球人が可視光線と呼ぶ光も、不可視光線である赤外線も紫外線も、そこの椅子も机もボールペンも扇風機も、地球という惑星もそして「あなた」も波動である。
「私が波動?波動ねぇ。
解ったような解らないような・・。」
ではあなたは何だろうか?
細分化していけば、自分が各種元素の分子・原子となることぐらいは現代地球人なら誰でも知っている。
では原子までバラした後はどうなるのか。
ただの原子の塊がどうして「あなた」という形を保ち、動くばかりか、泣き、笑い、怒り、恐怖し、記憶するのか。あなたとは誰である以前に何なのか?
あなたの肉体は究極的には物質の性質を持ってはいるが物質ではないのである。
量子論(りょうしろん)を少しかじったことがあるなら直ぐにピンと来るであろう。
「物質は粒(つぶ:原子)の性質と波(なみ:波動)の性質を持っている。」
としている。(本当は物質は粒である筈がないのだが、地球の量子論を引き合いに出して記述を続けるので、ここでは粒ということにしておく。)
そして物質の究極は物質ではない」これが現代地球の最先端物理学が解き明かした成果である。
(量子論は、実は確立解釈、不確定性原理や波動力学などの物理学理論を一つにまとめた理論である。
「理系」の学生でも量子論は大変難しいが、もしあなたがどちらかというと「文系」タイプであったとしたら、むしろそれは朗報である。
量子論を肴に口角泡を飛ばして議論する立場にない文系のあなたは、理屈ではなくイメージと感覚でそのエッセンスだけを頂戴すればいいのである。
現にその恩恵は大きい。
今や地球人の必需品となった携帯電話も、この量子論がなければこの世には存在していないのだから。
興味のあるあなたにはこの一冊
「量子論」を楽しむ本
ミクロの世界から宇宙まで最先端物理学が図解でわかる!
もしあなたが量子論を『量子(りょうこ)さんに関してああだこうだと議論をする話』だと思っていたとしても大丈夫である。この一冊のどこにも『量子(りょうこ)さん』は登場しないはずだし、この一冊で少なくとも量子の概念を感覚として捉えられること請け合いであるからだ。
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尚、地球では量子ジャンプが量子論最大の謎とされる。
原子核の周りに数個の軌道を持って電子はその軌道上を回転しつづける。
電子が外側から内側の軌道に移ると、電子はエネルギー(=光)を放ち、内側から外側の軌道に移る時はエネルギーを吸収する。
地球の量子論では電子が遷移(軌道を移動してエネルギーを放出、吸収すること)したことをまだ捉えることが出来ず、軌道間を電子が瞬間移動したことが理解できていない。実はこれそこが物体の瞬間移動を可能にする大いなるヒントだというと地球では未科学の部類で、「トンデモ科学」と揶揄されるにちがいない。
(因みに戦艦エルドリッジの瞬間移動実験として知られ、アインシュタインも現場に居合わせたとされるフィラデルフィア実験は、全くのデッチ上げである。)
有形・無形問わずエネルギーであり、
波動である
・・・つまり無形の想念はエネルギー、波動そのものなのである。
以後想念波動として表記する。
さて、この個々人とその総体である想念波動の在り方によって、
今後惑星規模で地球人が体験する一大天譴とアセンションの様相が
随分と異なってくる。
次回は一大天譴を大難から小難へと緩和し、アセンションをより穏やかに迎える本題に入りたい。前後するかもしれないが、予言と未来確定のメカニズムにも触れるつもりである。これらのいずれも、想念の作用抜きには語れないのである。
ここで少し寄り道をしていこう。
「根本的悪は存在しない。現象界は相対的に仕組まれている。」
という話である。
突然だが色とは何だろうか?
赤色とはどんな色だろう?
白色とはどんな色だろうか?
今ここに赤と白とチョコレート色のパッケージをしたアーモンドチョコレートの箱があるとしよう。あなたはそれを車に乗せて未明からスキーに出かける。ダッシュボードに置かれたアーモンドチョコレートの箱はやっと昇ってきた朝日に照らされ、赤と白の基調色に写真のチョコレート色を鮮やかに浮かび上がらせた。
山間を縫うように走るあなたの車はやがてトンネルに差し掛かった。
トンネルの中の照明は、その透過度を上げるためオレンジ色の光線を放っていた。
そのオレンジ色の光線を浴びてチョコレートの箱の赤色、白色、チョコ色はそれぞれ極めて濃いグレー、オレンジ色、黒色に見えている。助手席に座っている友人が「トンネルの中って、なんか別世界だよねぇ。」と言った。
明るいメタリックシルバーの車体のボンネットはオレンジ色の光線を受けて、何とも形容しがたい奇妙な色に輝いている。車体に映るオレンジ色の照明は飛ぶようにボンネットを後方へ流れていく。あなたはそれを視野の端で捉えながら言った。
「そうだな。別世界だな。照射する光、つまり条件が変われば見えているものまで変わっちまうんだからなぁ。」
すると友人がこう続ける。
「じゃあ、本当の色はどっちなんだろうなぁ。」と。
あなたは友人のその一言にハッとする。
「本当の色?…そりゃぁ、赤…ん?本当の色かぁ?何だ?」
2秒ほどとまどった後、あなたは友人に洪水のように説明し始める。
「お前、今本当の色って言ったよな。本当の色なんかないんだよ。
条件が変われば色なんてどうにでも変わるじゃないか!
青の光ならどうだ?ピンクの光なら赤色はどう見えるんだ?チョコ色は?
…そう考えると俺たちが見ている世界は条件さえ変わればどうにでも変わってしまう世界なんだよ!
この太陽光の下では赤色と俺たちが呼んでいるあの色に見えているだけで、
それは表現のほんの一例って事になる。
《赤色なんて絶対色》は存在しないんだよ!
全て条件によって変わる相対的な色しか存在しないって事だ!」
あなたは少し興奮気味だ。
友人は「だからどうしたの?そんなことでそんなに鼻の穴膨らますなよ。お前、鼻毛見えてるぞ。」と、トンネルを抜けた明るい車内であくびをしながら素っ気ない反応をする。本当にはみ出しているかもしれない鼻毛を無意識に抜きながら、あなたの思考は回転を続ける。
「条件が変われば…か。今は色の話だが、そもそも俺の目が違う組織でできていたらどうなる?そうだ、犬はどうだ?犬にはどう見えてるんだ?他の動物はどうなんだ。昆虫なんか複眼だぞ。魚は魚眼と…どんな世界じゃ!まあ、何にしろ「絶対色」なんか存在しないって事だよな。待てよ。色だけじゃない。他の感覚だってそうじゃないか!硬い柔らかい、冷たい熱い 重い軽い…何かを基準にしてそう感じているだけで基準が変われば1グラムだって超重いし、地球だって超軽い。摂氏100度も冷たく、富士山だって低いって事になる。この世は相対的に仕組まれているんだなぁ。じゃあ、こう仮定できないか。現象は全てホログラフィックに存在している。感覚が条件で変わったりするだけじゃなくて、存在そのものが本当は虚構であり実在じゃないのかもしれないぞ。ちょっと行き過ぎか?まあ、いいや。」
助手席で寝てしまった友人に一瞥をくれて、
あなたはどんどんと思索の世界に分け入っていく。
「絶対って何だ?実在って何だ?」
量子論では物質の究極はもはや物質ではなく、波であり、振動であり、エネルギーである。また水素と酸素が結合すると水になる。
酢酸になったり、ポリエチレンになったりすることはない。
なぜだ?
そこには法則があるからである。
しかし水素も酸素も所詮究極は振動であり、エネルギーなのだから、物質としてそこにはないかも知れない。
確かに粒としての属性と振動としての属性を兼ね備えてはいる。
これらをまとめてみると、水素も酸素も究極は振動、エネルギーであり実在ではなく、動かし難く実在しているのは水素と酸素が結合すると水になるという法則そのものであるという事にならないだろうか。
水素、酸素に限らずこの現象界にあるありとあらゆる物質と現象は五感で感じられるもの「そこに在るじゃないか」といえるものは実像ではなく全て精巧に仕組まれたホログラフィックな虚像であり、それを支持する不可視のありとあらゆる法則こそが実在ではないのか。
数学を持ち出すまでもなく、算数で言えば足し算という目に見えない「決め事」が実在で、その「決め事」の結果どんな数字の組み合わせでも計算でき、目に見える結果は様々に変化する、と喩えられるかも知れない。
地球人類の歴史も法則発見の歴史であった。
地球人類がある法則を発見したからその法則が存在するのではなく、発見する遥か以前から、人類が存在しようが存在しまいがその法則は実在したはずである。
今後、特に量子論やまだ確立されていない超ひも理論の延長上にとてつもない法則の発見があると、従来不可能だった科学技術が実用される事は容易に予想がつく。単に地球人類が未だ発見できていないだけの法則、即ち実在が山ほど在るに違いない。その実在の応用により、それまではこの現象界に無かった現象、即ち虚像を生み出すこともできるのであろう。
ところでいわゆる「この世」が虚構で、「あの世」が実在界だとする考え方があるらしいが、これは誤りである。「この世」には物質、「あの世」には霊質とでもいうべき要素があり、共に物質、霊質を規定する法則が物質、霊質を支持しているのである。
あの世もこの世もどこの世においても、実在は法則と全宇宙、全次元に偏在する大いなる思惟だけである。(その分け御魂である「あなた」の魂も実在であるのだ。)その分け御魂の進化・向上の為に用意された物質世界であり、霊質世界なのである。
現界の住人にはこの物質界が実在のように感じ霊界をつかみ所のない世界と捉え、霊界の住人にはその霊質界とでもいう世界を実在のように感じ、現界をつかみ所のない世界と捉えているが、現界も霊界も(時間や空間までも)実在ではなくホログラフィックに存在している虚像の世界なのである。
実在は一なる創造主とその分け御魂であるあなた自身(肉体ではない)であり、霊界も現界も含めいかなる次元時空間もそれを支える法則が実在なのである。そうした実在であるかのように感じる虚像の世界の中で、存在は肉体かそれに相当するものに宿り、それぞれの次元にてそれぞれの条件下で、魂の進化・向上の道を、生成流転、輪廻転生しながら進んでいくのである。
実在は魂であり、現界も霊界も虚像なのである。
これを般若心経的に言えば「色即是空、空即是色」となろう。
「色」とは現界や霊界の物質や霊質であり、「即是空」(すなわちこれ空である)の「空」は法則と喩えられる。
すなわち物質、霊質を支える法則という見えないものだといっているのだ。
また反対に法則があっての物質、霊質の現界、霊界であるのだと言っているのである。
この色即是空を、「色」は現界、「空」を霊界とする喩えを見かけることがあるが、何度も言うように現界も霊界も共に「色」即ち現象界であり実在界ではない。
「空」即ち実在は一なる創造主とその分け御魂であるあなた自身と宇宙一切を創造主の経綸下に治める法則なのである。
下はシルバーバーチャンが高校生の時、現代国語の先生に笑われた図である。
その先生は、教室のドアにはまったガラスをコンコン叩きながら、「(見えないものこそ存在し、見えてるものが)存在してないって?あるじゃん、ここに。ほれほれ、ここにあるじゃん。」シルバーバーチャン、お前はアホか?と困った顔をしていた。主旨は解ってもらえなかったようだ。

false_image aはただの長方形。
そこに、
bという条件が重なると
cのようにもとの長方形が、定規を当てるとまっすぐなのに、膨らんで見える。
よくある錯覚である。

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そこに、
bという条件が重なると
cのようにもとの長方形が、定規を当てるとまっすぐなのに、膨らんで見える。
よくある錯覚である。
これを aが実在、実像、魂。
bがそれぞれの世、次元を規定する条件、法則。
cを現象界と読み替える。
あなたはいま全てを超越して外からこの様子を見ていると想像して欲しい。
cの世界の住人を含むありとあらゆる存在は自分の身体すらそこに実在すると思い込む。
万人が万人同じ条件下、法則下に置かれるのだから、全員同じように「錯覚」するのである。
長方形が膨らんでいると誰もが信じて疑わない。
唯物主義者などはこの範囲の中で唯物論を展開する訳である。
例えば
「本当はまっすぐだって?馬鹿なことを言うんじゃない。この図形は『科学的に考えて』膨らんでいるんだよ!誰がやっても同じ結果になる再現性のある科学なんだよ。しっかりしてくれよ。」と。
しかし、長方形が本当は膨らんでいないと、外から見ているあなただけは知っている。
aという進化する実在、cを支え、規定するbという実在、
そしてcという進化を実践、促進する場、実在ではないホログラフィックな仮の場、「修行の場」である。
相対世界なのだから当然、善と悪、陰と陽など対極を為す基本モデルで構成される。
善と比べるから悪があり、悪と比べるから善がある。
陰と比べるから陽があり、陽と比べるから陰がある。
光が当たればそこに必ず影ができ、光が消えれば影も消えるではないか。
善が強さを増せば、悪もそれだけ強くなる。この善と悪は一体何なのだろうか。
昔、良寛和尚が足を洗った鉢で顔を洗い、水を飲み、食事をしたりするのを見て、衆生は汚くないのかと尋ねた。
良寛和尚は
「どこからが汚くてどこからが汚くないのか?」
と問い返したという。
どれが悪どれが善、どこからが悪どこからが善、
どこまでは許せるどこからは許せない・・・人はどこかで線引きをする。
日月神示にも
「悪抱き参らせて進むところにマコトの弥栄あるのざぞ。」
「悪は悪ならず、悪憎むが悪ぢゃ」などとある。
シルバーバーチャンなりに解釈すれば、何かしら「善」らしいものとの比較において「相対的に悪」でしかないのに、「絶対的に悪」であると烙印を勝手に捺し、これを憎み、責め、咎(とが)める時、そこにあるのは烙印を捺された「絶対的な悪」ではなく、憎む、責める、咎めるというネガティヴな悪想念であり、それが悪なのであるといような意味になろう。
相対世界では「絶対」は何もない。
相対世界には存在しない絶対的善、絶対的悪を勝手に定義し、またその定義に自ら惑わされ悪想念を出すこと自体が悪だというのだ。
この道理をしかと覚れば、例えば病気は根本的に悪ではなく、病の本当の意味も理解できるように仕組まれているのである。
これが解る時、本稿の冒頭に述べた何十年来の慢性の病もあっけなく、または徐々に消えていくのである。
のじま医院院長野島政男院長の著作「意識が病気を治す」で言われている事も根本は全く同じである。
シルバーバーチャンが過去ログに
「どんなに正しい事でも、それを主張するために攻撃的想念を抱いた時には既に誤り」と書いたことと同義である。
端的に言えば『相対的でしかない善も悪も超越して正しく生きよ。』となる。
『正しく生きよ』とは、悪想念を発するなということである。
この悪想念の制御が不良惑星人と優良惑星人との決定的差異であると、このシリーズ第2回の冒頭に書いたはずである。
だが、現実はなかなか一筋縄ではいかない。
例えば「争わなければ今、目の前で命を落としそうになっている友を見殺しにすることになる」ような状況で、どんなに正しいことでも・・と涼しい顔をしているわけには行くまい。力に力で立ち向かう事は愚かなことだ。しかし、力に花(理想論)で立ち向かうのはもっと愚かな事だ。そういう事態も起こりうる事も念頭に置いておかねばなるまい。一進一退しながら、思い悩みながら、進むが学びの道であるのだ。
「どんなに正しい事でも、それを主張するために攻撃的想念を抱いた時には既に誤り」は単に文字で表された情報であり、知識でしかない。
「知っている」と「出来る」は似て非なるものである。
事に中(あた)って、ケースバイケースで「出来る」を自らつかみ取って行くしか自らの学びはない。他人が代わりに学ぶわけにはいかないのである。
シルバーバーチャル星人もベガ星人もプレアデス星人もどの優良惑星人においても、その高度な精神文明構築までの長い永い戦いの歴史は他でもない己の否定的想念との戦いの歴史だったのである。
この己との戦いに勝利した時、少なくとも精神感応力は必然の能力としてその惑星人万民の属性となるのである。
その後の精神文明、科学文明の発達とそれらの自由度の劇的な向上は加速度的に進むことを約束されるのである。
本日、これまで。
シリーズ『シルバーバーチャル星人の生活』
第4回予言のメカニズムへ
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この改行は必要→
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